ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

マスコミ好きの大統領の勝ち。授業中に企業宣伝。私バカよね~。

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昼前より、知人来りて笑って言うには。
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バイデンだかトランプだか、海の向こうの大統領選で、マスコミは大騒ぎしているが、バカバカしい。どうせ日本は、アメリカの子分である。親分がだれになろうと、従うだけのこと。生意気に詮索するんじゃない。

マスコミ嫌いの大統領は潰される。マスコミや北京と、大の仲良しなら、大統領になることができる。
情報操作で、どちらにでも転ぶような有権者なら、「それなり」である。
おお、世界は「それなり」に満ち満ちている。


マスコミは百害あって一利も無い代物で、専従する連中は、国賊どころか、人非人同様であろう。
しかしマスコミは、虚偽を売る商売人だから、買い手がなければ潰れるだけである。
だから、マスコミの一切を唾棄し、無視し、拒否することだ。


NHKと称する独占企業は、古くは日本軍事政権の犬、敗戦後はGHQの、やがてソ連の、そして中華人民共和国の代弁者となった。
今日も、北京共産党の孫であり、日本在住朝鮮人民の有望な就職先でもある。

そのNHKの垂れ流すものをありがたく押し頂いて、一日中テレビに噛り付くどころか、視聴料まで毎月せっせと上納するというのだから、日本国民の程度も相当のものである。

NHKは即刻解体どころか、これまでの虚偽、扇動、謀略のすべてを明らかにして、日本国民全体が、NHK職員の収入、国籍、採用その他の不明瞭不可解な組織の内実を追求しなければならない。

 

テレビ受像機を家庭内に持ち込むなんて、笑止である。

文仁親王妃紀子の父親が、「自宅にテレビはない。テレビを見るくらいなら、良い音楽を聴いたほうがいい」と何十年も前に言ったので、好感を持った。
テレビを持たない、見ないのは、ごく自然なことである。
何様ではあるまいに、部屋の真ん中にどんとおいて、ありがたがるのも、いい加減にしたほうがいい。薄っぺらな動く板絵を見て喜ぶなんて、まるで痴呆だ。
私バカよね、おバカさんよね、と流行歌が聞こえてくるぞ。


昔は、テレビを見ていないと、学校で友達の輪に入れないとか、愚痴る子もいたが、テレビの話題しかできないような輪には、入らないほうがいい。
しかし、NHKは、教育テレビというチャンネルで、教員が手抜きをするための番組を流している。学校の授業中に、ちゃっかりNHKの企業宣伝をするのである。
とんでもない輩である。

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とかなんとか。
やがて雪もやんで、青空が見えたので、知人はほろ酔いの千鳥足で、帰っていった。

 

出生税のススメ。コロナウイルスごっこ、世界を巻き込み大成功。

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知人来りて、嘆いて曰くには。


新型コロナウイルスとやらは、マスコミの全力の宣伝効果があって、加えて、国会議員知事その他公務員議員連中の、嬉しい露出ごっこまであって、どうやら日本では大成功の体である。テレビ・スマホ・ネット・新聞等の通信業者・マスコミ業者は、空前絶後の利益に笑顔が止まらない。

コロナウイルス騒動の大実験は、ものの見事に仕掛け人の大勝利に終わったのである。

いやはや、恐るべし。


村内も町内も、市内も国内も、各国の集合体でもある地球という大所帯も、結局は、全校児童数が十人しかいないような小さな学校の学級と、全く同様に、簡単に煽動洗脳に騙されて、踊るのである。

一体全体、コロナウイルスは微弱な風邪に過ぎないのに、これほどまでに大袈裟にして、荒唐無稽な猿芝居を押し通すのは、いったい何のためだろう。

一説には、人口抑制策であるという。

 

