ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

文化祭が死んだ。コロナ騒動で誰が儲かるか。マスコミと議員・公務員どもの欺瞞と笑い。

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過日、かつての教え子が来りて、以下のごとく曰く。教え子といっても、50余歳の人である。

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どうも変である。
ただの鼻風邪同様のオミクロンとやらで、次々にワクチンを打たせようとする。
コロナウイルスが、普通の風邪かそれ以下の微弱なものであるのに、大袈裟に怖がらせようとする。

ワクチン接種よりも、むしろ一刻も早く全員が自然に感染して、それで「集団免疫」を獲得したほうがよほどよい。
感染力が強いのならば、なおさら好都合で、さっさとかかってしまった方が経済的かつ安全である。

危険性のあるワクチンを、必要かどうかの精査なしに、ぶすぶす打ちまくる。陽性者が見つかると、大袈裟な隔離の真似事をする。
気持ちの悪いマスクを、子供にまでつけさせて、子供の体力や気力を衰えさえる。まして高齢者においておや。

各種の行政サービスを閉鎖して、納税者に不便不快を与える。公務員はその間、暇をいいことに安楽三昧、給与は出る出る、コロナ万歳である。

マスコミと無教養な政治屋とは、いつも暗いお仲間で、互いに、かばいあい、利用し利用されの、馴れ合いで、夜は長年の同伴関係である。

 

感染症対策云々の尾身某の言うことを、おとなしくいつまでも拝聴する。あれは失敗したのである。それを証拠に、今日もまだ同様のことしか言わず、しかも、効果がなかったではないか。2年前に半年で辞めさせて、次の人物を起用すべきだったろうに。日本国民は、どうしてこうも、政治関係者には、優しいのであろう。怪訝である。

 

世間は、コロナなど、本音では問題にしていない。
マスコミが、自社の利益のために、大騒ぎしているだけである。

自粛、時短等の規制に振り回されて、素直に忍従している多くの人が、いい加減にしろよ、と政治マスコミに、本気で怒りだしたらどうする気だろう。
嘘がばれると、国民の暴動がおこるだろうか。
いえいえ、日本国民はとてもお優しいです。これまたニッコリ笑って握手して終わりである。
それを知っているからこそ、政治マスコミともに、行き当たりばったりの、その場限りのごまかしでやってこれたし、これからもやっていけるのである。

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以上を話していた。同様の感じを持っている人は、案外多いのではないか。

なじみのテニス仲間たちも、ワクチン信仰は強いものの、コロナが鼻風邪以下のものであることに気づいている。そりゃそうだろう。いったい、コロナのどこが怖いウイルスだろうか。公営コートを閉鎖される方が、よほど体調を悪くする。

 

話を変えるが、文化祭を2年も中止にしたのは、学校の歴史を潰してしまったのである。怪しいネット媒体で、なんでも代用するのは浅薄かつ不穏である。

映画「レディ・プレイヤー1」のような世界には、住みたくはないが、いずれ、現実になるのかもしれない。

 

中学受験は金のかかる楽しい遊びか。親子の無謀な挑戦にも、教員はニッコリ。

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毎年、1月2月は、中高一貫校を目指す子供にとって、連日、わくわくと興奮する時期である。

 

中学入試は、小学6年生の楽しい娯楽であり、金のかかるゲームである。家庭の事情で、受験ゲームができる子とできない子とがいる。仕方がない。

 

公立の中学生にとっての高校入試は、少しく異なる。やや人生行路が茫漠と見えてきた。覚悟の必要なゲームである。

 

高校生及び浪人生にとっての大学入試は、ゲームを通り越して、時候の挨拶のようなものだから、論の外に置く。

 

 最難関中学の入試は、半年、または3か月の準備で受かる。受からなければならない。それでも落ちてしまうのは、能力である、運である、某塾や6年担任の責任である。そう思って、笑って済ませるがいい。

 

近年、小学生が簡単に国立私立の中学を受けすぎる。1980年代から増えてはきたが、それでも常識の範囲内だった。受けるのは、それなりの子供だった。
それがどうだろう。近年、猫も杓子もである。並か並以下の学習状態の子らが、A校B校C校だのを受験する。
あのな、この成績で、某〇△中学に受験するのは、いくらなんでも洒落がきついぞ、と言いたいが言わない。
こんな連中でも、まれに受かることがある。受かったのだから、教員は感謝されると思いきや、恨まれる、憎まれる。子から恨まれるというより、親から憎まれる。受かったのは、なにより、6年担任の1年間の薫陶のおかげであるのに、塾またはわが子の潜在力だと、親は勝手に信じ込む。

