ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

テレビは魔物、大嘘の塊。コロナウイルス関連業者の高笑い。教員は芸人の口真似大好き。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

悪い見本、という言葉がある。

その筆頭は、テレビである。私はテレビを唾棄すべきものと考えるが、世間はテレビを愛している。愚かな片思いである。

テレビ番組は、すべて制作者がいる。彼らには道徳はない。差別用語集とやらのパンフレットがあるだけで、テレビ局は、これだけを怖がっている。
「人権なんとか」で、ごねられると、後々面倒なことになるからで、差別用語に該当さえしなければ、何を言ったってかまわないと信じている。
視聴者も、テレビを「はったり」「やらせ」と馬鹿にしてかかればいいものを、そうはしない。

神の啓示のごとく拝聴する。

テレビ情報を頭から信用して、ニュース解説者のせりふは、将軍様のお言葉だと感激する。
口先芸人のおしゃべりを、開拓時代の日曜学校の牧師の説教のように、頭を下げて聞き惚れる。

大げさではない。あなただって、端から信用して、テレビを見ているではないか。
テレビは魔物である。あれは大嘘の塊である。そう思って、丁度いい代物である。


かつてエイズがマスコミ、特にテレビで、大々的に取り上げられたとき。
一部の教員達が興奮して、明日にでも、全国の学校の子供たちはエイズ患者だらけになる。怪我をして保健室に来たらどう対応するのか、エイズの同級生とどんな遊びができるのか、給食は一緒でいいのか、等々が、まじめに論議された。

今度は、新型肺炎がマスコミで話題になると、学校で全員にマスクを着用させようとか、風邪気味の子供の欠席扱いはどうするとか、実に荒唐無稽としか言いようのない意見がまかり通った。
大げさに言って騒げば騒ぐほど、教員は「私は子供を大切にしていますよ」と宣伝できる。職員室の窓から、賛成の大合唱が聞こえる。

こうして、またもや幼稚な議論が延々と続き、その挙げ句、無駄な「対応策」が決定される。
これらの茶番は、責任の所在が曖昧な公教育の体質が影響している。

なんとなく無難なこと、良さそうなことには、正義の味方よろしく「お議論」するだけで、事実を自分で検討しない。せいぜい新聞の受け売りか、情緒的バラエティ「報道」番組のキャスターの口まねをして、嬉しがる。

「子供の命を守る」という言葉が、「良心的な」教員の口から出てくる。
これは保護者の受けをねらったパフォーマンスにすぎない。
日本の都市町村は、湾岸戦争当時のイラクではない。安全なものである。

自分は安全地帯に身を置いて、テレビ画面の彼方の危険を語ることほど、愉快なことはない。

偽善と甘えとは、双子の兄弟だ。親は学校に甘える。その甘えに乗じて、教員は親を甘やかす、自分も甘える。お互い様なのである。

テレビは、そんな甘えの住人に向かって、作り笑いをしながら、多量の汚物を投げ込むのである。

 ーーーー

 以上は、ずいぶん前の話である。

 話を今に戻す。

テレビは、コロナウイルス騒動で、息を吹き返した。

政治関係者は、コロナで楽ができた。

ワクチンで、製薬会社その他関連業は、空前の利益を得て、頭がおかしくならんばかりである。

 