人口を減らすには、またはこれ以上増やさないためには、人が互いに殺しあう戦争が、一番手取り早いが、意外にも、戦争では人は思うほど死んではいない。
それに、戦争はどこまでエスカレートするかわからないから、いくら何でも、人口減少手段としては、あり得ないだろう。もちろん局所的な、地域戦争は、これからもある。あれは経済活動の一端なのだろう。

 

LGBT運動も、人口減少に影響する。しかし、これは文字通り「マイノリティ」すぎて、近々の効果は期待できない。将来的には、期待できる。

 

やはりウイルスをばらまいて、病気という理由で死亡率を高める。ワクチン等の薬効によって、出生率を低める。というのが、現実的である。


今回のコロナウイルス騒動の発案者の狙いが、人口減らしのためであったと仮定すると、もっと、効果的な方法がある。それを提案しようか。
ただし、これは十分な法治国家であるということが前提である。

 

それは出生税である。
夫婦が最初の子を出産したら、100万円を誕生費として与える。ひとり目の子供に対しての育児費の補助である。

2人目を出産したら、誕生費はない。逆に、出生税として200万を、夫婦は、地方税として納めなければならない。これは二人目を生むことへの抑制であり、今後の国家の負担から考えると、少なすぎる税額である。
3人目を出産したら、3百万円を納めなければならない。以下同様に、4人目が400万円である。生まれた後に、払う払わないの騒動を避けるために、出生税は、出産前日までに納金しなければならない。納金できない場合は、病院その他は、出産にかかわる行為をすべて拒否すればいいだろう。

 

意味はお分かりだろう。
各家庭にひとりの子供は推奨する。しかし、2人以上は望ましくない。まして、3人も4人も生むなんて、人口抑制の観点からは、不可である。
それでも多人数の子供が欲しいのなら、それなりの税を納めることである。また納めることができる財力があるのであるから、多分、その家庭は多くの子供を育てることができるであろう、という仮定に立っている。

まだるっこしいコロナウイルスで、人減らしをしようなんて、矮小なことを考えずに、今後生まれてくるだろう、人間の数を減らせばいいのである。今いる人はやがて死ぬ。発展途上国のごとき多人数出産は抑制しなければならない。人口を適正に至るまで、穏やかに減少させるのだ。

出生税をいち早く定めることを、希望する。

ちなみに法治国家以外では、無計画な出産なんて無謀すぎる。そんな他国に、法治国家は、補助もしない、援助もしない。野蛮なる国は亡ぶにまかせればいい。
現在の地球上の民主的な国々には、他国の利己的な行動に、意味もなく援助するような余裕はないのである。


と知人は、以上のことを話すだけ話して、憮然として席を立ったのである。

 

 

 

 

年末なのに、コロナごっこが止まらない。マスコミテレビ新聞の高笑い。

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2020年。

年の暮れだというのに、性懲りもなく、コロナごっこが止まらない、止まらせたくない。
コロナごっこで、得をしたのは、公務員。中でも、議員である。
マスコミでは、 テレビ屋。教員では、大学教員。

理由はお分かりだろう。


コロナで遊ぶのは、いい加減にしたらどうだろう。
老衰や持病で死亡したのに、コロナのせいにして、そんなに嬉しいか。
コロナは微弱なウイルスだが、宣伝効果が足りないと見えて、もっとウイルスを強力なものにして、ばらまこうと、某国共産党は研究に余念がない。

 

新型コロナウイルスの呼称は、世界中に定着した。誰もコロナウイルス宣伝に反対しない。疑わない。やれやれである。
マスコミが、これほど簡単に人心を操れるとは、当のマスコミ自身も驚いているのではないか。
かつて朝日新聞が「新聞を疑え」なんて、勘違いの傲慢な宣伝文句で、大方の失笑を買ったが、それどころか、2020年現在では、マスコミこそが、神であり創造主であると自認をしている。


何度でも言う。
マスコミ、特にテレビ新聞は、人類の永遠の敵である。

コロナウイルス以上に、恐るべきもの、注意すべきもの、気にしなければいけないもの、監視しなければならないもの、種々の事々がある。それを忘れないことだ。そのあと、ゆっくりマスクでもつけるがいい。

