ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

筑駒のミスコンは、終わりか。筑駒文化祭。生煮えのカレーと驕り。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

縁あって今年も筑波大学付属駒場中・高等学校の文化祭を覗いてみた。
去年、少し甘すぎたので、今年は辛口で書く。

 

パンフ「暁」は、去年度に比べて、わかりやすくするために整理した痕跡はあるが、しかし、まだ身内向けすぎて、新しい訪問者には不親切だ。気取ってフォントを小さくしても無駄。判読しにくいだけである。

 

高3食品班に言っておく。
あの程度の味で、人様に召し上がって頂こう、まして金銭を受け取ろうなんて、傲慢を通り越して、非常識である。
カレーのごときは、ご飯を焦がしたとかで、提供が遅れた上に、ようやく出てきたコレがもう、悲惨の一言である。水っぽい黄色のゲル状に生煮えのジャガイモ他野菜らしきものが浮かんでいる。コメはもちろんまずい。

 

以下、見た中ではという限定付きで。

ジャグリング。
演技を、2回通して見た上での感想だ。腕が落ちているぞ。やリ直しが過ぎる。もう一回挑戦、に甘えた感あり。練習じゃないんだ、文化祭本番だ、一発で決めるべき。

 

演劇。

練習不足だ。完成度の低さが隠せない。どうせ中高生である。それほどのものを求めてはいない。熱心に演じる子供を、大人は、微笑ましく見るのである。しかし、モノには限度というものがある。
去年よりも、水準がかなり落ちた。原因は知らぬが、関係者は猛省せよ。

 

ミス筑駒 
目玉だとされているが、今後、凋落するだろうことを予感させた。
こういうエンタメは出演者の資質がすべてである、ある水準以上でなくては、どうにもならない。
ここ数年のネット上の「ミス筑駒」人気に、よりかかりすぎである。出演者の美人度や可愛さが売りなのだから、レベル以上の女装男子、男の娘であることが必要だろう。それでようやく、寸劇等受け答えの所動作に、笑いと時分の花的エロスとが加わるのである。
男性が女装するだけなら、企業の忘年会ならともかくも、中高校文化祭のイベントには、不足である。

出演者も実行委員も、落ち着いて、大きな鏡を前に、小一時間、反省せよ。
所詮見世物なのだから、筑駒生ブランドで、ごまかすのは無理がある。外見が水準を越さなければ、「きついなあ」という正直な声が諸所から出るようになる。

 

褒めるべきは地理科の展示、「私たちの身のまわりの環境地図作品展」である。じっくりと全作品を見て、楽しむことができた。今回の筑駒中高文祭では最高の出来だった。
しかしこの展示作品は、北海道から借りてきたものである。一番の展示が借り物であるということを指摘しておきたい。

 

総じて、やっつけ仕事感のある文化祭だった。一生懸命であったろう子供たちには酷な評かもしれないが、それが世間だ。いつまでも甘えさせてくれるわけがない。

とはいえ、中学生や高校生が、文化祭に取り組むことは、非常に望ましい。いっそう頑張ってほしいと思う。

 

さて、テント下のテーブルで、まずいカレーを飲み込んでいると、そばで小学校低学年をもつ数人の母親たちが話をしている。塾や勉強の話がもっぱらだが、受験の3年前から、こうして文化祭に足を運んで、我が子の入学に夢をはせるのである。またもや、涙である。

 

f:id:paruru236:20191105162112j:plain

環境地図作品展から

 

f:id:paruru236:20191105162119j:plain

ミス筑駒

 

f:id:paruru236:20191105162116j:plain

テントでまずいカレーを食す

 

中学生、同級生を撲殺して川へ突っ込む。加害者と被害者の逆転

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

もう大方はお忘れだろうが、いじめられていた中学生が、自分をいじめた中学生を撲殺した上に、川の中に叩き込んだという事件があった。
完全に絶命しているのにもかかわらず、石を何度も頭に振り下ろし、顔を下にして川に突っ込んだ。
よほど相手が怖かったのだろう。生き返ってきたら、また、いじめられる。念には念を、入れた。

