ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

真っ当な仕事をしろ。ネット乞食。教員も政府もマスコミも、何者かを配慮し忖度して丸儲け。

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今は昔のお話。

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新卒ほやほやの新米教員は置くとして、30過ぎから50代までの、とっくに仕事に慣れたはずの教員も、保護者または同僚もしくはその筋に、びくびくとしながら毎日を過ごすようである。
その一例が、学年通信という代物で、よせばいいのに、毎月、きまりきったことを、プリントして配布する。

もう、読んではいられない。
事項の挨拶に続いて「いつもご協力いただいて感謝します」だの、われわれ担任一同も「一所懸命やらせていただきます」だの、卑下を通り越して滑稽である。

遜らないと、安心できないらしい。
校長も総務も、プリントの内容を、事前に見ているくせに、注意するどころか、それでよしとする。むしろ、喜んでいる。

これでは、子供や親になめられる。
仮にも、先生、教師である。

右も左もわからない息子・娘に、日本の文化伝統、人類の共通遺産である学問を教えている主体者である。
と、大きく出る必要もないが、誰に対して、さほどの遠慮が必要か。教えるべきことを、またはそれ以上のことを、自信満々で教えてやるがいい。

相手は未熟者の子供である。親を見れば、その程度も知れる。教員は、教育については親よりも、まして子供よりも、はるかに高い見識と技量とを持っている(はずである)。本業だろう。もっと、自負をもて。

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 漢の武帝の天漢二年秋九月、騎都尉・李陵は歩卒五千を率い、辺塞遮虜しょうを発して北へ向かった。阿爾泰山脈の東南端が戈壁沙漠に没せんとする辺の磽かくたる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風は戎衣を吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。 云々。

現役の頃、この文章を必ず覚えさせた。あら不思議や、どんな年齢の子供でも、その授業中に覚えてしまう。漢文脈調の名文であれば、心のリズムに呼応する。なんなく身に染みつくのである。翻って、現行教科書等の駄文悪文を嘆くがいい。

それはさておき、

令和3年春5月、コロナごっこは、金の生る贅沢な木であって、終わる気配もなく、公務員マスコミ連中は、楽々やすやすと、給与を得ている。

衆参議員、公務員、教員、この三者にとって、これほどの安泰な時節はいまだかつてなかった。加えてマスコミ関連業者にとっても、かくまで案直にぼろ儲けができるのは敗戦以来である。

コロナはまだまだ続く。利がある限り、永遠に続くだろう。

 

まだ言えば、

YouTuberと世間で呼ぶところのネット乞食がいる。たわいもない動画投稿をして、チャンネル登録だの高評価だのを口癖にする者どもである。彼ら彼女らにとって、コロナ騒動は、大ボーナスである。

人は部屋に籠ってネットかテレビを見るしかない。どんな動画でも飽きず眺める。

それにしても、ポカンと見る視聴者も、お人好しの度が過ぎている。

動画配信者どもに言ってやるがいい。

汗水出して、真っ当な仕事をしろ。

 

 

 

 

 

 

 

アメリカ大好き。ビル・エヴァンス。フィンランド礼賛、マスコミ、文科省の類。

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 コロナ騒動はさておく。あれはパロディでコロナごっこである、との認識に変わりはない。
以下、以前のお話。
 
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旅客来りて嘆いて曰くことには。
 
でも、フィンランドの教育制度は、文科省や大学の「当局」では、人気のテーマなのだろうか。
いつもいつも、日本の教育は、目先の利に目が眩んで、右往左往する。軸足が定まらずに、流行を追いかけて、キョトキョトする。
最新のブームは、英語教育だそうな。日本人の癖に、外国語を義務教育初期の段階から押し付ける。ばかばかしくて見てはいられない。 英語なんぞにかまけていると、もともとお粗末だった母語運用力や日本史の知識が、ますます希薄になって、日本そのものが消えてなくなりかねない。文化破壊が領土破壊の先兵ということを知ないのか。