先日、数か所のワクチン接種会場を覗いてみた。

会場付近にいるのは、ほとんどが受付案内等々接種に関わる係の人である。肝心の客というか、接種をする希望者は、お二人様のみ。

テントもガラガラ、借り上げ施設もガラガラ。

某接種会場の準備した広い駐車場は、まるで敗戦時の大久保練兵場跡地のごときである。

役所仕事の定番は無駄無計画どんぶり勘定だが、コロナ接種でもご同様。何十何百の係人員の手当は税金で賄うから、コストなんて頭にない。金は無限にある。

数人に接種だろうが、数万人に接種だろうが、給金は同じ。大いなる無駄遣いを、歯牙にもかけない。

空は晴れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

公立中学校は時間潰し。中高大の「教育」、終了。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

以下は、何年か前のお話である。もちろん、現今のコロナ騒動なんて思いもつかなかった頃である。

ーーーーー

全部とは言わないが、多くの公立中学校で、授業がうまくいってない。
指導要領は、改定のたびに、低学力傾向になっている。中学校現場では、学力向上に、ますます不熱心の態である。
かわりに、ご執心は、生活指導という曖昧でわけのわからない代物である。
「授業中は、寝るな、食べるな、ガラスを割るな、たばこを吸うな、バイクで廊下を走るな」などと、大まじめである。馬鹿馬鹿しくて見てはおれない。さっさと、警察を呼べ。

某私立中学の制服を着た子ども達が、バスの中で、かしましく喋っている。
「えー。何々さんって、公立中に行っているの。それじゃあ大学に行けないわよ」。

実際、そうなるだろうか。たぶん、場合によっては、そうなることだろう(無論、大学も種々雑多色々ある)。

公立中学での授業は、教室の雰囲気が悪い。子どもの知的な欲求の喚起もなく、落ち着かず、授業が成立することすら危うい。乱雑の極みである(無論、公立中学校も種々様々ある)。
生徒が学習規律を守らないこと、教員の授業下手なことは常としても、遺憾なのは、教員にやる気がない。芯がない。「中学生の時期は、こうあるべきだ」という哲学がない。生徒のご機嫌取りと、同僚への遠慮と甘えと、与えられたノルマをこなすための気遣いとで、日々ばたばたしているように思える。

「俺(私)が教えるからには、このクラスの生徒を、日本一の中学生にしてやる、国立大附属中や私立進学中などに負けてたまるか。学力をつける、しかも学習を通して人間までも鍛えてやる」とか言って、胸を張る中学校教員が何人いるだろうか。
日本中探したって、なかなか見つけることができないだろう 。


ところが、不思議なことに、できるできないはともかく、小学校教員には、気概を持って授業をする教員を、探せば見つけることができる。
小学校と中学校との差だ、と言ってしまえばそれまでだが、ではその違いはどこから来るのか。

本来、教員は、自信をもって子供を教育するのが建前である。できるかどうかはわからないが、できると確信して精進しなければ、子供に伝わらない。

高校教員は授業は下手だが、義務教育ではない。いざとなれば不真面目な生徒を退学にできる。だから、不思議にも、かろうじて自信(らしきもの)をもって授業ができる。
公立中学校は、教員は授業が下手(な人が多い)で、教育に対して自信がない(人が多い)、生徒も不真面目(な子が多い)で、もう散々である。義務教育期間で、お役所仕事に組み込まれいるからである。
これでは私立中学に行かせたいと親は思う。もちろん、私立が何もかもいいわけではない。私立学校の教員は、問題が多いことも事実である。

 

大部分の中学生は公立中学校に通う。だから、公立中学の失敗は、そのまま日本の義務教育の失敗となる。大問題である。

どうしてこんなことになったのか。
文科省の失策、曖昧で日和見な学習指導要領の体たらく。

敗戦後、急に盛んになった社会主義風の「みんな同じ、みんな一緒」の教育観。

ただより安いものはない。教育をただ同然にしたのが間違いだったのである。

考えてみると、教育はもともとが私立である。「わたくし」の理想理念で、学校を建てた。学びたければ、対価としての授業料は当然に払わなければならなかった。
学びたくても金のない者は、労働しつつ学習した。あるいは学校の門の外から聞き耳を立てた。

学ぶ方にも、教える方にも、厳しさと知的な欲求とがあった。これが学び方であり、教え方である。

このような「私的な教育」を、国家が、安上がりで効率的な「公教育制度」にしたことによって、多くの勤勉な働き手を量産できた。
公立学校の基盤は、平均的な「労働者」「国民」を作ることにある。学習者の能力を伸ばそうとすることにはない。