普段から、軽い喧嘩をしていないから、こうなる。想像力の欠如である。程度というものが分からない。やりはじめたら、とことんやってしまう。

ところで、一時、流行った、子供にとって都合のよい逃げ口上に、「切れる」というのがあった(キレル、とも書く)。
これを他人が言うのならまだしも、本人が真顔で言うのだから、笑わせる。
「~~なんて、言われたものだから、切れちゃって」などと使う。

馬鹿を言うな。紙の紐ではあるまいに、何が「切れる」だ。
自分には妙に甘えるくせに、自己の行動が他人へどういう効果を及ぼすかについての斟酌が、まるでない。想像力の欠如である。

かくなる原因のひとつは、テレビやゲームにある。

なぜそうなのか、すぐに思い浮かばないのなら、それもまた、想像力の欠如だと言えば、貴殿は怒るだろうか。

日本人は、子供を本来的に善とみている。
子供は可愛い、無邪気である、天真爛漫とまではいかないが、ともかく、邪悪な存在とは思わない。そして実際に、ほとんどの場合、子供は善意なのであろう。

学校教員は、子供を純真な天使と思いたがる。
教員が、子供に悪意を持って接することは、まずあり得ない。万が一、あったとしても、ごくごく例外である。
ならば、善と善とが邂逅したのである。まことにめでたい。

しかし、現実は、そう簡単ではない。

問題行動を起こす子供が、学級に一人や二人いても、それは構わない。子供が複数集まれば、様々な子がいる。当然である。
だが、問題行動の量と質によって、危険な結果になってしまう。
非常な暴力で、同級の子供に物理的心理的な損害を与える場合は、一年に一度のことだからといって、看過できない。
危険な行為が一月に一度、毎週、毎日、毎時間であるとすれば、どうするのだろうか。

子供には可塑性があるからとか、指導によって今後を見守ろうとかでは、全然間に合わない。
問題行動をとる子供には、他の子供の安全のために、即刻、対処しなければならない。
学校職員だけではなく、児童相談所、学校カウンセラー、地域の大人等と連携して、当該児童生徒学生を停学等となし、学級に近づけてはならない。

教員は、学級の全員に責任を持つ。
安全で円滑な教育活動を著しく妨げる要因は、厳しく排除しなければならない。それが、学級担当、教科担当を預かる者の権利であり、責務でもある。

以上の点が、日本の学校教育、特に義務教育期である小中学校では曖昧である。事態を冷静かつ的確に判断することを、避けている。
教員の指導力や地域の教育力や子供の家庭環境等に、原因の大半を押し付ける。問題行動をとる子供は、むしろ被害者なのだから、我々大人が、子供の気持ちを理解し味方になって、見守るべきだ、という結論になりやすい。

子供の暴力行為を性善説で割り切って、当人の性格や成育歴や家族の要因を、見て見ぬ振りをする。
簡単に言えば、親と家庭環境とを、無視し続ける。
悪いのは学校であり、教員であり、学級の子供たちだ、ということにする。
いつの間にか、加害者が被害者となって、問題行動の常習犯は、無垢な天使になってしまっている。
問題をややこしくする前に、綺麗ごとを優先して、頭を先に下げた方が無難だという、教育関係者の大好きな「保身ごっこ」の出番である。

 

 

 

 

教員のいじめ。子供は油断ならぬもの。地獄も極楽。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

某教員曰く、小学校高学年で音読を厳しく指導していたら、なるほど、そこそこの成果が上がって、ぐんぐんと子供たちの音読が向上した。ところが、授業中、教室の子供が挙手して言う。
「先生、今なんて言いました?」
子供は教員の滑舌の曖昧さを指摘したのである。

自分達に高い目標を設定し、要求するのなら、教員もそれなりに高い水準で発音発問説明指示その他をやってみろ、ということなのである。
油断ならない高学年だ。

これも教員の楽しみである。効果的な授業にするために、子供にいっそうの集中や努力を要求する。だったら、教員も当然に高い授業力であれ、という、子供の厳しい「お達し」である。
こういう時、教員は心底、教育現場でのやりがいを感じるのである。ただし、あれもこれも、授業が授業として、成立していればの話である。授業が形を成していなければ、お話にならない。

 

