ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

剽窃、無断引用、盗用が得意な大学教員。良書は、公共図書館の書庫に眠っている。

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大学教員はインテリということになっている。しかし日本の大学教員は、教員としての能力がない、または著しく不足している。
それなら、研究者としては、通用するのか。理系はともかく、文系は言うも哀れ、語るも涙である。何ら新しい発想がなく、時間つぶしのごくつぶしである。

能力不足は、どこで補うのだろう。ごまかし以外にはない。または、目立たぬように生きるしかない。
多少の野心のある、勘違いな教員は、駄文を書いて、本をでっちあげて、自他ともに認められたい、認められるだろうと、自分を売り込むことに執心する。

いちいち実名を挙げるのは、面倒であるが、筑摩書房に「ちくま新書」という新書シリーズがある。すでに1300点以上出ている。その中で、大学教員の肩書を持つ著者のものに、内容空疎、いい加減で出来損ないの類が多すぎる。
たとえば、著者が地方の某大学長という肩書で、古くは渡部某が講談社新書でヒットさせた著作に類似した書名のものなど、書名と中身とが一致しない。所属校の宣伝と、自慢と愚痴とが満載で、あちこちからの引用と、断片的な思い付きとの合体である。これを人様に読んでいただこう、売りつけようなんて、失礼である。時間と金銭との損失で、怒りすら覚える。
岩波新書も似たようなものだといいたいが、ここまでひどくはない。筑摩編集部の見識を疑う。

研究業績を上げることができない大学教員は、職を辞すなり、学生の基礎的な学力向上に専念するなりで、給料分の一部でもカバーすればいいものを、売文で目立って、小遣い稼ぎや業績扱いをもくろむとは、見下げはてた根性である。

大学教員は、学内でぬくぬくしていて、現実の経験がない。文章を書こうにも、ネタがない。他人の物まねで、ごまかそうとする。
教育系学部の教員は、現場教員の言説を剽窃する。文学学部系の教員は、横のモノを縦に翻訳して、自分のオリジナルなふりをする。一知半解の引用で、読み手を煙に巻こうとする。わけのわからない「専門」をでっちあげる。今や、大学教員の数だけ、研究領域、専門分野がある。

日本のスカスカ大学をとりあえず卒業して、学歴ロンダリングのために、アメリカその他外国の大学へ「研究員」とやらで、「留学」する。そこで一年か二年遊んで、日本へ帰ったら、一つ二つ大学をうろついて、晴れて大学教授である。おめでとう。
そんな輩の中で、特に自意識過剰で目立ちたがり屋の者は、下手な作文を、出版社の担当編集員に直してもらいながら、なんとか、新書くらいの分量を埋める、または「語る」。自分でも意外の出来なので、気をよくして、本人は、「研究者」「作家」気取りである。笑止である。

他人の考えを盗んで、自分のモノのように書くことは、大学教員の得意芸であるが、他人にはわからなくとも、盗まれた当人には、わかりすぎるほどわかる。
オリジナルなのか、剽窃盗用の類なのかは、いずれバレル。それまで売ればいい、物量でごまかせばいいと考えるのは、商売人の発想で、もはや研究者でも、まして教育者でも何でもない。これを別名、日本の大学に巣食う教員の見本、能無しというのである。


ところで、筑摩もいい出版社だった。世界文学全集は、活字が小さいけれども、しっかりした装丁で、重宝したものである。河出のモノは、活字がもっと小さく、コンパクト過ぎて読みづらかった。いずれも翻訳が玉石混交なのは、仕方がない。

岩波は個人全集が多い。荷風鴎外は岩波である。装丁は上手い。
しかし、いまどき、全集を読む人はいるのだろうか。公共の図書館の書庫に眠ってはいまいか。

 

 〇 気に入った作家は、全集で。箱を捨てて書棚に並べればそれほど場所をとらない。

荷風全集〈第16巻〉つゆのあとさき・荷風随筆