それが狙いなんだろう。文科省その他関係職員、政治屋職の魂胆は、日本をなくして、「グローバル」な共同地域にしたいのだろう。

話は変わるが、人は一度負けると、とことん負け犬根性に身が染まる。
日本人は、もとから、相手に従うのが大好きだ。頭を垂れていさえすれば、良きに計らってもらえると信じてきたし、現に信じている。
鎌倉時代と変わらず、神風が都合よく吹くらしい。
自然災害が多く、その危険性も年々増加している島国であるのに、現実を見ない。見たくない。
東日本大震災が起これば、復興のかけ声が優先する。現実を見ない。

先の大戦アメリカに負けると、アメリカは日本人の神になった。
アメリカが宗主国である。日本はアメリカの属国である。それは制度だけではない、私たち日本人の心の中にしっかりと根を下ろした負け犬根性の露呈である。

日本人はアメリカが大好きである。尊敬している。恐れている。兄と思い、父と思っている。映画、音楽、教育、学問、政治、経済の類以下、何から何まで、アメリカにはかなわない。アメリカが、一番優れている、希望の星だと、固く信じている。

あなた自身は、違うと言うのか。少しも違わないと思うが、ご自由に。
あなたは置こう。各分野で日本を代表していると自称する人々は、アメリカに頼りきっている。アメリカに反抗することなど恐れ多いと、心底思っている。

この習性を見直すには、教育しかない。特に義務教育期である。小中学校で、何をどのように教えるかによって、人間が変わる。つまり国が変わる。
アメリカはそうさせたくない。
世界は、日本が負け犬のままであってほしい。
そして、私たち日本人自身もまた、自らが変わることを、一番、恐れているのである。
 
さて、2021年5月1日現在である。
今も、アメリカは、代表的な民主国家である。
人類の希望の星である。アメリカなくして地球の平和はない。特に不安定要因が多数あるアジアでは、なおさらである。
アメリカは移民国家である。映画が面白い。ビル・エヴァンスがいた。GoogleAppleがある。アメリカが、大好きなのである。
 
 
 
 
 

実力のない教員。学校管理職は楽勝。仕事をしているふり。

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某人いわく。

教員は授業で、子供たちに、何かを学んだという実感を持たせることが、仕事である。しかし、できていない。
教える内容への知識や指導技術に、自信を持っている教員は少ない。故に、徹底して教えることが、できていない。

 

よい教材が少ない。よい教材をどうやって選択するかが、わからない。

教員は、授業を恐れる。保護者や同僚への遠慮からか、何者かへの忖度からか、当たり障りのない指導をする。

子供の個性を尊重する授業とやらで、通り一遍の時間つぶしの指導の、逃げ口上をする。

 

教員組合特有の「空気」が、蔓延している学校がある。

違和感を感じる教員がいたとしても、全体として同じ方向へ進んで行かざるを得ない。みなさんご存じの、同調圧力である。本音では同調が大好きなのである。指圧じゃあるまいに、押し付けられるのが快感である。


思い込みや間違った「信念」から脱出するためには、大きな力が要る。そんな余力は残っていない。あるいは、もとから、ない。

毎日の「指導」で疲弊して、目前の問題を、広い観点から余裕をもって考えない。冷静に対応することができない。したくない。

教員は、終日ばたばたと忙しく駆け回っていさえすれば、または、その芝居が上手ならば、たんと仕事をしたような気分になる。案外に評価も高い。実際は、肝心なことができていないのだが、当人は、
熱心にやっている気になって、自分で自分に満足してしまう。疲労が、今日も心地よい。がんばったなぁ。
夜遅くまで職場にいることが、仕事熱心な教員の証であるかのような錯覚をもつ。