あれもこれも、つい、実力不相応だと、本音を口走ったためである。
だから、担任教員は、親子の無謀な挑戦にも、微笑んで首肯しなければならない。

 

筑駒、灘、開成中学その他の受験ゲームでは、コントローラーを動かすのは、子供本人ではなく、むしろ親である。親自身の趣味であり、娯楽であり、病気である。
親が勝手に盛り上がって、自分の子供は、できるイケる受かる、と勘違いする。親子で手をつないで、鏡を見ればわかりそうなものなのに、わからない、わかりたくない。

受験ゲームは、子供のみならず、より強く親自身の楽しみであり、暗い欲望である。
それは微笑ましいというより、第三者から見れば、少しく嘔吐感のある嬌態である。

 

所詮、受験は、ゲームである。大げさに考えることではない。合格したからといって、ロバはロバ、スズメはスズメである。名馬になれるわけでも、鷹に変身できるわけでもない。

貴君も承知のように、何事も、入学した後のことである。13歳からの3年または6年間の過ごし方次第である。

中学受験ごときを、大げさに考えてしまう子供が、もしもいるのなら、上の事々を、親自らが、我が子に言って聞かせるがいいだろう。

無理な相談か。

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以上は、某居酒屋で、元教員から聞いた話である。

今時、中学受験日が近づくからといって、悩んだり焦ったり苦しんだりする小学生はいないだろう。どうせ遊びであること、ゲーム世代は先刻ご承知なのである。

だから、たとえ万万が一、合格しても、それほど自慢にするに及ばない。落ちてしまっても、皆がゾンビになるわけではない。どうせゲームである。

 

私は違った、俺は悩んだ、と言うのか。そうかい。それもまた甘酸っぱい自慢である。ゲーセンでも、子供は緊張し冷や汗を出すものだ。

 

 

難関私立中学校は誰でも受かる。中学受験は、簡単なゲーム。これからは国公立の時代になる。

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中学と高校とがワンセットで、いわゆる難関大学や国立大学医学部に多くの合格者を出す学校。これが小学生と、その親との、第一の目標である(らしい)私立中高一貫校である。名門なのだそうである(国公立高は、今のところ分が悪い。名門とやらの指標となっている東大合格率が、最も高いのは筑波大学付属駒場高校だが、これは例外)
特定中高の、何がいったい名門なんだか明白ではない。どうやら、偏差値だけは高い大学に多く進学できる、またはできていた、という統計または評判が大切のようである。

 

こういった中学の入試をクリアするには、それなりの高得点が必要だ。

以前は、学級の中で、「よくできる子ども」が受験した。それでも、少々では受からなかったし、受かる子どもは、他から見ても相当に優秀だった。
ところが近頃は、簡単に受かる。「えっ、あの子もこの子も受かったの」というあんばいに受かる。

これはどうしたことだろうか。都会でも地方でも、難関私立中学が、意外にも簡単に入学できるのだ。

これには理由がある。
第一に、子どもが少なくなった。
だから、本当の競争率が低くなった。倍率が高くなったのは見かけ上で、猫も杓子も受験して、受験者数が増えただけなので、もとより、一応の勉強をしている子にとっては、恐るるに足らない相手である。

第二に、受験対策が洗練されてきた。
私立中学と学習塾はお友達である。ともに仲良く補完し合う。塾にとって、私立中学の存在は経営存続のために不可欠だ。
私立中学にとっても、塾で鍛えられてきた子は、公立小学校で十分に教えていない内容を、すでに「履修」済みである。勉強癖もついているし、テストをこなす手際のよさと主要教科の基礎知識とを、すでに持っている。中学入学後の指導が段違いに楽になる。

だから、小学生の時から塾に通い詰めてきた子どもが望ましい。
親も、毎月の塾の高い月謝を払い慣れている。教育には金がかかることを、親子ともに骨身にしみているので、どんどん金を出す。私立中学にとって、扱いやすい客だ。

 