 

 

 

 

教員の力量とは何か 教材を見通す能力

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教科書改訂のたびに、教科書会社の手引書は、ますます過熱して、余計なことを書きまくっている。

宿題を多めに出す教員は、保護者から受けがいい。実態にかかわらず、熱心な先生と呼ばれることが多かった。それに味をしめて、教員は授業下手をごまかすために、宿題に頼った。とはいえ、宿題だけで授業を構成できるわけもないから、授業では、どこからか写し取ってきたプリントを山盛りにして子供に配った。
何とも、ご苦労である。


教科書会社は、ある種の独占企業だから、談合で持ち周りをする。出る量が半端ないから、莫大な利益である。
教科書には、教員用に指導書解説書プリント集などが付録でついてくる。有料である。値段がバカ高いが、どうせ税金または経費で出るから、どんなに高くても、買う方は平気だし、売る方も当然と心得る。
さあ、その解説というか指導書というか、とんでもない代物で、教科書もゴミだが、指導書に至ってはクズである。
ともかく微細に、懇切丁寧といえば聞こえがいいが、ごたごたとあることないこと、ぐちゃぐちゃに書き連ねて、分厚いものにする。
都道府県の選択委員は、こりゃ丁寧に書かれとるわい云々で、選ぶ。教科書会社の思うつぼで、ニタニタ笑いが止まらない。

教員は鈍い頭で、それを真面目に読んでしまうから、さあ大変。馬鹿正直にもほどがあるが、いちばん迷惑するのは、あっちこっち引っ張りまわされる子供たちである。

 

そこで。
教員に求められ力は種々あるが、端的に言えば、教材を見通せることができるかどうか。
いったい何を、どうするために、どうやって教えるのがいいかは、教材を眺めた瞬間に、自然に思い浮かばなければならない。
料理と同じで、用意された食材を見れば、直ちに出来上がりが想像できるようでなければ、ならない。

先日、教員は、自らの中高生の時期に、学年で一番の成績を、大まけにまけても、学級でトップをとった経験が、絶対に必要だと述べたのは、定期試験ごときで、その対処法を間違え続けるようでは、駄目だという意味である。

試験も一種の頓智である。教科の全体像を見抜けなくても、子供なりに、学力試験の全体像はわかっているはずである。それに対処をすればいいのだから、中高6年間、最低でも30回から多くは100回以上、学内試験を経ている。なのに、一度もトップを取っていないようでは、人を教える職業には、つかないほうがいいだろう。

子供に配った教科書を見れば、対処法は、つまりは指導法は、直ちに見えてくる。そこに自分なりの工夫を加えてもよし、加えなくてもよし。目的に向かって、悠々と教えればいいことである。指導書解説書プリント集など、無用どころか、平凡教員の勉強不足に拍車をかけるだけで、百害あって一利なきゴミである。

これだけ言っても、わからないのなら、わからない方が幸せだろう。

 

 

 

真面目過ぎて損をする。国語教員の勘違い。king Gnu、宇多田ヒカル、miletなど。

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国語は教えるのが難しいが、それ以上に、教員の愚かさが目立つ教科である。
無論、愚かなのは、国語科教員に限らない。それを言えば、数日かかる。

教員は、すべからく中学高校生時代に、少なくとも一度は、学校の成績トップの経験が必要だと、以前のべた。
理由は、察してくれ。人の子を教えるのである、昔のことであっても、優れた学力または問題解析能力があったことを、証明せずして、何の教員だろう。