長時間、職場に残っていても、無駄なのに、仕事が遅いだけなのに、あるいは能力不足の証であるのに、同僚教員へのアピールにさえなれば、それで十分に幸せである。

教員は女子供(おんなこども)を相手にする仕事だ、と言えば、あなたは怒り出すだろうか。(ジェンダー論はさておく)。
しかし、どう頑張ってみたって、教職は、それ以下でもなければ以上でもない。だから、あんまり力むな。勤務拘束時間が過ぎたら、さっさと帰れ。だらだら残られても迷惑だ。

教育は百年の大計、なんて胸を張ってみせたって、本当にそうだとしたら、今日のこの日は、≒100×12ヶ月×31日を分母として、分子の一日にすぎないはずだ。威張るほどのことか。

各学校の管理職は、表向き平静を装う毎日だが、本音は自信喪失である。元々自信なんてなかったが、世間は、校長なら、それなりだろうと、おだて上げた。だったら、自分でもできるのだろうかと、勘違いで成り立っていた体制である。現実の問題解決力は、ほとんどない。

教育事務所の指導室に情けない顔で相談に行って、まだ若い指導主事の、ご指導を仰ぐ。

酒かパチンコか教職員や同僚の悪口か、そのくらいしか逃げ道がない(教員に比べて自殺する者が少ないのが不思議だが、管理職を目指すタイプ特有の図々しさで、自殺と親和性が少ない)。不安や自信・実力不足で、精神錯乱し、逆に威張りだす者もいる。


だからなあ、言ったろう。

教員は一生教員をやれ。管理者は、外部から雇え。教員上がりで回そうなんて、バイオエネルギーではないんだぞ。
教員も教員で、前の席に座れて(教頭・校長の机)、ようやく所願満足なんて思わないほうがいい。泣くようになる。
泣くのが当人だけならいいが、周りまで泣かせるようになる。はた迷惑だ。

平成の時代は、管理職には過ごしやすい季節だった。

昭和の時代は、教職員組合に力があった。教員も誇りが多少はあった。校長教頭は実力相応でびくびくと生きてきた。

平成になると、教員組合は壊滅状況、教員達も学力低下で、誇りもなく、元気がない。日々の授業でアップアップである。これは、教員採用試験が甘くなり、その結果、低学力の教員が増えたことにも原因がある。
校長にとって、こんな順境の時代はかつてなかったのである。これからは、どうだろう。

 

さて、令和3年4月現在、世の中は、コロナごっこで、うまくかき乱されて、ますます学校管理職その他諸々にとっては、大楽勝の時代になった。

というより、すべての公権力、つまりは国家及び地方公務員の時代になったのである。ついでに言えば、情報操作関連業社(ネット、テレビ、新聞、マスコミ系)の、もっとも稼げる時代になったのだ。

おめでとう。

 

 

 

 

 

 

 

通学指導は、甘えの極致。心配なら車で送り迎えしろ。

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学校は学校外の事ごとに関係してはいけない。
家庭が甘える。行政が甘える。

学校は校内の教育に専心すべきである。それしかできないはずである。授業で子どもの学力をつけるのが仕事で、それ以外は枝葉末節である。

例えば、通学指導というものがある。
通学は、どうしたところで、一つの賭である。
歩道を歩いていても車が乗り上げてくるかもしれないし、誰かに連れ去られたり、刃物で刺されたり、拳銃の類で撃たれたりするかもしれない。すべて時の運である。あるいは治安の問題である。
地雷がないだけましである。
そう考えるくらいでちょうどいい。


いちいち心配なら、親が校門まで送り迎えするべきである。それしかない。

校門の外で起きた生徒の交通事故を、学内の3階の職員室から見ていた教員たちは、誰一人席を立たなかったという。子供が校門を一歩出れば、学校と生徒の間の法的な責任問題は終了する。それを曖昧にすると、莫大な訴訟判断の餌食になる。これはフランスのことなので、日本は関係ないと言う人もいるが、不見識である。