指導要領が改訂の度に、低レベルになり、挙げ句の果てに、「ゆとり教育」などという戯言を唱える理由の一つである。

では国全体が「馬鹿」になってかまわない、ということか。

いいえいいえ。
なーに、知的なエリートは1パーセントもあれば十分で、残りは従順な国民であればいい。むしろその方が都合がいい、という本音である。

その政策あるいは戦略の結果が、今の公立中学に如実に現れている。ひいては公立小学校、公立高校、大学に現れている。

公立小学校の教員に、それなりの伝統的な「先生」を散見することができるのは、教員自身の夢が、まだ徹底的に破壊されていないからである。
かろうじて、教育の理想らしきものが漂っている教員及び学校が、ごく稀にだが、存在しているからである。

 恐々謹言。合掌。

ーーーー

お話は、今日只今に戻る。さてもコロナである。大騒ぎである。教育どころではないのである。

今こそ、学ぶ子供は、学んでいることだろう。

 

追記。私立が良くて公立がダメなわけではない。逆である。

私立中と公立中とを数多く比較すれば、勝負は明らかである。公立の方が圧倒的に良い。私立でも、公立よりも特段に優れた教育を進めている学校もあるが、極めて稀である。

 

 

 

 

 

 

日本のシニアは不幸なのか。愉快な老後、これがまあ、終の棲家。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

海外で長く暮らした某人曰く。

 

どうして日本人のシニアは、不幸な顔つきに見えるのだろう。


早朝でも夕刻でも、苦虫つぶして、虚空を見つめ、散歩と称するよちよち歩き。お決まりの病院通い。わけのわからない70過ぎの手習い。別に働くでもなし、金もあり、時間は死ぬまでたっぷり、またはちょっぴりある。

だったら、毎日、なぜ遊び惚けないのだろう。
モノを買うでもなし、無聊な有様にて、繁華街を寂しげに徘徊するシニアの多いこと。
どうして、日本のシニアは不幸に見えすぎるのだろうか。

私は、12年、欧州及び米州に暮らした。そこで見たものは、老人の天国である。一瞬も無駄な時間をすごさない。時間の使い方が上手い。

笑い踊り、飲んで食べている。恋もする(だろう)。毎日が、釣りに、スポーツ、ガーデニング、会食、音楽、ダンス、車に、旅行等々、生活の多種多様の楽しみで、日々の生活を埋め尽くそうとする。

かつて、ルネ・デュボスが、「人間の真の不幸は、これからが楽しみだ、というときに死んでしまわなければならないこと」と言ったように記憶する。老人とは、人生の本当の快楽が、ようやく本格的に始まる時なのである。
時間、金、経験、教養のすべてを持っている。今こそ、人生を最大に楽しむことができなくて、何の生き甲斐だろう。何のために生きてきたのだろう。
老人を楽しませないような社会は、これは間違った悪い国家であり、遠からず滅びる民族である。

 

75歳の某人曰く、私は人生の3分の1を黒板を前にして座り、3分の1を黒板を背にして立ち、残りの3分の1を遊んで暮らした。

上記を、蛇足ながら説明する。
25歳までは学校で学んだ。26から50歳まで教員として働いた。残り25年は、自分がしたいことし、楽しみを優先して、愉快に暮らすのである、というほどのことである。

 これを実現しているのが、ヨーロッパでありアメリカである。
そんな馬鹿な、自分が見てきたことと違うぞ、と思うのなら、それは見る場所を間違えたのだ。
言うまでもないことだが、色々な階層に飛び込んで、付き合って、生活の中から、探ろうとしなければ、わからないことがある。

 

今の日本社会は、人を60歳まで働かせるのだから、退職後90歳まで遊んで暮らすことができる環境を、国家は用意しておかなければならない。
安心できる老後とは、こういう意味だ。
まして、70近くまで、いやそれ以上も、働く人がいる現状では、何をか、語るべき。

 ーーーーーー

先日、日本の学校の子供の顔付きが、不幸だと話した。

知人が言うには、子供よりも著しいどころか、比べようにもならないほどの暗い顔が、日本の老人である。
それは、西洋の老人の顔とあまりに違う。額に不幸の烙印が深く刻まれてある。
げにげに恐るべし。

