ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

悩む教員と嗤う教育産業。授業は教科書とノートとがあれば足りる。

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悩む人は悩むもので、ことさらに仕事を難しくする。これは、半ば習性または性格、あるいは悪癖であろう。
国語科の授業は、教科書とチョーク1本で済むものを、やたらとピント外れの予習や準備をする。プリントを多種大量に刷りまくる。自作プリントというらしい。どこが自作なんだろう。手本は、教科書用指導書、同じく各種参考書、問題集とやらである。
白目をむいて、ご本人自ら解いて、解答を参照し、説明を読み、またしても、切り貼り印刷、または本文丸ごとそのままワープロで打ち込んで作り上げる。
バカバカしくって、見てはいられない。

あのな、授業は、子供の実力を上げてやればいい。それが学校教育の目的である。他学級の期末試験の平均点の結果を比較して、一喜一憂したり、どのクラスの誰それが最高点だったと、同僚に対して、傲慢になったり卑屈になったり、妬んだり憎んだりすることではない。
どうせ、できる子供は、教員が足を引っぱっても、または特に目をかけたとしても、できる。反対に、しない子できない子は、それなりに頑張る、または怠ける。教員ごときが、なんでも、自分で左右できると思うのは大間違いである。

授業は余裕と才能と機知とで、行うものである。それができてこそ、プロの教員で、できなければ、ただの素人である。
ところが、ここに困難な問題がある。

全国の教員の9割以上は、上記の意味で、素人である。素人は一挙に玄人になることはできない。だから他の方法で、安直に玄人になろうとする。玄人のふりをしても、素人である。下手をして、怪我をする。それが教員本人だけならいいが、迷惑するのは子供である。小中高校生や大学生大学院生である。
大学大学院は、そもそも教員が、素人だから、まだいい。小中校のそれは、本人自身が教員だと勘違いするから始末が悪い。

大学教授は、自分自身を教員だと思ってはいない。それは正しい。あれは教員未満である。ご本人は、研究者だと言い張る。それも正しいかもしれない。某小学校低学年児童も、ニンテンドーの立派な研究者である。だったら、同様な意味で、大学や大学院の教員も、研究者の端くれである。
小中高校の教員は、自分自身を教員であり、先生だと、本気で思う。これは、本人にとっても悩ましく苦しいことである。
少しばかりの余裕も、かなぐり捨てて、火になる。燃料も僅か、素材も脆弱なのに、燃え上がると、あっという間にしぼんで消える。有害物質をまき散らす。

かつて、小中高等学校の教員は、教科書とノートと辞書の類で、余裕の授業ができた。子供に教科の実力をつけることができた。児童生徒も、日々、授業で学力が向上している実感を持つことができた。
これはなぜだろう、どうしてそれが今日稀なのだろう。

もうお分かりだろう。
教育産業のあの手この手に、まんまとだまされたのである。
騙す方は、それが商売だから仕方がない。責任は、騙される方にある。教員自身にある。

なぜ騙されるのか、それはピアである。東京デートスポットである。彼女が喜びそうなレシピである。今日は何を着ていけばいいか、雑誌を見るのである。人から聞くのである。
他人に託すのである。
これだけ言って、理解できないのなら、分かりたくないのだろう。それならそれでもいい。

とはいえ、また話す。

 

〇 読んで、頭を冷やすがいい。

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