ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

中学生、同級生を撲殺して川へ突っ込む。加害者と被害者の逆転

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

もう大方はお忘れだろうが、いじめられていた中学生が、自分をいじめた中学生を撲殺した上に、川の中に叩き込んだという事件があった。
完全に絶命しているのにもかかわらず、石を何度も頭に振り下ろし、顔を下にして川に突っ込んだ。
よほど相手が怖かったのだろう。生き返ってきたら、また、いじめられる。念には念を、入れた。

普段から、軽い喧嘩をしていないから、こうなる。想像力の欠如である。程度というものが分からない。やりはじめたら、とことんやってしまう。

ところで、一時、流行った、子供にとって都合のよい逃げ口上に、「切れる」というのがあった(キレル、とも書く)。
これを他人が言うのならまだしも、本人が真顔で言うのだから、笑わせる。
「~~なんて、言われたものだから、切れちゃって」などと使う。

馬鹿を言うな。紙の紐ではあるまいに、何が「切れる」だ。
自分には妙に甘えるくせに、自己の行動が他人へどういう効果を及ぼすかについての斟酌が、まるでない。想像力の欠如である。

かくなる原因のひとつは、テレビやゲームにある。

なぜそうなのか、すぐに思い浮かばないのなら、それもまた、想像力の欠如だと言えば、貴殿は怒るだろうか。

日本人は、子供を本来的に善とみている。
子供は可愛い、無邪気である、天真爛漫とまではいかないが、ともかく、邪悪な存在とは思わない。そして実際に、ほとんどの場合、子供は善意なのであろう。

学校教員は、子供を純真な天使と思いたがる。
教員が、子供に悪意を持って接することは、まずあり得ない。万が一、あったとしても、ごくごく例外である。
ならば、善と善とが邂逅したのである。まことにめでたい。

しかし、現実は、そう簡単ではない。

問題行動を起こす子供が、学級に一人や二人いても、それは構わない。子供が複数集まれば、様々な子がいる。当然である。
だが、問題行動の量と質によって、危険な結果になってしまう。
非常な暴力で、同級の子供に物理的心理的な損害を与える場合は、一年に一度のことだからといって、看過できない。
危険な行為が一月に一度、毎週、毎日、毎時間であるとすれば、どうするのだろうか。

子供には可塑性があるからとか、指導によって今後を見守ろうとかでは、全然間に合わない。
問題行動をとる子供には、他の子供の安全のために、即刻、対処しなければならない。
学校職員だけではなく、児童相談所、学校カウンセラー、地域の大人等と連携して、当該児童生徒学生を停学等となし、学級に近づけてはならない。

教員は、学級の全員に責任を持つ。
安全で円滑な教育活動を著しく妨げる要因は、厳しく排除しなければならない。それが、学級担当、教科担当を預かる者の権利であり、責務でもある。

以上の点が、日本の学校教育、特に義務教育期である小中学校では曖昧である。事態を冷静かつ的確に判断することを、避けている。
教員の指導力や地域の教育力や子供の家庭環境等に、原因の大半を押し付ける。問題行動をとる子供は、むしろ被害者なのだから、我々大人が、子供の気持ちを理解し味方になって、見守るべきだ、という結論になりやすい。

子供の暴力行為を性善説で割り切って、当人の性格や成育歴や家族の要因を、見て見ぬ振りをする。
簡単に言えば、親と家庭環境とを、無視し続ける。
悪いのは学校であり、教員であり、学級の子供たちだ、ということにする。
いつの間にか、加害者が被害者となって、問題行動の常習犯は、無垢な天使になってしまっている。
問題をややこしくする前に、綺麗ごとを優先して、頭を先に下げた方が無難だという、教育関係者の大好きな「保身ごっこ」の出番である。