ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

筑波大学附属高校、入試近づく。秋篠宮家と国民の皇室離れ。

ぱるるの教育批評

散歩のついでに、知人来りて、酒を飲みつつ、嘆いて曰く。


秋篠宮家の長男が、筑波大学附属高校へ受験するそうだ。なかなか優秀じゃないか。しかし、よもや裏口入学に等しい方法で入りこもうとするなんてことはないだろうな。だとしたら、トンデモないことである。

そもそも、筑波大附属は、筑駒には及ばないにしても、なかなかによくできる子が多い。自分自身に無理をしないで、自然体で、そのまま優秀な連中である。

秋篠宮家の長男を、直接、指導をしたわけではないので、合格圏内程度の中学での成績なのかどうかは知る由もないが、受験そのものが大きな賭けである。通常通り受験したら、国民全員、その結果は、大体想像できる。
もっとも、提携校進学制度とやらの時限立法的特別枠で、合格させる気だろうか。どのような事情と忖度があったかは闇であるが、そんな特別扱いで入学させたところで、合法的裏口と認識されるだろう。
日本国民は、ますます皇室から、離れていく。

秋篠宮家が断固決断するべきことである。しかし、長女の件、次女の件、どうも、奇怪なことが多すぎる。

たとえば、長女は国際基督教大学に行ったようだが、何故だろう?
学習院ではダメなのか? 百歩譲って早稲田では?慶応では?
国立なら、東京大、東工大他、いくつかある。
よりにもよって、西洋人が布教のためにつくったキリスト教長老派の学校に入ったのは怪訝である。ICUの歴史は浅い。大学側が、大喜びで受け入れること火を見るよりも明らかだったから、特別な受験の結果だろうことは、容易に想像がつく。

天皇家の一員、皇室だからといって、何でも許されるわけではない。
このようなことが続くようであるならば、次の憲法改正では、天皇条項を外すことも検討せざるを得ないだろう。

ーーー
以上のような話である。
酒が入っているとはいえ、穏やかではない。

まず、受験であるが、皇室は特別枠であろう。だから、皇室の一員が望めば、日本国内の学校も大学も、外国の大学でさえ、どこでも入れる。
学業成績だの、人物だの、全然、関係ない。

以前、秋篠宮家の長女の結婚問題で、マスコミその他が、大騒ぎをしたが、本人たちは、現代っ子らしく行動しただけだろう。自由勝手に、利を求め、またはその他の何かを求め、なるようになったのだろう。


国民が、特定の対象に、大きな夢を持つことはかえって危険である。神格化してはいけないのである。

どうしても問題だと思うのなら、現憲法をよく読むとよい。
国民の権利保障よりも先に、天皇の地位が書いてある。「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」。 

秋篠宮家の一連の騒動は、やがては、日本における皇室の役割や存在の意義にまで、大きく影響を及ぼすことになるだろう。

 

 

私立難関中学の入試近づく。受験ゲーム。都立「名門」高校、見る影もなし。進学実績は教員の熱意の証明。

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(前半は名門高校と教員のこと。後半に私立中学入試のこと)

都立高校には、名門と言われた高校があった。
なぜ名門校と呼ばれるのか。
進学先と、卒業生の業績らしきものとの、ためである。

例えば、都立では、日比谷、両国、国立、戸山他。各県には、県立市立の、公立名門高校がある。

さて、かつての名門も、あっという間に凋落する。逆に、低位の評価だった高校が、瞬時に大学進学で名を高めることもある。
名門が名門として、返り咲くこともある。

こういう差は、どこから来るかと言えば、すべて教職員の力による。教員の熱意の差である。もちろんそれに圧力をかける保護者や政治の存在もある。

実名は差し障るので、仮に公立AKB高校としようか。
歴史も古く、地域で第一の名門高校であったが、それがいつのころからか、並みか、並み以下の進学校になってしまった。または、新興の公立高校に、いとも簡単に実績で後れを取ったとしよう。

