ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

子供が見えている。現場の経験のない哀しさ。大学教員の生き方。

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「子供が見えているか」という言葉が、学校現場で一時期流行ったことがある。
教員は、実力はなくても言葉だけを先行させたがる。だから先輩面で、何か言わねばならないときに、こんな常套句が便利だったのだろう。
映画やテレビ画面ではあるまいに、何が見えるというのだろう。何を見るべきなのか、言ってる本人にも、もちろんわかってはいなかった。

好意的に解釈すれば、眼前の児童生徒の実態を把握しているのか、という問いであろうが、何かを見ることができればいいものではない。子供の何かを、わかることができるというのは不遜でもある。

「わかること」は自分の体験上、自分が同意できること、腑に落ちること、馴染むことである。
大学教員には、永遠に小中高等学校の現場はわかることができない。したがって、わからないことを、教育学部では、わかったつもりで教えている。

教育は経験がものをいう。未経験者は黙るほかない。
高校教員と小学校のそれとはまた違う。中学校の現場も独特である。
教育について、特に学校教育については、当該学校種の教員経験がない者は、何を言っても駄目である。噂話であり、無駄話であり、大嘘である。それでも、何とかごまかしが通用するらしいのは、自分自身が、昔は児童生徒であり、小中高等学校生活を曲りなりも送ってきたから、そこから類推するのであろう。哀れであり、姑息である。

教育学部の大学教員は、現場のことを知りたくてたまらない。哀しいかな、自分で小中学生を教える実力も勇気もない。そんなことをしたら、「馬鹿」が白日の下にさらされて、明日から構内を歩くことができなくなる。飯の食い上げである。
そこで、大学付属学校を時々覗いて、何かを得たいが、所詮傍観者である。言っていること書いていることに迫力がない。空論である。

無用であり有害でもある大学教育学部を廃止すればいいのであるが、そこはそれ、人情や打算で、この世は動く。あれもこれも、関係者にとっては、今のところ職業で、食うため生きるためである。大目に見てやれ。

さて、では大学教員は現実の教育について、どうやったら、知ったかぶりができるだろうか。また、実際に、知った風な生意気な口を叩くことができているのだろう。

それはね、ネタは教え子から取ってくる。
教育学部の学生は、卒業時には、企業の就職は難しくても、一応、教育学部卒の教育学士である。なんとか、教員になった者もいることはいる。その連中から、仕入れるのである。
他には、各学校はご丁寧にも、研究会と称するパーティを年に数回するが、恐れ多くも「指導講師」という名目で大学教員をお呼びするのである。一言の「ご指導」をいただくのである。馬鹿馬鹿しさも、ここに極まる。
大学教員にしてみれば、嬉しくてたまらない。大きな顔で、小中高の学校現場に忍び込める。仕事ネタを仕入れることができる。消えかかったプライドの火を、今少し燃やすことができる。

各学校の研究会が、結局は、現場教員に負担をかけるだけのイベントになっていることは以前話したが、教育事務所職員(教育庁教育委員会とやらの指導部や指導課の職員)や地元大学教員に、自己満足の活躍の場を与えるためのセレモニーであることも、知っておくがいいだろう。

現場教員に向かって、その経験も無い者が、子供が見えているか、などと宣うのは、百年早いのである。