学習塾への投資は、高額ではあるが、嘘か真か、塾での学習が、受験当日に素晴らしく役に立つ。ドンぴしゃりである。これでは、誰もが塾へ行く。
逆に、優秀であっても、塾に行ってない子は、受かりにくくなった(一説には「不可能に近い」)。今や合格通知は、ある意味で、金銭(塾への支払い)で買うものとなったのである。

第三には、子供が勉強しなくなった。全体的な水準は、どんどん落ちてきている。
小学5年6年の2年間、小学校でそこそこの授業を受けていれば、6年生後半の6か月の受験準備で、ほとんどの難関中学は受かる。
志望校を決めたら、半年間、過去の入試問題や、教科の内容を簡潔にまとめた問題集等で、集中的に学習すればいい。

さほど勉強もせず、塾にいる時間だけがやたら長いような子が、競争相手である。公立小学校で、子供の本気を出させるように指導すれば、学習塾など行かせなくても、受かる。
しかしながら、多くの場合、学校だけの勉強では、ダメで、塾に行かなければならない。その理由はおわかりだろう。

公立の小学校の授業は、ほとんど「勉強」をさせない。無駄としか言いようのない時間つぶしを平気でする。子供の足を引っぱるのである。子供の知識欲を阻害し、勉強の邪魔をする。

運よく、学習熱心な「当たり教員」のクラスに入れるか、そうでなければ学習塾に通いつめるか、もともとの秀才以外は、どちらかの道を選ぶしかない。

 

家庭の方針次第で、簡単に受かるからこそ、「ひょっとしてうちの子も」と、多くの親が、子供を受験させる。その結果、受験生がどんどん増える。学習塾は、お客さん万来で笑いが止まらない。

その程度の受験生が多く受けたところで、全体的な受験生のレベルが上がっているわけでは、もちろんない。だからこそ、少しできる子供が、優秀な担任教員と出会い、加えて塾で準備していれば、なーんだ、という感じで、受かってしまう。

 

苛烈な受験競争だとか、超難関校だとかの、大仰な表現は、マスコミの流す大嘘である。
実際は、基本の学習内容を習得済みならば、誰でも行けるというのが、名門中学なのである。


付記
それでも、私の子供は落ちてしまった、これはどういうわけだ、という人もいるだろう。
それは運である。
我が子はがんばった。それで十分ではないか。誉めてやれ。
所詮、入学試験は、一種のゲームである。ゲームは勝つこともあれば、負けることもある。勝てば喜んで、負ければ笑ってすませればいいのである。真剣に勉強したとするならば、決して無駄にはならない。財産になる。
とすれば、入学試験は、教育訓練のみならず人生経験の場となりえたのだ。月謝や受験料は、塾や私立学校に、笑って、くれてやればいいだろう。

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上は、以前書いた記事である。

私立学校の人気は、今のところ、都会では、国公立に勝っているようだが、教員の質や設備その他の差で、やがて国公立に飲み込まれるのではないか。

各県の中高一貫の公立実験校も、実績を積んできて、有名私立の優位性を脅かしている。

受験生の意識が、私立から国公立へ向かってきた。もともと優秀な子が、国大付属学校や公立中高一貫校を第一志望にすると、私立は赤字になる。

バブル期のような散財を、今の親はしない。私立の月謝が安くなったとはいえ、やはり国公立の方が安い。どちらを選ぶかといえば、明らかだろう。

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と以上まで書いて、数年たった。今はどうだろう。「有名」私立中高は潰れる気配はない。中堅以下は、やがて消えるだろう。

半年の準備と書いたが、聞き及ぶところによれば、もっと少ない準備期間で受かった子が多い。とはいえ、中高一貫校も、山ほどあって玉石混交である。目標校と、受験者との、レベルに応じて、と言うしかない。

 

筑駒は別格だというが、同じことで、受かるには、塾漬けでなければならない。それに加えて、特殊な才能が必要だ。塾漬けなのは、全国の小学生に山ほどいる。その中を抜きんでて、合格するためには、塾や解答技術の頓智だけでは、全然足りない。子供本人の自主的な「何か」がなければ、絶対に無理である。

 

それにしても、相手は子供である。子供ではあるが、近い大人に「よき大人」がいれば、道は開きやすい。

言わんとすることがわかるか?