さあ、どうするか。
AKB高校の教員が、奮起するしかないのである。
実際に、教員が奮起したとする。
夜の10時11時にも自宅に帰らない。日付が変わって校門を出る教員もいる。授業への熱意、準備、各生徒への指導、その他に抜かりなく、集中する。
その結果どうなるか。

かつての名門の花を取り戻すのである。数年で、進学でトップになるのである。

この教訓は、つまりは学校は、教員次第であるということなのだ。
小中学校と違って、高校は、大学進学が、最大目的であるところが多い。目標が設定しやすく、親も子も、世間も、それを許す。
受験指導に明け暮れても、高校教育の本分であるかのように認識している人が多い。
こんな環境で、教員団が必死になれば、在校生徒に伝播しないわけがない。

教育は、教員がすべてである。どんな子供でもオッケーである。「優れ」た教員との出会いが、子供の学力の進歩を決定づける(ことがほとんどである)。

今が旬の高校はどこか。その高校の教員団が、どの程度、やる気があるのか、そして、実際にやりそうなのか、この点を見極めて、進学先の高校を決めることだ。

ちなみに、教員の転勤サイクルも、知っておいた方がいいだろう。昔のように、教員が教育事務所の転勤指示に逆らって、駄々をこねるようなことはできなくなっている。有無を言わさず、異動させられる。だから、公立高校の今後の実力の変化の流れを予想するのは、肝心の教員構成が変化することがあるので、簡単ではないのだが、そうはいっても、進学校には、それにふさわしい(多分)教員を配置するのが、人情である。
都立高校も、各県の公立高校も、現在の偏差値なり過去の進学実績を調べれば、おのずと今後数年の状況を予想することができるだろう。自分の子の在籍3年間だけでも、やる気のある教員団がいればいい、と考えることもできる。

 

追記。2022年1月。私立中学入試について。

世はコロナごっこが再燃して(再燃させて)、オミクロン株とかなんだか騒がしい。どうせ利のある所へ動くのが、マスコミと政治だから、コロナはまだまだ続くだろう。

そんなブームに関係なく、小学校6年生の子供らは、受験勉強に余念がないようである。中高一貫教育を強みとする私立中学の入試日の多くは、1月下旬から2月上旬である。子供の頭の動きは、ただいま絶好調でなければならない。

 

私立名門中学校の強みは、学級内の子供に同一性があることだ。勉強に邪魔が入らない。中高一貫故に、某有名大学に推薦その他の大人の事情で、簡単に入ることができることも大きい。学費が高いとはいえ、まあまあ、お得である。

なわけで、世の親は、麻布開成女子学院桜陰双葉その他の「名門私立中学」へ、我が子を入れたくてたまらない(人もいる)。

 

中学や高校は、公立なり国立なりに行かせて、大学入試で好きなところへ行けばいいとの意見もあるが、それでは不安らしい。親にその気がなくても、小学高学年の子が、急に私立中学を受験したい、などと言い出すこともある。親は、我が子を私立中へ入れて、あたふたと中高6年間を送らせるのである。これも人生あれも人生。

中学入試は、子供がゲーム感覚で受験するつもりなら、それで良しとしよう。大人の役目は、スマホゲーム並みに楽しむがいいと、子供に言って聞かせることくらいである。

あなたがどんなにバタついたところで、子供の実力は相応なのである。

 

 

 

私立名門中学の受験近づく。私立中学高校の教員の授業は、素人の集まりなのか。

中学入試

私立名門中学の受験が近づいた。でも、私立中学高校の教員の授業は、素人の集まりのような。

と言えば、じゃ玄人はどこにいるのかと問われそうだが、もちろん公立の中学校や公立高校に、いるに決まっている。数は少ないけれど。
公立校の教員は、授業技術を持っている教員が少しは存在する。理由は、これまで散々書いた。探して読んでくれ。


さて、皆さんお好きな、「有名私立中学校高等学校」では、どのような授業が、行われているだろうか。
あなたが、私立名門校の出身者なら、すでに、ご存じだろう。
左様、酷いモノであった。
私立の中学高校の教員は、ド素人の集まりで、およそ授業のなんであるかを知らない者どもである。もちろん、例外はある(と言っておこう)。

