ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

傲慢な子供に、教えさせていただく教員。ペコペコするのも程がある。本を忘れて思い出す。

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どの社会でも、人間関係は難しい。
子供相手の仕事である学校教員も、同僚や教育事務所、行政他等の人間模様の中にある。

学校は、行事等で、多人数が一度に同じことをする。
実際には、「たいしたこと」はないのだが、それを「たいしたこと」と考える人間がいれば、大したことになってしまう。
これを「無駄」と言う。

だが、根が真面目な(あるいは真面目さをアピールすることの好きな)人間が多い職場だけに、無駄を無駄と考えることができない。
とことん、やらせていただく、というポーズをとる。
親も子も、教員のポーズに慣れてしまって、教員を召使と同列だと考える。
たまに、「普通」の対応をとるような教員が現れると、ぎょっとする。
逆上して、「この野郎、教員のくせして、頭が高い。児童生徒様、その保護者様、ということが、わからんか」と叫んだりする。
笑止な。

怪訝なのは、ここまで教員は嘲(あざけ)られても、唯々諾々と、馬鹿真面目を押し通すことである。
これは、「立派」ではない、「融通が利かない」のである。


子供に、はいつくばる教員が多い。
学問を教えているのである。教えさせていただいているのではない。受けるべき給金は当然である。数少ない優秀な教員にとっては、少額である。多くの教員にとっては、妥当または高額である。

仕事の実態は、サービス業だとしても、教員が謙虚すぎると、逆効果になる。何より、児童生徒学生が戸惑うだろう。


某日、某小学校での研究授業を見た。教員が、児童生徒に対して、馬鹿丁寧な言葉で話しすぎる。あれでは、子供が傲慢になる。
「ごめんね」「ありがとう」、あるいは、してくれた、言ってくれた、うなづいてくれた。
していただいている、と教員が思うなら、子供はつけあがる。勉強してやっているんだ、と勘違いしてしまう。

学習塾はもちろん、ピアノに水泳に習字にバレエの習い事、自家用車で父親や母親に送り迎えさせているのだから、学校授業も、子供にしてみれば、「してやっている」となるのだろう。
しかし、授業中、教員は、子供にお願いをする立場なのかどうか。
見苦しいほど、遜るのは、教員自身が、自らの授業や知識教養に、自信がないからだろう。だとしたら、努力して学び続けて、乗り越えるしかない。

教員は、気が細かく、頭が固く、面白みのない人間のように見える。この連中に囲まれていると、息が詰まる、またはうんざりする、と某氏が述懐していた。

しかし、教員は、開き直らなければならない。
親や子供を変えるのも、教員である。もちろん彼らの能力や生き方を、変えてやる必要なんかない、大きなお世話だろう。
第一、それを変える力が、教員にあるわけがない。
ここで言う「変える」とは、子供の学校内での行動についてのみ、変えることが可能だと言っている。子供を通して、その親も、わずかに変えることができるかもしれない。

学校外のことは親の領分である。
立派な「保護者」であるからにして、自分の「お子様」には、たぶん、きちんと躾をしているはずだろう。

校内では、教員は、自信をもって授業を進めてほしい。それ以外は、雑事であり、無駄と心得て、笑い飛ばすくらいの余裕がほしい。


さて、話は変わる。
当文章「ぱるるの教育批評」を、時折見るような奇特な人は、もうお気づきだろうが、本文の下の方で、本の紹介をすることがある。
参考というわけではない。本は、勝手に選んで、好きに読めばいいと思う。
それでも、問われることもあったりするから、私の読んだもので、良書またはそれに近いと思う本を選んだ。過去記事の下にも、おりおり追加しようと思う。
私は、アマゾンをよく利用する。本や趣味のものを買うが、とくに不満はない。

私は、本は読むかたから、ほとんど忘れている。この機会に少しでも思い出すことができるだろうか。ボケ防止にもなるだろうか。

 

〇 哲学概論がお好きなら、読むといい。明快である。