左様、小学高学年の担任次第である。または、塾講師次第である。

良き担任に出会える確率は盲亀浮木である。よき塾講師は、金で買える。〇緑や〇ピその他の塾に潜り込んで面倒見てもらえ。

これらの事々は、すでにあなたが知っている通りである。

 

教員採用試験が楽勝過ぎる。地方の秀才は都会の鈍才。アメリカ大好き。

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日本の現在の教育制度は、アメリカの指示による。先の戦争に負けて以来、日本政府は、何でもかんでもアメリカの言うとおりにしてきたし、現在もしているし、これからもそうするだろう。

日本人は、アメリカが大好きである。戦争が始まる前からそうである。
アメリカに憧れて、アメリカの真似をした。
戦争に負けて、植民地化されると、もっと好きになった。
支配者を憎まずに、尊敬し恐れて、やがて愛して、憧憬を持ってしまう。
根が純情可憐な国民である日本は、特にその傾向が強い。

アメリカは多くの人種が混在し、貧富の差が激しい。エリートと非エリートとの違いがはっきりしている。
強いこと、若いこと、優秀なことが立派だとされる。
アメリカ型社会は、めっぽう強いカウボーイヒーローの世界である。
どんな環境にあっても、能力さえあれば、チャンスをものにして、成功できると信じているし、実際に成功する。
利己主義で活力のある人間を、拒否しない。しないどころか称賛する。

しかし、アメリカは、教育については、ほとんど選択の自由がない。出身、門地、親の財力等々で、受ける教育が全然違う。
日本とは、比べものにならない差別区別の階級社会である。ただし、階級間の移動は個人の卓越した能力(があれば)次第で可能だから、なおさら、競争が推奨される。

良い悪いではない。日本も、ご同様で、現にそうなりつつある。
指導要領をはじめ、教育制度が、後押ししている。
日本では、アメリカほど、貧乏人もいなければ、大金持ちもいない(ように見える)。だから、みんな同じだと、錯覚してしまう。
小学校が特にそうで、私立や国立に通っている小学生はまだ一部で、多くは公立の小学校に通う。

学級の児童が、みんな同じであると、本人達も思うし、周りの大人もそう思う。教員に至っては、区別もない平等社会だと、自分でも信じて、喜んで子供に吹き込む。

親は、我が子が少しばかり勉強ができれば、「優秀」と勘違いして、私立の中学校へ行かせようとする。学習塾にのめり込んで、晴れて私立中学校へ行かせたのはいいが、後が続かない。
何が続かないかと言えば、能力が続かない。場合によっては、学費が続かない。そもそもが勘違いから出発した行動だから、気づいた時には、手遅れである。
これもまた、良い悪いではない。アメリカ的能力主義の怖さを、知らないだけである。

少しばかり勉強ができる、と言ったが、比べる相手が学級内の鼻たれ小僧である。朝の漢字テストや、教科書添付の計算プリントで90点取ったくらいで、自分の子は優秀だと、勘違いする。
あの子より上だったと喜んでも、どうせ周りはドングリである。

地方の秀才は、秀才ばかり集まる都会の学校へ入ると、たちまち自分の鈍才ぶりに気づいて唖然とする。本当の勉強はそれからである。

教育までアメリカ風になってしまうと、日本人にとって、本音では居心地が悪い。他人にも自分にも甘えることができるのが日本社会である。マスコミや政界を見よ。甘え以外に何があるだろう。

教育のアメリカ化が、日本の風土に合っていないと気付いた時には、後戻りはできない。日本人は、政治経済軍事に至るまで、アメリカの配下である。アメリカは日本を利用しているが、日本人の能力は、相手に利用されることであって、相手を騙すことにはない。よって、今後も、国際社会から利用され続けるだろう。

ひとり教育だけが、まぬかれるわけがない。

 

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付け加えると、教員志願者の推移は下降傾向にある。

教員になりたいと考える子供が減ったのである。これは現役教員の魅力・能力があまりにお粗末なので、児童生徒学生にとって、魅力のない職業になったのである。

今日現在の現役教員の大部分は、戦後最低の教育を受けた連中である。どうしてかは、ご自分で調べてくれ。

そんな教員の授業である。ろくなものではない。特に、大学では出鱈目の限りで、月謝と引き換えに学士を投げ与える遊園地である。なお悪いことに、コロナ騒動で、大学は扉を閉めた。ほとんどオンライントレードのごときものになっている。

しかしながら、この現状は、そこそこ勉強のできる学生には、大チャンス到来で、上のランクの試験の合格可能性が高くなる。各種公務員試験が楽勝である。なぜそうなるかは、意味は分かるよな。わからなければ、多分試験も無理だろう。