通学が、子供にとって危険極まりないことを知っているアメリカでは、大人が子供の送り迎えをする。
下校時ともなれば、学校の前は迎えの車でいっぱいである。でなければ、着色したスクールバスに乗って自宅の前まで帰らせる。
ふらふらと小さな子供が家まで一人で帰るなんてことは、日本とシンガポールだけの特権である。それに甘えているのならば、親も子も、相応の危険を覚悟するしかないだろう。

しかしながら、どんなに気を付けても、種々の事件は、起こるものである。
残酷な事件が頻発というが、あれは歩留まりである。
子供の安全は家庭の領分である。または、警察の領分である。
学校は、学校外のことに口を出してはいけない。肝心の仕事が疎かになる。
登校指導だ、下校指導だ、給食指導だ、安全指導だ、と学校教員は忙しい。いったい、いつ授業をするのだろう。

勘違いしてはいけない。
学校は家庭ではない。
教員は「おとうちゃん、おかあちゃん」ではない。

学校給食を止めろ、学校で児童生徒に掃除をさせるな、と話したら、前者には賛成だが、後者には反対だ、という意見が多かった。

掃除がいけないとは言っていない。
自分の部屋ぐらい、自分で掃除して当たり前である。
しかし学校の教室は、自分の部屋ではない。学校施設である。他人さまの部屋である。
教室を掃除すれば、自分の部屋と勘違いする。そこで昼食まで食べると、家と学校との区別が曖昧になる。

これがいけない。

学校の教室は、外部の業者に頼むべきである。そのための予算を出し惜しみをして、掃除指導などといって、お茶を濁す
昼食は各家庭が用意すべきことである。給食調理員の既得権を守ることとは、別問題である。

給食を食べ続けていると、味覚が破壊される。学校給食は、子供の精神の「荒れ」を助長している原因のひとつである。
このあたりは、現場の経験がないと理解できないだろう。
それほど、私たちは、学校では子供が掃除するのが当たり前、給食があって当然、と思い込んでしまっている。
げに
恐ろしいことである。

 

 

大学は無駄である。安物の就職切符、大学教員を養う制度。

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能天気な大学教育を考えると頭が痛い。

大学は制度上では、「大」学、というくらいだから、学校教育の「まとめ」「上がり」「おあいそ」である。
それがお粗末至極だから、金を払う気になれない。食ったものを吐き出したいくらいである。

小中学校は、習うことが山盛りだし、それなりの価値はある。教員も「先生」である。高校も、色々あるにしても、まだ学ぶ場所で、「先生」である。
しかし、大学は違う。どこの何者だかわからない者どもが、「教授」だそうである。思い付きの雑談が、講義だそうである。個室で学生の色気を吸うことが、ゼミナールだそうである。

福澤は偉い男で、学問の目的を、独立自尊にあるとして、「授業」をした。
それでも、永井荷風の母は、学業不熱心の息子に激怒する夫に向かって、あなた福澤さんのところでも行かせればいいではないですか、となだめている。

 

日本の大学がいかに無駄で不要なものかは、多くの人が自分の胸に手を当ててみたら、納得するだろう。

学業は、その効用があってこそ、価値がある。利だけを言うのではない。哲学であり信仰であり、善であり美でもある。つまりは教養の如きものである。あるいは人は何のために生きるのか、幸福な人生とは何か、何処から来て何処に行くのか、というほどのことである。


結局は、自問自答に極まる。自学自習である。自ら問いを発し、求めて学ぶことである。

しかし、人は集いたい欲求がある。群れるのである。安心したいのである。少しのことにも、先達はあらまほしき事、とやら。
ではあるが、大学の教員は先達であるのか。大いに疑問である。
疑問どころか、爆笑ものである。

 