 

 

少しく付け加えたい。

外国企業に勤めている若い友人が、一時帰国して、実家の母親の様子を見て、日本の社会保障制度に、いまさらながら感激した、と言う。

米国でどんな老人を見てきたのか知らぬが、千差万別、境遇の違いがある。公平に見て、日本の老人の生活が良いとは、到底思えない。

生活の根幹が、根本的に貧しいのである。

 

日本人は元来、勤勉でまじめで、よく働き、節約して貯蓄し、粗末な住居に堪え、やがて歳をとって一巻を閉じる。それまで、せいぜい、テレビ画面を見つめるのが楽しみである。

シニアの顔が不幸に見えるのも道理ではなかろうか。

 

 

 

 

 

体育授業中に、マスク着用の小学生死亡。忘れ物で授業拒否。コロナ騒動の不始末の類。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain


阪高槻市の小学生が、今年2月、マスクをつけたまま持久走をして、その結果死亡した、という。

まず、マスコミの一部が、どうして今頃、報道したのかが、よくわからない。古い話を蒸し返してどうする。何かのはずみで初めて知ったのなら、不明を恥じて反省しろ。隠しておいて、ようやく発表許可が出たのなら、やはり犬である。わんと吠えて、骨を喰らえ。

 

事実関係が雑な報道なので、断定はできないが、マスクをして走ったことによる呼吸困難が原因と推測できる。
スーパーに入る時に、お付き合いでマスクをするが、それだけでも息苦しい、店を出た瞬間にマスクを投げ捨てて、叫びたいくらいである。
子供がマスクをして過ごすことの不健康ぶりは、言うまでもない。

役人根性というものがある。教員根性というものがある。上からのご通達を遵守順守して、またはそのふりをして、保身に走るアレである。

おりからのコロナ騒動真っ只中である。マスクをしていろ、忘れるんじゃないぞ、と、教員は子供に強く指導をしたはずである。
ならば、体育授業中は、マスクを外せ、とはっきりと指示しなければならない。
明確な指導をせずに、マスクをつけたまま、走らせたのだから、教員及び学校長、並びに教育委員会指導主事らの、過失致死罪が該当する。または故意殺である。

これを大袈裟と思うのは、貴君の勝手である。

 

学校、特に義務教育期の学校関係者のリスク管理が曖昧に過ぎる。

リスク管理は、その多くが管理者側に向けた概念だが、管理される側も、無恥で、無知無責任な連中に殺されないように、自ら防衛をしなくてはならない。

子供にそれを求めるのは酷というものだが、諸君は、2014年4月のセウォル号沈没事件を、忘れてはいないだろうな。高校生ですら、船内放送を守って、殺されてしまうのである。
日本の小学生が、教員の指示を鵜呑みにするのも、無理はないことだ。

子供に、指示・指導をする教員は、よほどの慎重さが求められる。

 

しかし、なおも問題は残る。
教育は本来危険なもので、それが怖いのなら、自宅に籠って深呼吸をしているしかない。外に出ること、集団で行動すること、誰かの指示を守ること、それらはみな、ある程度の危険性がある。
健康のためのスポーツをしたつもりでも、運動が原因の怪我病気死亡等がある。


だから、責任の所在云々を避けたいのなら、相当因果関係のあるなしを問題とせよ。その程合いを見極めて、指導なり助言なりをすればいい。

 

それはともかく、間抜けなYHOOニュースの記事は、誰が探してくるのかはしらないが、紅白帽子を忘れた児童に体育を見学させた云々。

当然である。何が当然かといえば、あのような指導は日本全国津々浦々の小中学校で、もう百年も前から指導されていた。忘れたら、何々させないというのは、これは常識である。
何々を忘れたら、こうしろ、というのは滅多にない。
作為を強いるのは犯罪だが、不作為はそうでない。