 

中途半端な能力しかない連中は、教員が現実的である。そんな教員はお断りと言いたいところだが、しょせん、教員は昭和の初めから、その程度のものであって、いまさら、優秀な教員を求めようとしたって、無理な相談である。

今年は、戦後最低(学力レベル)の子供たちが受験して、それなりの教員が来年四月から教壇に立つだろう。または、自宅待機またはオンライン、その他で、にんまり給与を受け取るだろう。

どうだ、受験したくなっただろう。

教員ほど、確実な安定職で、達成感、自己肯定感のある仕事は、他には見当たらない。

優秀な奴もそうでない奴も、こぞって受けるがいいだろう。

 

コロナ感染者数で、山手線を一周するテレビ局。選挙は、コロナで勝つしかない。

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以下は2020年7月1日の記事。本日は2022年1月20日である。

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どうにもこうにも、コロナごっこが止まらない、止まらせない。
あそこで、何人、ここで何人と、「感染者」とかの数字をあげつらう。
バカバカしくって、聞いてはいられない。

 

あのな、感染はとっくに広がっている。もしも、まだ十分に広がっていないのなら、感染力が弱すぎる。心配するには及ばない。


多くは、すでに感染してとっくに自然治癒している。どうやら日本人の大部分は、そもそも、感染しない、または極めて感染しにくい体質なのではないか。

 

いったいぜんたい、コロナウイルスがそんなに心配なら、国民からふんだくっている税金のほんの一部を使って、全国一律に、とことん、感染検査をすればいいだろう。
それをなんだろう。特定地域の特定分野に限って検査して、結果がどうのこうのと、新聞テレビで大騒ぎする。

本音は、自分が再選されたい、または、現職にいつまでもとどまりたいという、利己的欲望のみである。宣伝である。選挙運動である。

マスコミもまた、コロナごっこが大好きで、現職政治屋大政翼賛会であること、先の戦時中も顔負けである。

そもそも、死にかかっていた新聞が。コロナで息を吹き返した。ネットに押されていたテレビ局は、空前の視聴率を得て、沸きに沸いている。


テレビなんて、潰れればいいと考える人が増えて、この数年、青色吐息だったテレビ界は、コロナ景気で生き返って、笑いが止まらない。

テレビにとって、「新型コロナウイルス感染」というお題目は、決して手離してはならない金蔓である。
永遠に、ありもしないコロナウイルスの恐怖を煽って、テレビを情報伝達の中心にしておこうと、必死である。

 

「感染確認者数」が、新宿の次は池袋が増えた、という。へーえ、そうかい。
次には上野か新橋か、それとも品川か? どうせ山の手線を一周する気だろう。ひと月はゆうに話題が作れる、とニンマリである。


各学校は、ぶったるんだ大学を除いて、ほとんどが通常の授業に戻った。当然のことである。
子供は、気の毒に、不必要なマスクをして、息苦しそうに授業を受けている。

やれやれ、コロナの壮大な実験は、ちと薬が効きすぎたようである。

しかし、この実験は、人は簡単に騙される。テレビ新聞マスコミを無批判に受け入れて、流れに乗っかかって、同調を楽しむものだ、ということが、再確認されたのである。

どこまでも続く、無限に愚かな人の群れ。と、古人は言った。

ーーーーー旧記事以上ーーーー

さて、2022年現在に戻る。

一体全体、これほどコロナウイルス感染を、マスコミ・テレビが大騒ぎするのは、自分を目立たせたいこと、金が欲しいこと、の2点からである。

マスコミを信じる国民は、選挙民でもあるから、政治家(こう書くのは抵抗がある。政治屋、政治稼業とでもいおうか)は、マスコミの顔色を窺って行動する。

それを知っての上での、マスコミの報道(と書くのも抵抗がある。あおり扇動洗脳とでもいおうか)である。マスコミの罪はいかにも大きいが、喚いて注目を浴びたいのは人の常である。

あなたが教員なら、放送部の顧問をしたことがあるか? 言わんとするところがわかるだろう。人は誰でもマイクの前でしゃべりたい。全校生徒に、自分の声を聞かせたいのである。

 