普通及び普通以上の授業が、当たり前になされるのが、よい学校である。

あの学校はよい、この学校はよくない、などと公立小学校や中学校の評判を耳にする。
詰まるところ、教員の問題だと思いたいが、そうでもない。
教員が落ち着いて子供の授業へ集中できるのは、子供たちが落ち着いて授業に臨み、内容を理解しようとしているからで、結局、子供の気持ちが安定しているからである。
なぜ、安定しているかといえば、子供の家庭が安定しているからである。

家庭が、精神的経済的に盤石なら、子供も安心して学校に通うことができる。学校で教員の指導を素直に受け入れて、勉学に励むのである。等と書くと、できすぎのようだがそうでもない。
実際に多くの学校の様子を見ると、この式は簡単に成り立つ。

だから、昔は小学校から私学に入れたがる親が多くいた。私学なら、通う子供の家庭環境が、ほとんど同質だろうから、子供が安定している。その結果、落ち着いた教育がなされるだろう、という親の予測である。ところがどっこい、児童生徒はともかく、私学教員の実態が様々であることは、以前すでに書いた。見てくれ。

 

子供の家庭の安定は、学校の評価とパラレルである。
どんな大人でも、環境に染まるだろう。だったら、子供はなおさらである。
子供が落ち着いていれば、教員も落ち着く。教員は教えることを楽しみとしている人が多い。嫌々「先生をしている」ような人を、幸いにして、見たことがない。教員は、口では愚痴を吐いたとしても、本心は、子供好き、教えることが大好きなのである。

地獄だと思うようなこともあるかもしれないが、それは極楽の中の地獄である。

 

話は変わるが、先日、神戸の小学校で教員同士の「いじめ」があったそうである。若い教員を、数名の中堅の教員がいじめたという。
いじめる、いじめられる、は万古不易の心の闇の部分だから、驚くに値しない。
教員は、普段、保護者や子供や各種機関から、ある種のいじめを受けている存在である。だからといって、同僚や後輩を虐めてはイケナイ。十分にいじめは体験しているはずだから、むしろ互いに労り合うぐらいで丁度いい。
同士討ちというか、共食いのようなことをしては、なり手が少なくなっている初等中等学校教員の人気が、ますます落ちてしまって、人材が枯渇する。
後輩は可愛がれ、同僚には親切に。などと書くと、標語のようになるが、教員はかくあれ。

 

相手を見て、指導する。荒れた学級は、子供の知的興味に訴える。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

子供は、誰もが背伸びをする。子供は挑戦したがっている。現在の自分より少し上を常に望んでいる。なかなかの自信家であり自尊感情が強い。

子供に、知的な興味関心を育てることは簡単で、対象を子供に提示するだけでいい。
もっとも、こんな簡単なことでも、「魅力」ある教員でなければ、難しい。知的な向上心を活発化させるような教員が、子供に好まれるのは、子供自身が、本心では、学びたがっているからだ。

教員のすることは、子供の自然な感情を刺激しながら、授業を進めるだけである。小難しい理屈はいらない。
不必要にややこしく勝手に悩むから、困るのである。

その昔、ソ連の心理学者で、最近接領域とか言った者がいた。
言い得て妙で、もう少しで手に届くぎりぎりのところを与えて、教え伸ばすのが、万事上達の秘訣である。

簡単すぎても、難し過ぎてもいけない。少し悩ませて苦労させて、自力で解かせる。少なくとも子供自身がそのように感じるように指導しなければならない。
これを間違うから、子供に勉強嫌いが出てくるのである。


話は変わる。
小中学校、特に小学校の高学年では、担任教員によって、ずいぶんと学級の雰囲気が違う。
荒れた学級、荒れつつある学級、まあまあ落ち着いている学級、その他。

混乱の原因は色々で、簡単ではない。子供と教員との人間関係に帰着する。
教員と子供とが、敵対関係に近いものになっていると、すべてが悲惨となる。もっとも、子供は可塑性があり、マイナス面から目をそらし、自然と得になるように行動するから、学級の現状に馴染もうとする。現に、すぐに馴染む。
馴染まないのは、むしろ担任教員であって、うじうじと拘泥するから、ますます泥沼に嵌る。