偏差値の高い中学高校は、当然ながら、入学してくる子供らの勉強意欲が高い。教員の教育技術がお粗末至極でも、生徒自らが、勝手に学ぶ。これが重要なところで、私立名門校に通う意味は、結局のところ、学級全員が粒ぞろいの仲間たちである、という一点に尽きる。そのお仲間に、君もなれるわけなんだよ。


某知人は、一流の名門中高校の出身である。皆さんお好きな東大京大以下有名どころの大学は、ぼろぼろ受かる。
私立中学高校での、「ありがたい授業」のおかげだろうか。
いいえ、いいえ。全然違います。
もとから、努力家で成績抜群でした。はい。

中高の授業は、むしろ出鱈目でした。教員たちは、互いの競争もなく、のんびりゆったり、好き勝手に、やってました。授業で学問的刺激を受けたことなんて、ありません。知的向上の授業なんて、なかったです。
すべて、自分自身で勉強したのです。または、進学塾や予備校に通ったのです。


「私立名門中高校」は、子供と親とが、入りたくて、ようやくに、または、予定通り、入学してきた連中を、相手にしている。教員にとって、これほど楽な仕事はない。
勉強をするな、と言っても、する連中で、理解力、知識欲、持続力、家庭環境、そのすべてが、抜群の子供たちである。
これで教員が手を抜かないはずがない。もともと、私立校の教員は、採用が縁故及びその類である(らしいと言っておく。私学適性検査とやらが、名目上ある)。当該校の卒業生を多く採用する。

こんな教員陣で、どのような授業が可能か、ちょっと考えたら、わかりそうなものである。

しかしながら、それでもやっぱり、世間は私立学校が大好きで、名門とされる私立中学高校に、我が子を入れたくてたまらない。哀れ不憫なりと涙するところだが、なーに、ちゃんとご褒美があるのである。

仲間意識である。特権意識である。同属同調の喜びである。
それだけでも、価値がある。

と、こう考えるからこそ、私立「名門」中学高校は、永遠に安泰なのである(らしい、多分)。

それにしても、今日この時も、年が明けてから始まる受験に合わせて、受験生は頑張っていることだろうな~。
それも人生あれも人生。喜びは色々。
目標を持つことって、素晴らしいよね。

少なくとも、今、君がしている勉強は、絶対に無駄には、ならないからな。ゲーム感覚で頑張りなされ。

子供の「安心安全」はあるのか。親が、子供の送り迎えをする。コロナ万歳。 At Your Own Risk

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At Your Own Risk
自分の責任に置いて、自分の判断で、どうぞご勝手に。
ためになる言葉である。
日本の教育に欠けているのはこの精神なのだ。

「自己責任」という言葉がなんとなく流行ったことがあった。例のごとく、すぐ廃れて、忘れ去られた。

日本以外では、At Your Own Risk は自明の原理である。
日本の教育は、ぞっとするほど、子供を甘やかす。ついでに保護者までも甘やかす。

日本の小学校教員は世界一良質だが、その中身は、「子供の面倒見の良さ」であって、子供の能力を十分に伸ばすことによるのではない。

これは、日本の強さでもあり、弱さでもある。

パリの某学校で、門の外で児童が交通事故にあった。窓から見ていた教員は誰一人席を立たなかったという。
門の中に入るまでは他人である。学校とは無関係である。
その境目は明確である。責任の範囲がはっきりしている。
学校の責任は、校内のみで、始業時から下校時間までである。それ以外は子供自身とその親の責任で生活せよ。

日本もそうなるべきなのか。

その通り。そうなるべきである。そうでなければならないのである。
でなければ、何時までも、余計かつ無駄なことに学校教員が関わり、その揚げ句、肝心の教育活動は今以上に愚かなものになるだろう。

どんなに難しい事態になっても、必ずいくつかの処方箋は見つかる。その処方箋を間違わなければ、乗り切ることができる。
とはいえ、理屈では分かっていても、実際には、なかなか難しい。