高揚感である、優越感である、流行りの「いいね!」がほしい。高評価お願いします!である。

大人も同じことである。マスコミは、組織的にする。金までふんだくる。悪質である。脅す、騙す、誘導する。自己肯定感の塊で、性根が金銭と売名だから、始末が悪い。

 

結局、マスコミの口先を、信じる信じないは、国民自身の民度による。

コロナウィルスごっこ、コロナ騒動を止めさせるには、国民が冷静な判断をするしかない。ごく普通の常識を働かせれば、この数年のバカ騒ぎのウイルスとやらは、たかが風邪のひとつであることが、子供でも直ちに分かるだろう。

 

 

 

 

 

成績優秀の小学生は、中学で苛められる。進学先は慎重に選べ、とか。

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某Z氏が語ることには。

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それほど遠くない昔、学級の子供に、男子Aと女子Bとがいた。

中島敦調に言うなら、両名とも学業優秀にして人格高潔である。

ともかくも、よくできる子供である。

 

学級の子供の半数は、国立や私立に進む。Zは、A、Bが進学に迷っているようなので、保護者と面談した。

さて、Aの保護者は、「世間に出れば、色々な人がいる。中学のときから、いろんな子と交わることも、大切である。ゆえに公立中学に行かせたい」。

Bの保護者は「本人の友達が公立に行くらしいので、公立でいいと思う」
と、両保護者とも、公立中に進ませる考えのようだ。

実は、学区の公立中は、市内でも、生徒が粗暴で問題が多く、荒れた中学校だった。

Zは、親の意見に逆らってまで、国立や私立への進学を推すことはしない。大きなお世話であろうし、余計なことである。

しかし、学級の子供には、抜群の学力をつけた。どの中学に入っても、学年で上位5パーセントに入るように、6年の総仕上げも終わった頃(6年生12月)から、中学進学の内容を取り混ぜた授業をした。小学校卒業式の前日までには、中学1年の数学と国語の要点を教え終えていた。

 

Zは、AやBの学力を考えると、国大附属や難関私立に進まないことを、惜しいとも思ったが、それ以上に、本人達の優しい性格が件(くだん)の公立中で、うまくやっていけるかどうかが、心配だったのである。


両名とも、公立中に入った。それから数十年が過ぎた。

後のことや今のことは、くだくだしいので省くが、中学校3年間については、次のようになった。

Aは陸上部に入る。勉強は、当然よくできる。他の子供ともうまく付き合った。

Bは、たちまちいじめにあう。生意気だ、話が合わない、とかで、学級のボスから疎外される。半年で不登校とまではいかないが、休みがちになる。中学2年3年と、墜落するように成績が下がった。

 

さて、言いたいのは次のことである。

どんな学校に行っても、結局は、子供次第である。
しかし、子供本人にとって、生活しやすい環境、学校がある。
いわゆる「同調圧力」の強い日本の学校・学級では、突出して、成績が良かったりすると、嫉妬や憎しみの対象にされてしまう。「みんな同じ」が、大好きな国民性である。子供社会も変わりはしない。

十代の子供のだれもが、どんな環境の中でも、上手に泳ぐことができるとは限らない。子供の進学先を間違えると、地獄になる。


近年、公立中学でのいじめは、一時に比べると、少なくなっているように思える。
とはいえ、地域や学校で、千差万別である。親は、油断せず、事前に調べて、よく見極めてから、進学先を決める必要があるだろう。

どんな環境でも、自分らしくやっていけるのは、稀有な才能であり、強さである。まるでアレクサンダーだ。
しかし、子供はそんなに強くない。子供を、救命具もなく荒れた海に放り出すのは、親の怠慢である。

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とかの話である。

教員の多くが経験していることだろう。
伝統があり、在校生の気持ちが安定していて、特定大学に進学率の高い中高一貫の私立校に進んだ子は、概ねうまくやっていける(例外あり)。

その一方、~は、とまでは言うつもりはないし、詳しいデータもないので、ここまでにしておく。

蛇足だろうが、親たる者、しっかりと考えることだ。中学高校の6年間は短くはないし、のちの人生へ与える影響は、あなた自身が体験したように、決して小さくはない(とはいっても、無限に重大視する必要はない)。

 

追記

私立一貫校が良い点は、子供たちの同質性である。教員のレベルは、公立学校の方が、圧倒的に良い。

進学先に限らず、どのみち、子供本人であり、運命である。良い運命を手繰り寄せるのも、その子供の実力なのであろうか。