ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

でか目チワワの美女の群れ。ロボット化とコロナごっこ。

近所に大学がいくつかある。そのうちの一つだけが、図書館利用が可能になった。33か月ぶりである。
この間の俺の知的空白を返せ、と冗談を言いたくなる(半ば本気である)。

 

コロナごっこは児童生徒学生の、知的成長のみならず、身体的・精神的成長を、確実に阻害した。

いい加減に、コロナ遊びは、止めなければならない。

 

もっとも、マスコミや行政を中心に、コロナコロナと、騒いでいるほうが、気楽に儲かる仕組みになっているから、コロナを止めようという声は、消し去られている。

コロナをやめたくない、やめさせない。

止まらない爆走列車、コロナ進駐軍は、ワクチンの次は、飲み薬まで、大キャンペーンが進行中だ。


しかし、鼻風邪ごときに、右往左往の大騒ぎは、あまりに大人げなく、悪趣味である。

おそらく、コロナで騒いでいるのは、日本の、マスコミ行政医療関連だけでは、なかろうか。いつまでもどこまでも、見苦しい連中である。

 

それに何だろう、あのマスク集団は。
どこに行ってもマスクマスク、そりゃファッションの定着だと思えば、腹も立たないが、見ていて気持ちが悪い。まず若い女性の判断がつかない。どれもこれも全く同じに見える。
全員、美少女なのか。美女なのか。それとも。。


目の周りさえ、何とかすれば、すべて完了だろう。目元の化粧をバッチリと、でか目整形、マスカラ、アイシャドーにアイライン、ついでにカラコン挿入で、だれでもロボット化して、チワワぎょろめである。

みな同一人物に見える。誰もかれもが、みな同じ。よって、結局、意味はない。

ファッションの極意は、区別化というより、むしろ差別化にある。あなたと私は違うから、違う格好をしているのである。
流行に乗ることは、特権を捨て去ること。その多大勢の他人と同じで、いったい何が楽しいのだろう。


個性なんてあやふやなものは、あってなきがごとし、だから、せめて見た目で差をつける。ファッションの多様性は、あなたと私は別人格、別の個体であることを、識別して、とりあえずは違う存在であることを、表明するのである。

無限に続く人々の、せめてもの個別化手段なのだ。

 

コロナごっこは、顔表現までもコスプレ化する。笑える。。。。