ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

先生には尊敬と感謝。マスコミや政治屋とは扱いが違う。

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旅客来たりて嘆いて曰く。

子供が、親の期待通りまたは予定通りに育たなかった、あるいは、思うように伸びなかった。
だからといって、その原因または責任を、学校や教員に押し付けて良いものかどうか。
そんなこと、並の神経の持ち主なら、すぐにわかりそうなものなのに、それがわからない。

親だからである。
親と子とは一心同体のようなものである。親はわが子が見えないのである。したがって、自分の子供を、正面から見ることができない。

学校には、落ち着きがなく、いい加減で、宿題もやらず、集中力がなく、態度が悪く、何をやらせても中途半端で、友達にも迷惑をかけ、意地悪で、性悪で、ずるくて、怠惰な子供が必ずいる。
しかし、親はそれを認めない、認めたくない。
他人のせいにする。学校の、教員の、ご近所の、社会の、国家の、ついには、夏の暑さや冬の寒さのためだ、とでも言いかねない。

しかしである。
貴殿の息子や娘は、貴殿の実の子供である。一応、貴殿がここまで育て上げた。
その子が、学校に通って、ぐんぐん伸びると思うのか?
もちろん、伸びる、それはそうだ。教室でどんどん教われば、少しは伸びないわけがない。
でも、それでは不十分だと言うのか。
見上げた図々しさである。

親や子の図々しさが、これほどあからさまになったのも、教員に必要な権威がないからである。
地方の、まあまあ進学率の高い高校の教員が、中身以上の評価をされてしまうのも、困ったものだが、一般に小中学校の教員の「権威」は低すぎる。というか、ほとんどない。

小中学校の教員は、それなりの権威を持つどころか、地域の大人や、子供や親から、「監視され、判定され、評価され」る対象である。文科省以下、賑々しく喧伝している。

馬鹿にするにも、ほどがある。
教育は、人間の一生を決めることが多い。
人生の分岐点とまではいわないが、大事のひとつであるには違いない。
学校教育の中心は、教員である。教師であり、先生である。
恐れ多くて、親子は、教員の自宅の方角に足を向けて眠れないのではないか。

教員の中には、馬鹿もいることだろう。しかし、政治屋やマスコミ人ほどには、馬鹿は多くない。
仮にも「教員」である。たとえ馬鹿だとしても、普通の馬鹿ではない。意味のある馬鹿である。
だから、どんな教員に対しても、子供や親や世間は、幾ばくかの敬意と感謝とを、持たなければならないである。

そんな馬鹿な、と言いたいだろう。
言うがいい。

しかし、敬意と感謝とを持たないで、学校や教員へ応接しても、その結果はあまり良いことにならないだろう。

現実には、教員は弱い。「虫けら」ほどにも、弱い存在である。蜘蛛のようにはいつくばって、保護者や子供にまで、土下座をする。
親子は、教員をへこませて、鼻高々であある。不平不満の溜飲を下げたことだろう。

だが、それが教育だろうか。

感謝の念と敬意とをもって、教員へ接することが、結局は子供の得になる。子供を幸せにする近道である。そして、あなたもハッピーになることだろう。