ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

中学受験は金のかかる楽しい遊びか。親子の無謀な挑戦にも、教員はニッコリ。

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毎年、1月2月は、中高一貫校を目指す子供にとって、連日、わくわくと興奮する時期である。

 

中学入試は、小学6年生の楽しい娯楽であり、金のかかるゲームである。家庭の事情で、受験ゲームができる子とできない子とがいる。仕方がない。

 

公立の中学生にとっての高校入試は、少しく異なる。やや人生行路が茫漠と見えてきた。覚悟の必要なゲームである。

 

高校生及び浪人生にとっての大学入試は、ゲームを通り越して、時候の挨拶のようなものだから、論の外に置く。

 

 最難関中学の入試は、半年、または3か月の準備で受かる。受からなければならない。それでも落ちてしまうのは、能力である、運である、某塾や6年担任の責任である。そう思って、笑って済ませるがいい。

 

近年、小学生が簡単に国立私立の中学を受けすぎる。1980年代から増えてはきたが、それでも常識の範囲内だった。受けるのは、それなりの子供だった。
それがどうだろう。近年、猫も杓子もである。並か並以下の学習状態の子らが、A校B校C校だのを受験する。
あのな、この成績で、某〇△中学に受験するのは、いくらなんでも洒落がきついぞ、と言いたいが言わない。
こんな連中でも、まれに受かることがある。受かったのだから、教員は感謝されると思いきや、恨まれる、憎まれる。子から恨まれるというより、親から憎まれる。受かったのは、なにより、6年担任の1年間の薫陶のおかげであるのに、塾またはわが子の潜在力だと、親は勝手に信じ込む。

あれもこれも、つい、実力不相応だと、本音を口走ったためである。
だから、担任教員は、親子の無謀な挑戦にも、微笑んで首肯しなければならない。

 

筑駒、灘、開成中学その他の受験ゲームでは、コントローラーを動かすのは、子供本人ではなく、むしろ親である。親自身の趣味であり、娯楽であり、病気である。
親が勝手に盛り上がって、自分の子供は、できるイケる受かる、と勘違いする。親子で手をつないで、鏡を見ればわかりそうなものなのに、わからない、わかりたくない。

受験ゲームは、子供のみならず、より強く親自身の楽しみであり、暗い欲望である。
それは微笑ましいというより、第三者から見れば、少しく嘔吐感のある嬌態である。

 

所詮、受験は、ゲームである。大げさに考えることではない。合格したからといって、ロバはロバ、スズメはスズメである。名馬になれるわけでも、鷹に変身できるわけでもない。

貴君も承知のように、何事も、入学した後のことである。13歳からの3年または6年間の過ごし方次第である。

中学受験ごときを、大げさに考えてしまう子供が、もしもいるのなら、上の事々を、親自らが、我が子に言って聞かせるがいいだろう。

無理な相談か。

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以上は、某居酒屋で、元教員から聞いた話である。

今時、中学受験日が近づくからといって、悩んだり焦ったり苦しんだりする小学生はいないだろう。どうせ遊びであること、ゲーム世代は先刻ご承知なのである。

だから、たとえ万万が一、合格しても、それほど自慢にするに及ばない。落ちてしまっても、皆がゾンビになるわけではない。どうせゲームである。

 

私は違った、俺は悩んだ、と言うのか。そうかい。それもまた甘酸っぱい自慢である。ゲーセンでも、子供は緊張し冷や汗を出すものだ。