子供の学校生活は、保護者の精神の安定によって、左右される。
家庭の問題は、子供を通じて教室に持ち込まれることがある。落ち着かない家庭の子供は、行動に悪い影響が出る。大人も同じである。
学校のことは学校に、家庭でのことは家庭に責任がある。その分別を持っていないと、各々の立場があやふやになる。

子供の家庭の問題に、首を突っ込みたがる教員が増えた時期があった。テレビの通俗番組の影響である。
学校に、婦人会よろしく、出たがる親も増えた。暇な主婦が増えたのである。

これは喜ぶべきか、悲しむべきか。
教員の守備範囲は、学校内に限る。教員が、子供の家庭生活を云々する権利はないし、義務もない。

いわゆる熱血派の教員は、自己陶酔の癖がある。
子供の家庭生活に教員が関わって、涙あり笑いありのドラマを展開するのは、低俗テレビの番組だけでいい。現実には望ましくないことだ。

家庭には、家庭の事情がある。教員が、独りよがりの正義派ぶって、自己満足にひたり、子供の生活に立ち入るのは、失礼でもあり、僭越である。

開かれた学校という一見調子のよい流行語に、危惧を感じる。冷蔵庫のドアであるまいに。

地域の住民が、少年野球やバレーボールの指導をしたり、学校のグランドでソフトボールやサッカーに興じたりすることは、それはそれでよい。しかし、それ以外の何ものでもないことは、知っておいたほうがいいだろう。

学校の門は、子供の下校までは、固く閉じている方がよいのである。

ーーーー

と、話したのもいつの日だったか。昔話となった。

今でも太平楽だろうか。「安心安全」が合言葉だと聞いた。

一歩家を出れば、大人も子供も、その先は闇である。真っ暗闇なのに、自分だけは安全だ、と決めつけるのは、日本人の我が儘である。

他国では、毎日、事故や犯罪で人がどんどん死んでる。日本でも、たまには死ぬこともあるだろう。
学校は、多くの子供を集めて、教育活動という「危ない仕事」を進める場所である。怪我や病人はつきもので、子供が死ぬこともある。望ましくないことだが、あり得ることである。
そのたびに、感情的になって道徳論を説いてもはじまらない。後は金銭的な解決が残るだけである。

教育は、特に学校は、多くの大人(子供も)にとって、唯一、言いたい放題のできる、身勝手な我が儘をぶつけることができる対象だ。現代の「オアシス」である(だから、ドラマの学園ものは、常に人気がある)。


学校も教員も、通う子供も、様々である。一々問題を詮索すると、きりがない。

今年何月何日が不況だとしても、まだ近所の人々は飢えてない。ダイエットか何かで、肥満を揺すって朝晩歩いている。
都会ではビルが爆破されてない。スカイツリーは陽を浴びて屹立している。皇居周りは朝夕、男女がランニングしている。国会議員がまとめて狙撃されたという話もきかない。
橋の下に死人を見ない。たまに殺人がおこると、すぐに全国ニュースになる。
太平楽と言えなくもないのではないか。
しかし、それでも「登下校が危険だ。どうしてくれる」と言い出す輩がいる。

この程度で、危険だと思うなら、家から出すな。
広い世間だ、色々な人間がいる。悪人も多いと心得よ。
第一、近隣国によって、子供や大人が多く誘拐され、利用されてきたことは無視しておいて、何を今更、危険ぶるのだろう。
我が子が心配なら、登下校に付き添って、学校の門まで送り迎えするがいい。日本以外では、それが常識である。
学校が、親のご機嫌取りのために、安全指導、登下校指導だので、お茶を濁す風景は、見てはいられない。
親は、子供を家から追い出すと、自由時間である。お勤めなり、遊戯仲間とのお茶会おしゃべりなりで、上の空である。
子供は、学習塾の帰りに、深夜のコンビニエンスストアで駄菓子を買い食いして、平気である。