中でも国語科の教員は、他教科と違って、教員の資質で、教育成果に、天地雲泥の差が出る。首席経験のない教員が、国語を教えるなんて、片腹痛い。


こんなことを、わざわざ言う理由は、能力不足の教員がデフォルトで、国語力をつける教員は千人に万人に一人も見つからないからである。

以上ですら、理解できない人もいるだろう。嘆くな、怒るな。その方が幸せなこともある。


国語科教員は、内容を教えるのではない。国語である、日本語である。普段使っている言語だから、わかって当然、わからなければ病院に行ったほうがいい。だから、「私は今朝パンを食べました」なんて、教える必要はない。
何を教えるかと言えば、分析と表現とをである。

その具体的な方法の一端は、以前の記事を読んでもらうとして、実は方法さえもが、一義的でない。各人各様、万策あっていい。
あなたが、中高校生時代に、成績1番だった経験があるのなら、言わんとするところが、わかるはずだ。場と時とに応じて、好きなように、思うようにやって、それで十分に効果が出ることを、知っているだろう。

例えば、特上の料理人は、レシピなんて不要である。
あり合わせの食材で、その場限り、客人限りの、料理をいきなり作って、一流の味を出す。二度とその味が出ない。出す必要もない。その日その時その体調に応じて、最高水準の料理を作る。楽に悠々と余力を残して作る。

国語の授業も、そうあるべきで、いやむしろ、それしかない。

国語科の授業で、事前配布プリントだの、生徒の提出物の確認だの、教科書出版社の手引書、参考書問題集、外部講師の招聘他種々、やたらと手段方法や準備に時間をかけたところで、効果はない。断言する。効果は皆無である。
せいぜい、生徒の国語嫌いを増進するだけで、国語力をつけるどころか、無能にさせるための時間つぶしでしかない。


話を変える。

某パーティで、ある人が、カラヴァッジオが云々と。フェルメールを口にしなかったのは、美術教員のプライドだったのだろう。何でもブームがある。
古人は上りの3年、上って3年、後は下るだけだといった。ファンはどこでもいるもので、有名というだけで、のぼせ上がる。

NHKと称する腐敗した独占企業も同様で、ごみ以下の俗悪低俗悪質な番組を無理やり有料で垂れ流しているが、けしからん話である。あんなもの、全国民がボイコットして当然だろう。

 

流行歌では、king Gnuが面白い。リアルで聞くに堪えるからで、CD音源だけが取り柄のような、有象無象の自称「あーちすと」等には、うんざりだ。

ついでながら、宇多田ヒカルが出てきたとき、Mariah Carey のコピーのようだと思った。それでも、声が善き、である。
近ごろ売り出しの、milet(ミレイ)とかも、SiaとNorah Jones を足して3で割ったコピーのように感じる。宇多田ほどの声質ではないので、その分、歌い方にいっそうの工夫をして、テクニックで目立つしかないとの自覚は、米国に育って、エンタメ競争の厳しさを知っているからだろう。そういえば、宇多田も若いころ、米国にいたのだったか。

 

 

アカポスは美味しすぎる、大学教員は暇人、遊び人、授業料盗り、の別名。

近所の大学は、多くの大学の例にもれずに、相変わらずコロナ閉校を決め込んで、閑古鳥である。そのくせ、学生からは普段と変わらず、しっかり授業料を分捕っている。

 

大学は仕事をとっくに放棄している。それでも、職業としての大学教員に魅力を感じている子供が多い。人は快楽を求める。故に、大学教員は「善き」である。


ほとんどの教員は、自分たちの給料が職責の割には安い、と言う。
間違いだ。
アメリカでは、教員は基本的に薄給である。
大学教員もそうで、博士があふれている。全米の大学に仕事を求めて、ポストを得るために動きまわって、運のいい者は、ようやくゲットできる。
一部の例外を除くと、給与は本当に安い。共稼ぎでようやく食っていける。それでも、大学教員になりたくて仕方がない。
理由は、おいしい仕事だからだ。おいしすぎてほっぺたが落ちるくらいだからである。 給与の少ないことなんか、問題にならないくらいの利点が、満載である。