例えば、言葉の遣い方である。
教員は、授業中、言い間違えをしたとき、大げさに謝る人が多い。
これを何回もやると、教員の言葉に、子供は都合よく敏感になり、教員の言葉尻を捕まえて、攻撃の機会を待つようになる。
一方、教員は、防御のために、言い間違えたら、子供の指摘の前に、先手を打って謝るようになる。これがかえって、子供の教員攻撃の端緒となる。
悪循環である。

また、一部の子供が他の子供へ、あえていたずらして、それを教員に注意させることによって、教室の喧噪を増やそうとする。学級の多くの子供が、内心期待するところでもあり、いたずらをする子供へ同感しているから、教員個人と学級全体の対決となる。
こんな学級は、午後は、決まって喧噪が拡大する。午前はあれでも一応の規律の中にあったモノが、我慢できなくなって噴出するのである。喧噪を抑えようとしてきた教員の体力も、午後には弱まってもいる。

その他、事例は山ほど提示できるが、荒れた学級の特徴を指摘しても仕方がないだろう。
担任教員次第で、何とでもなる。しかし、実際の場面で、教員の指導ができる人が少ない。または、いない。
このあたりのことは、微妙な問題である。いずれ話す。

 

 

 

 

 

 

アクティブ・ラーニングはごまかし。言葉が躍る指導要領は、無駄である。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

他の省庁に比べて、文科省のつらいところは、何かをやっているふりをしなければならないことだ、とある人が言った。


本来は暇を持て余して、あってもなくてもいいような役所である。しかし、極楽な毎日でも、文科省の職員として、給与は払われているのだから、やっぱり何かをしている素振りが必要である。

そこで考えたのが、学習指導要領なる短い文書を、十年に一回くらい出して、教育界を引っ掻き回す作戦である。文書内容は、雨の日は雨が降る、といった類の、当然すぎる内容だが、これによって、小中高や大学の教員その他に、文科省の存在をアピールするのである。大手学習塾チェーンやマスコミ各位殿とも連携して、せっせと話題作りをする。

文科省という役所があったこと、仕事らしきものをしていることを、宣伝するのである。

言っておくが、学習指導要領なる、スカスカの文書が、世の中の役に立った例がない。あれこそ、無駄の極致で、教育関連の商売人に話題と金銭とを提供するための一大キャンペーンである。
さて、近年の目玉はアクティブ・ラーニングとやらである。笑止な。

日本人なら日本人らしく日本語で書け。
日本語で書くと、中身のないことが、ごまかしばかりであることが、ばれてしまうのが怖いのだろう。
日本の「グローバル化」対応のための、「キーワード」だそうである。
何度も笑わせてくれる。

中身なんて何にもありゃしない。普通の授業をきちんとすればいいことで、それすらできないくせに、大仰な口を叩いても、無駄である。
つくづく、文科省職員の卑しさを、遺憾とするのである。

 

話を変える。
教員は、子供に学力をつけること、が本分である。
学力とは、既存の知識を理解し、新しい知見を創造する能力のことをいう。
手っ取り早く、学力の向上または退化を判断するには、試験である。つまるところ、試験の「成績が良い」ことが、学力がついた証となる。

学校は、子供に学力をつける場所である。知識を教え込み、多少の応用力が育ったなら、
万々歳である。それ以上でも以下でもない。

できもしないくせに、壮大な目的を挙げて、力んでしまうと、肝心な学習内容の教授が疎かになる。というより、迫力がなくなる。

ほとんどの学校は、成績が何よりも大切だ、と表立っては言いにくい。それをはっきりと掲げることは、憚りがあった。「成績ではない、人間性が一番だ」と綺麗ごとを並べ立てて、大嘘をついた。
学校は、生意気にも、他人の人間性まで判断するのであろうか。
大きなお世話である。いっそ、最初から、「点数至上、成績第一です」と言え。
低レベルの指導要領の内容すらカバーできないでいて、「生きる力をはぐくむ」とか、聞いて呆れる。
さっさと、授業を進めろ。