とまあ、こういう風に学校や教員側が考えるのはごく自然のことである。

指導は人間がする。医者は人間である。医者が患者を殺すこと、日常茶飯事だ。と言ったら仰天するだろうが、なに、内心では誰でもが知っている。逆にあの医者で助かった、ということがある。ならば教員も一緒で、塵芥玉石混交、何事もご同様。

 

 

 

大学生の就職事情、今は昔。才能は別格。凡人は教職を目指せ、と言う人もいる。

 

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

以前のお話。

ーーー

以下は、某企業の知人から聞いた話である。

そこそこ名の知れた大学を出れば、まあまあの就職先が見つかるなんてことは、昔はどうだか知らないが、今はない。
エクセルやワードの検定1級所持は当然で、パソコンでゲームばかりやっていたのか、と面接で詰問される。
英語は、検定1級、TOEFLのPBT600点以上、CBT250点以上、TOEICで900点以上が必要。海外旅行で片言がしゃべれる、では笑い話になる。

以上がクリアできて、どうやら就職できたとしようか。
もっと厳しい現実が待っている。
給料に見合った成果を挙げることができなければ、それは会社に損をさせている。すぐに「出て行ってくれ」となる。

損をさせても、今までは、それでよかった。
10人社員がいれば、そのうちのひとりが仕事をしただけで、十分潤った。残る9人のうち、7人は、いてもいなくても関係ない人たちで、2人は、むしろ仕事の邪魔をする人である、できればいない方がいい。それでも10人全員に等しく高給をくれてやった。


なるほど、呑気なものである。
学校も同じことである。
一部の小学校、高校及び中学校の半分くらい、大学のほとんどは、似たような状況である。詳しく言うと、いかにも差し障りがあるから、止す。察してくれ。
表向きの「平等主義」が、すべてのレベルを引き下げてしまう。児童生徒学生教員の、短い足を引っ張っているのである。

さて、どこもかしこも仕事がない。何でもよければあるにはあるが、ブラックの類である。
俗にいう安定した職業は、大企業や各種特殊法人はともかくとして、一般に手近なところでは公務員か教員である。
しかし、運良く、教員に採用されても、それからも、苦労が続く。
若い連中が、教員志願だというと、遊び半分なら止めておけ、と返すしかない。
特に、女性は、小中学校の教員になった場合、いずれまたはすぐに、大泣きすること必定である。あんまり泣かれると、児童生徒が迷惑だ。頼むから止めておけ。

というようなことを書くと、何だって、と目くじらたてる人がいるだろう。まあ、この程度のアドバイスで気が迷うなら、最初から止めておいた方が、邦家のためである。

中には、教員が第一志望だと口走る者がある。しかし、表向きの熱意はともかく、教員として妥当な素材かどうかは、分からない。
一番困るのは、勘違いしている連中で、自分の実力不足を棚に上げて、どうでもこうでも教員になる、といってきかない。こういうのは、親が教員であることが多い。唆されたのだろう。
困ったな。君の実力で、大丈夫なのか。ペーパー試験は、コネがきかないというのが、一応の建前だ。受かるわけがない。

万が一、何かの間違いで、ペーパーは受かったとしようか。次の面接試験はどうする。あれは情実の世界である。コネがないために、不採用だったと推測できる者が、何人もいる。それでもいいのか(親が教員なら、大人の事情で、そこは、と言っておこうか)。
ここまで言うと、たいがい黙る。 
中には、コネがあります、とか平気で言ってくるものもいるが、本当か。

どうしても、というならやれ。どちらに転んでも苦労することには、変わりはないだろう。


以上を書いて、かなりの年月が経った。今では、事情が全然違う。

まず、教員採用の状況だが、考えられないほど合格させている。
小学校は楽勝。中学も美術音楽など、採用が少ない科目以外は、そこそこの学力があれば受かる。
いくらなんでも、猫も杓子も採用しているわけではないだろうが、大手企業や公務員試験に比べると、はるかに簡単である。
民間会社にエントリーシートを何百枚も送りつけるよりも、教員免許を取って、さっさと教員になる、というのも、人によっては、得策である。
教員の待遇や収入の安定度、知的興奮と何が起こるかわからない危うさなど、教職の利点は事欠かないが、何より良いところは、高い才能がなくても、ごく普通の能力の持ち主でも、ちゃんと小中高大学の教員に、なりえることである。
無理もない。都道府県自治体ごとに、うんざりするほど多くの学校がある。人の住むところ、大きな建物を探せば、それは学校である。そこに、教員がどれほど蠢いているのかと思うと、ぞっとするほどである。