実質労働時間の少なさ、社会的ステータス、丸秘男女付き合い、趣味に生きることができるなど、これ以上のお気楽商売はない。


日本の大学教員は、米国大学教員よりも、もっともっと恵まれている。恵まれすぎている。
大学に常任職を得るまで、なんやかあったであろうことは、推察される。苦労はそれなりにあったかもしれない。
その分、その後の人生が安逸を貪るバラ色天国である。目出度い。お目出度すぎる。

以上では、何のことかわからない人もいるだろうから、もう少し書く。
日本の学生も、近年、大学院進学希望が増えてきた。理科系など、軒並み増員である。
アカデミックポスト、略してアカポスは、院生たちの憧れの職業である。互いに牽制しつつ、切磋琢磨して、あの大学この大学と業績表を送りつけて、職探しに余念がない。

ゲットしてしまえば、もうこっちのものである。大学側からは、雇った教員の首を切ることができない。学問の独立だそうである。眠たい教授会や各種会議もどきの時間つぶしを適当にのりきって、幼稚な学生を遊び半分で相手にしていれば、定年どころか、75歳くらいまで楽勝である。

 

文系は、法学部がつぶしがきく。
しかし、いまどき、苦労して法科大学院を出て司法試験に受かったところで、先行きは暗い。検察や判事になるのならともかく、弁護士では、いそ弁から始めて、バタついて、それでも儲けが出るかどうか、怪しい。

こんな折、やっぱりアカポスは魅力である。
少し勉強のできるらしい、そこの君。悪いことは言わない。アカポスを目指したまえ。


さて、話を変える。

小学校教員こそが、先生らしい先生である。給料分の、またはそれ以上の仕事をする、せざるを得ない、仕事である。だから、世間から先生と呼ばれて、恥じるには及ばない。
小学校高学年の学習習慣が、その子供も一生を決定することが多い。

だから、学校で、毎日、子供達を、直接、指導する立場にある学級担任は、計り知れないほど重要な存在だ。
まさに、本当の「教師」であり、「先生」である。

先生という言葉は、大安売りになっているが、本来の「先生」という呼称は、「教師」と「医者」との二つにしか当てはまらないのではないか。

学級担任の中でも、特に小学校最後の学年である6年生の担任は、決定的な影響力を持つ。
だから担任教員達に言いたい。勝手な夢想は止めて、最低限学ぶべきことを、しっかりと教えてくれ。学習習慣を叩き込むがいい。

難しく考えることはない。利いた風な美辞麗句を使う必要もない。そんなことは、能無しの指導主事だの、大学学部の偽で暇な「教員」に任せておくがいい。
空理空論は、政治家と大学教員との専売特許である。


具体的に言おうか。

小学校高学年を例とする。
「教育漢字が書ける」こと。
「計算問題をきちんとノートに計算できる」こと。
「はきはきと音読できる」こと。
この三つだけでも完全に指導していたら、よほどのことがない限り、高校三年までの授業に十分対応できるだけの学力をつけたことと同義だ。

だから、以上をきちんと教え込むことのできる教員が、今、一番必要な人材である。信頼と尊敬とを受けるに値する教員と言える。 

以上を、すでに実践している「先生」ならば、以下のこともすでに実践済みだろうが、書いておく。

国語科と社会科とに関しては、
1.日本の歴史を、暗いイメージで、周辺の国々に遠慮したような(チャイナやコリアにごまをするような、弱みを握られているような、つけ込まれるような、米国に頼り切ってしまうような)教え方をするのではなく、日本の文化や伝統を大切にした、母国に自信の持てる、明るく、誇りの持てる力強い内容と方法とで、授業を進めること。

2.日本のことばや文章を大切にする。日本の古来からの歌や文章を紹介指導する。
和歌や俳句や古文などの名歌名文に親しませ、書き写させ、朗読暗唱する時間を確保する(国語や道徳や、「総合的学習の時間」とやらを利用する)。