一歩家を出たら、親子ともども、戦場と心得よ。
学校給食、生活指導、地域との連携。どれもこれも、家庭の領分である。学校を託児所に、教員を便利屋にしようとする。

学校の本務は、授業である。それ以外に仕事はない。できない。してはいけない。教科すら満足に教えることができない教員の実態では、なおさらのことである。
教員の仕事範囲の不明瞭は、親や子供の甘えを増長させるだけである。 

話があちこちしたが、教員は、ばたばたするな、と言いたいのである。特に公立の小中学校は、もっと落ち着くがいい。
学期はじめに、日本の古典や、日清日露大東亜の戦の話を、ゆっくりと語って聞かせてみたらどうか。

以上の話は、登下校中に遭遇する精神錯乱者や、心神耗弱状態で車を運転する者どもには、当てはまらない。あれは犯罪である。司法の出番である。厳しく処罰するがいいだろう。

ーーーーと、以上を付け加えてからも、またもや日々が過ぎた。
2021年末の今、コロナごっこは、少しは落ち着いただろうか。

コロナ騒動で利を得たのは、マスコミ、製薬会社、医療関係者、公務員の者どもである。彼らが、このまま美味しいご馳走(コロナウイルスとやら)を手放すだろうか。
いやいや、まだまだコロナは続くだろう。意地でも続かせるだろう。ワクチンの次は、どんなキャンぺーンで、どのくらい儲けようか、頭を突き合わせて相談中である。
コロナ万歳。

 

教員の不勉強。無教養な教員で子供が迷惑。受験は楽しいゲーム。

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教員の不勉強について。

教員が、あまりにも無教養だと、子供が迷惑する。

教員の本体である小中高等学校の教員の不勉強ぶりは目に余る。
大学教員はもとより教員ではない、あれは暇つぶしの極つぶしだから、論ずる価値がない。

教員たるもの、基本の教養は絶対に必要である。それは何かと言えば、読書である。

かつて教員なりたての頃、某会合で、学生当時評判だったレスタースミスの『教育入門』を話題にすると、一座の誰一人読んでいなかったことに、驚くというより、むしろ呆れた。
世界教養全集(平凡社)全巻を読破しろとは言わない。たかが岩波新書である。

学生にとっては、岩波新書はチョコレート菓子のようなもので、ほとんどすべて読了することなど、学部の連中の常識だった。それが立派な行為だと勧めはしないが、岩波新書は、数十分あれば読めるような小冊子ばかりだから、教員を仕事にしようとする者ならば、岩波新書のせめて数百冊くらいは、読了しているのが常識だろう。

まあ、あのころから、教員は、不勉強の塊で、しかも、中高校生時代に、学年で1番どころか、学級ですら、トップの成績を取った経験者はほとんどいなかったのだろう。優秀な連中は、医学官界企業に行って、残りかすが教員になったのだろうか。多分そうだろう。

 

教員の不勉強とその教養のなさは、大いに嘆くべきことだ。

教養といっても、大袈裟なものではない。

第一に、幅広い読書経験で、中でもいくつかの分野には深い造詣が必要だ。
第二に、芸術への理解と興味とを持っていることで、美術と音楽の嗜みが必要だ。両方無理としても、どちらか一つでも、鑑賞者であるとともに作品創造者であってほしい。

 

ところが、現実は、ご存じの通り。だから、教員は、いないのである。

あなたの子供が「当たりの教員」に当たることは、盲亀浮木であって、不可能であろう。
ともかくも、当たりの教員は、どこかに、いることはいるだろう。しかしそれに当たるのは、万が一の確率である。

ならば、せめて、子供は自学自習せよ。そして、自ら学ぼうとする子供を、教員どもは、そっとしておいてやれ。

不勉強な教員ごときが、いらぬちょっかい出すよりも、優秀な子供は、自分で自分の道を進むだろう。頼むから、邪魔をしないでくれ。

 

そういえば、受験が近づいた。

さあ、楽しいゲームの始まりである。

 

 

 

 