それにしても、現役の大学生にとって、ひところに比べると、就職が楽になった。ますます楽になりつつある。
もちろん、勤め先は様々である。学生本人が夢に見るような職場は滅多にないし、不勉強で才能もない連中が、勝手なことを言うのは噴飯ものである。しかし、これはだれもが通ってきた道だろう。

 

蛇足ながら、知人の言。
某銀行の採用数がこの数年増え続けている。どうやら、多人数を入社させて、無理難題を押し付けて、短期間で振るい落とす魂胆らしい。

真偽のほどは、知らない。

 

ーーー

コロナ騒動が収まらない。今度はワクチン話題でいっぱいである。

いずれ収まるところに収まるだろうとは、常套の句だが、それにしても長い。ウンザリである。

 

繰り返すが、教員のレベルが、年々、急降下で落ちている。

よくもまあ、というような学識・技術でも、教員が務まるのは、子供もスマホ育ちで、それなりだからである。世間がコロナに夢中で、他を顧みる余裕がないからである。よかったなあ。

 

 

 

 

 

 

雪崩の危険性があるので、今日は止めたら。馬鹿言うな、これが訓練だ。栃木県スキー場雪崩。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

あれから4年が過ぎた。世間は忘れているだろうが、関係者は忘れるわけがない。以下は昔の記事である。

ーーーーーー

 

雪崩で高校生が死亡した。
この事件は、講習会関係者の事故回避が可能だったかが、問題となる。
高校生相手の指導が目的の講習会であるから、生じた結果には、指導教員、体育連盟、県教育委員会に、全責任がある。
業務上過失致死罪ではないか。
地元では、雪崩危険個所として知られていた場所である。雪崩注意報も出ていた。

体育系の教員は、ほら吹きが多い。自分に酔う。無理を承知で突進することを、生徒に強いる傾向がある。
雪崩が起きるかもしれない。雪が深い、風もある、「厳しい」状況なら、かえって「訓練だ、これこそが雪山の現実だ、やり抜くんだ」とばかりに、自分でも喜び、他人にも同調させて、張り切ってしまうのが、教員の根性である。

興味深いことは、事前の話し合いで、危険性を察知し、取りやめた方がよかろうと発言した教員がいたらしいことである。
少しは冷静な教員もいたことになるが、大勢の意見には逆らえない。かまわん、やろうやろう、のノリである。

何度も言うが、この事故は、高校教員、学校、県体育連盟、県教育委員会による、高校生に対する業務上過失致死事件該当案件である。8人の死亡が、刑法に規定する犯罪構成要件に該当するかどうかを調べなければならない。
金銭的賠償で、静かに幕を引こうなんてことは止めた方がいい。


子供の、野外訓練には、常に危険が伴う。その危険を認識し、回避するのが、指導者の役目である。それでも回避できないときは、運である。
回避できるにもかかわらず、指導者の未熟、焦り、横暴、誤判断等によって、子供の死亡や怪我が生じたのであるならば、犯罪である。

しかし、この事件もいずれうやむやになるだろう。世間も忘れていくことだろう。

 

ーーーー

さて、昨今のコロナ騒ぎである。

これは、でっかいパロディだと思うが、大勢には逆らえない。小さな店に入る時ですら、マスクとアルコール消毒である。

ふーん、いつからそんなに衛生に気を遣うようになったの?

 

君はコロナウイルスとやらで、路上でばたばたと人が死んでいくのを見たか?

君または君の家族が、ウイルスで七転八倒の苦しみをしているか。

左様さな。終わらせなければ、終わらない。製薬会社及びその取り巻きは、永遠に儲け続けることだろう。