大学の役目は、いい歳をした子供の時間潰しではない。大学教員連中を、食わせてやるためでもなく、受験勉強と称するゲームの結果を、見るためでもない。
優れた教員とカリキュラムと環境との合致した場であり、時間と費用とに見合ったものを提供する何ものかである(はずである)。

日本の大学は、その大部分が、無駄無為無策無益、害悪汚点疫病汚物に等しい。
想像力を働かさなくても、各々の学生時代を思い出せば十分だろう。

いやいや、自分はそうでない、価値ある学生生活であった、と断言できる人は、幸いなるかな。
人は、流れ去って二度とは戻らない自分の時間を愛おしむ。善きことあるべきことがあったのだ、と思いたい。なんらかの意味があったと信じたい。

しかし、しかしである、どう考えても、日本の大学は、何物かではない。何でもない。単なる「それ」である。
教員の実力、教育課程、施設、学生への対応云々、すべての面において、不足不満不備である。

せめて就職の安上がりな切符になるのだろうか。実際は、多額の金と時間とを奪うボッタくり業者に過ぎない。
幼少期からの学校生活の成れの果てが、かくの如きものでは、子供があまりに可哀そうである。

 

 

 

教員採用試験は楽勝でも、教員になるのは難しい。笑いのある授業。

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「速度」が良い授業の条件だ、と以前に書いたと思うが、速度とともに必要なものは、笑いである。

授業には笑いがなければならない。この意味では、女性教員の過半数は問題だ(性差別ととってもらっては困る。今時、女性だ男性だと、言うことさえ愚かしい)。彼女らはまじめだが、それだけに四角四面で、笑いがない人が多いようだ。このことが、多くの女性教員の授業や学級が、荒れる原因となっている。特に男子には、笑いのない授業は耐えられない。
試みに、評判の良い授業をのぞいてみると、「授業」に笑いが必ずある。苦り切って授業を進めるのは、指導力がないからで、鼻歌交じりにするくらいの、知的余裕が欲しい。


これを読んでいるあなたが女性教員なら、不快に感じるだろう。それこそが、あなたの欠点でもある。笑って読み飛ばせばいい。私は「女性教員の過半数」と書いたはず。あなたは、そこに含まれてはいない(はずだ)。

笑いが必要ではあるが、お笑いタレントではない。だじゃれの連発は論外だ。
「笑い」もまた、その土台となるものは、教養である。

教員には、多くの経験(特に失敗経験が。自慢できる成功経験も少しはあったほうがいい)と、知識に裏付けされた自信とが必要だ。
学習内容から派生する多様なエピソードを、興味深く、端的に語り、子供を夢中にさせることができなければならない。しかも、 一転して、それが学習内容をよりいっそう印象づけ、理解を深めるように働くようでなければならない。
なおも、そういった授業の全体観が、いつでもどんなときでも、教員自身には第三者的に見えている(世阿弥の「離見の見」のように)。

あるいはまた、集中に次ぐ集中で、子供の頭は知的興奮と疲れの中にある。
そこに一種の笑いという潤滑油を注いでやる。これが良い授業の条件としての笑いの役目だ。

なかなか難しい、と思うだろう。

左様、なかなか難しい。
しかも、この「笑い」の難しさは、単なる難しさではなく(それなら練習によってなんとかなる)、教員がその難しさを意識することもなく、楽々と自然にできなければならない、ということだけでは不足であって、それ以上に、むしろ教員自身の楽しみとなっているところまで行かないと、意味がないという難しさなのだ。

とてもとても難しいと思うだろう。

左様、君には無理なくらいに難しい。
だから言っただろう。

良い授業ができる優れた教員は少ないし、子供が、そんな教員に出会えることは、本当に珍しいことだ。

よい授業をするためには、生半可な勉強では駄目(必死の勉強でもまだ不足)である。知性に裏付けられた経験の蓄積が必要だろう。

やれやれ、それでも君は、なおも、教員を目指すというのだろうか。

それなら、勝手にしたまえ。