暗すぎる小中学生の顔。受験は、親子の高額な楽しみとなる。

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某教員夫婦、曰く。

近頃の小中学生の顔がどうも変わってきている。
たとえば、昭和の中ごろと終わりごろ、そして平成の最初と最後、学校で子供の顔を見ると、明らかに変化している。

一言で表すと、だんだんと希望のない顔になっている。暗い。幸せそうでない。
不幸のどん底だ、とはいくらなんでも、言わないが、つまりは、どんよりした顔つきなのである。


さて。
小学生を例にするなら、小学6年生の、11月または12月から、翌年3月の卒業までの時期は、小学校生活で一番よい時だ。
卒業は近づく、次の中学生活が楽しみだ。教科全体の学習方法や、世事の事々の入り口が漸うわかってきた(ような気がする)頃である。学級のみんなと友達になって打ち解けた、解けすぎた。担任とも仲がいい。毎日が楽しい、楽しすぎる。
中学でも十分やっていける自信もついた。

私学や国大付属を目指す連中は、自信満々、受験日が待ち遠しい。それはゲームに似て、緊張感と問題に挑戦する面白さがある。

あれもこれも、すべては小学6年生の担任次第なのだ。すでに何度も言ったように、小学校6年生の担任教員は、これまでの子供の学校生活、今の生活、これからの学校や勉強方法、場合によっては就職にまで、大きく言えば、子供の人生を変える力がある。
絶対に侮れないのだ。

しかし、しかしである。
こんな担任に出会うことのできた運のいい子供は、いるにはいるが、あなたの子供は、たぶん出会うことは無理である。
なぜなら、最適な担任教員を得ることは、盲亀の浮木だからだ。力ある教員の絶対数が極度に少ない。千人にひとり、万人に一人である。


であるから、夢のような幸運を願っても無駄だろう。小学校6年の担任教員は、子供の人生を決める影響をもつのは事実だが、ともかく、無視するしかない。

優れた教員は、どこかにいるかもしれないが、あなたの子供が当たる確率は、宝くじである。最初から諦めたほうがいい。ほとんどが外れだから、外れでいいのである。外れが公平なのだ。当たりは、むしろ恐れるべき僥倖なのである。


ところで、話を戻して、現代の小中学生の顔が、幸せそうではなく、むしろ不幸な顔つきなのは、なぜだろう。
その答えは、あなたが想像する通りだ。

正解は、「時代」である。日本は、よくならないだろう。落ちる一方だろう、と誰もが感じている。

世相は暗い。明るい展望なんかない。精神的貧乏である。
親は今後が心配である。わが子の将来を気に病む。自分の老後も真っ暗である。
子供は、そんな家庭で、親を見ている。どうして、明るい顔で毎日を過ごせるだろうか。

 

子供は学校で、どうすればいいのだろう。
親がかりで低学年からチェーンの学習塾及び家庭教師等で、ひたすら中学受験の準備をさせる。そんな「幸せで輝く」ような小学校生活を送らせようとする家庭もある。そのほとんどは失敗するけれども、受験のその日までは、親も子も、かりそめの幸せに、酔えるかもしれない。なんにせよ、目的があることは必要なのだ。しかし、この目的に酔うためには、あまりに金がかかる。
もっとも、快楽には大金がかかるものである。稼ぎのいい夫に感謝するしかない。

令和になってからは日が浅い。これからの子供の顔は、どう変化するのだろう。

小学生や中学生の顔のほかに、高校生の顔は、大学生の顔は、どうだったろうか。どうなるのか。
考えただけでも、ぞっとする。
あなたが実際に見て、感じるしかない。
現役の教員は、言うまでもないことだろう。授業中に、つくづくと子供たちの顔を、見るがいいだろう。

 

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以上の文章は、コロナ騒動の前に書いたものだ。コロナごっこが始まって、どうやら、教員は安楽になり、それに連動して、子供は、ますます怠惰になった。

それでも、受験は、しなければならない。生きている限り、受験はある。人生は永遠の競争なのだから、それは時として、自分自身とも競争して、勝つか負けるかするだろう。これが、人間の業である。