景気がよい頃は、日本は工業力で他国に一歩も二歩もリードして、余裕があった。
今は違う。世界の競争が厳しい。嫌な言葉だが、「ボーダレス」である。

日本の得意分野に、強敵がどんどん出てくる。資源もなく狭小な国土の日本は、常在戦場である。しかも常勝を期待されている。人材だけが頼みの綱である。
人材育成の土台は、言うまでもなく教育である。学校教育である。授業のレベルである。
学校だけが、競争と無縁なわけがない。
学校で子供に力をつけることができなかったら、アウトである。脱落である。学校、教員、親、行政、国家、丸ごとアウトなのである。
セーフになるには、全力で走るしかない。少なくとも、教員は、子供を厳しく指導し、励まさなければならない。それが仕事のはずである


しかしながら、子供は、放っておいても成長する。または、自力で学習する。これも事実である。
その一方、子供が自然に伸びるのは、生理的にであって、教育的にではない。故に教育が必要だ、という意見もある。
果たしてそうだろうか。
子供は自分で、自身を教育しながら生きている面もある。
「親はなくとも子は育つ」という。意図的どころか、何も教育しなくても、いつの間にか身も心もそれなりに成長する。
これも逃げ道の一つである。

時間の流れが、教育の成功も失敗も、飲み込んでいく。それに甘えて、教育関係者は大言壮語する。
生きる力だの、主体的だの、個性尊重だの、無意味なキャッチフレーズを並べ立てて、自己満足に陥る。
肝心のことは手抜きして、綺麗ごとを言う。その結果はだれが責任を取るのだろうか。


教育は、つまりは、大人による意図的な営み、である。
意図的ではあっても、予定通りにいくものかどうか。「営み」を過大に評価すると、教育の間口が際限なく広がって、収拾がつかなくなる。

学校は、学力をつければいいのである。それだけが学校の役目であるし、それ以上のことが、学校にできるだろうか。よく胸に手を当てて、考えるがいいだろう。

 

 

 

子供の転入学校。転勤先の住所選びで、とんでもないことに。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

学校によって、授業をするときの、しやすさに差がある。
学校が違うのだから、当然といえば当然すぎる話だが、差はどこから来るのだろう。
落ち着いた授業が成立する学校は、どこが違うのだろうか。

うまく答えが出せないのである。複合した理由があるから正解がでない。子供も教員も生き物だ。時々刻々と変化する。
ごくまれに、問題校がいつの間にか模範学校に変化したりもする。
しかし、大概は、指導困難校はいつまでたっても指導困難校であって、優秀校との差は歴然とある。これは高校や中学の話ではない。小学校にして、すでにそうなのである。
ここでいう優秀校とは、教員の適切な指導により、子供が落ち着いて授業を受け、如実に子供の学力が向上し、保護者も学校教員へ親しみと敬意とを感じている、というほどのことである。

子を持つ親が、転勤に伴って、住居を決めるときは、慎重に調査をするべきである。優秀校に転入するためである。
夫が忙しくて時間がとれないことがある。妻は一足先に転勤先の町に乗り込んで、評判のいい学校を探さなければならない。
これはと思う学校を見つけたら、そのそばに住居を選ぶ。適当に転居先を決めると、とんでもない目にあいかねない。あなたが、ではない。あなたの子供が、である。

調査はどうするか。簡単である。インターネット情報も参考程度にはなるが、実施見聞が第一である。学校近くのスーパーで主婦たちが教員の噂話をしているようなら論外。
学校のそばまで行って、校舎や校庭、休憩中の子供を観察する。下校時に、それとなく子供に挨拶する。どの子供も、ほどよい声で、品良い挨拶を返すようなら、まあまあである。

思い切って、事務室に行って、授業を見たいのだが、と切り出すのもいい。断られるだろうが、断り方を観察するのである。事務室の職員の対応が柔軟なら、職員室の雰囲気もそれなりだろう。中には、授業参観が可能な場合もある。
授業参観日に紛れ込むのもいいが、これは当日まで待たなければならないから、時間的余裕があるときである。

しかし、大概は町で食堂にでも入って、学校の評判を訪ねたら、自慢げに答える人が必ずいる。一つの聞き込みではなく、何人かの意見を総合すれば、結果に大きな差はないだろう。

たとえば、仮に、某市では、小学校200校中、優秀校2校優良校3校。中学は80校中、優秀3、優良3程度としようか。その校区に的を絞って、住居探しをすればいい。


以上は、某保護者から聞いた話である。