常には他人の子供の面倒を見ている教員も、人の子であり、親である。
子供を持てば、他人の子供と比較する。教員は、この傾向が強い。
他人の子供、中でもとびきり出来の良い子供と、自分の子供とを比較する。声には出さないが、内心で比べて、安堵したり、悲しんだりする。
教員もいろいろで、だから親もいろいろで、従ってその子供もいろいろである。
教員の子供は、学業については、できる子が多い。悪い話は、あまり聞こえてこない。
しかしこれは、自慢の息子や娘の話は吹聴しがちなので、他人の知るところとなっただけである。不味いことは、言うわけがない。
教員の子に、できない坊主が、たくさんいるだろうことも、容易に想像がつく。
教員は、仕事柄、多くの子供を見てきている。だから、自分の子供の成績が不振だと、辛くてたまらない。うちの子に限って、どうしてできないんだと、臍をかむ。子供も、親の気持ちを知って、余計に悪くなる。
こうなると、自分の子供より、他人の出来の良い子のほうが可愛くなる。これも、子供が感づいて、なおさら、ふてくされる。
どうにもこうにも仕方がない。不幸の連鎖である。
そんな教員の、その親もまた、教員であることが多い。
自分は勉強がよくできた。よくできることを、親から期待され、強いられた。そして、事実、成績は常によかった。親の希望通り、教員にもなった。それなのに、なぜ、私の子は、勉強しないのだろう、できないのだろう、と悩む。
繰り返すが、教員間で、子供の噂は、できる子の話ばかりが流れてくる。
有名高校から東大京大一ツ橋なんてざらである。医者に、ごろごろ、なる。教員にも、うじゃうじゃ、なる。
そんなかで、学業がさっぱりだ、名前の知られていない高校だ、大学浪人だ、就職浪人だ、では形にならない。
これが教員の悩みとなっている例が、案外、多いのである。
荷風は、人の親にならなくてよかった、子供ほど悩みの種はない、と書いた。同感の人も多いことであろう。
さて、そうではあるが、人の幸不幸は、苦しみの中にあるという。
子を持ち、育てることは、親にとっては、ある種の不幸を背負うことにもなる、しかし、それは幸福の鍵でもある。
若く外見の綺麗な頃や、元気闊達で、まだ将来があると勘違いしていられる頃は、独身であっても、「孤独」の恐ろしさが体感できない。
男女を問わず、40代を過ぎてくると、独り身が辛いと、こぼす人が多い。
早死にする確率も高い。
人は老いたら、否、若くても、独りっきりは辛いものである。孤独は、身体のみならず、精神をも蝕む。
だから、人は他人を求め、集団に帰属することを欲する。
それは気持ちが弱いから、精神力が脆いから、と断ずる人もいる。
左様、いかにも、人の気持ちは弱いものである。
我が父上母上は、自分という不詳の息子がいなかったら、どんなにか晩年が幸福であったろう。と、荷風は書いている。
涙なくしては読めない。荷風は厳格な父から高級官吏となることを期待されたが、戯作者になって放蕩した。荷風は、それが、ずっと心にあったのだろう。
とはいえ、私たちは、そのおかげで、日本語の、卓越した美しい文章を読むことができる。
子は親の意に反しても、子の道を行く。それは多くの場合、結果を見ると、正しい選択と言えそうである。