ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

キャッチの世の中。スター誕生や綺麗ごと。教育は、ひたすら「虚しい」か。

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私立学校には、建学の精神というほどのものがある。半ば形骸化して、惰性で続いているだけのような学校も、創立者の理念だの、建学の精神だの、能書きだけは一流である。とすれば、私立学校は、学校ごとに大きな特色があって当然で、ない方がおかしいことになる。

さて、公立学校も、学校によってその中身は驚くほど違う。
地域が違い、通ってくる子どもが違うのだから、当然ではあるが、個々の教員にとっては、勤め先がどんな学校であるかは、死活問題になりかねない。

簡単な見分け方は、校長の顔を見るといい。のんびりゆったりしているような雰囲気があるなら、その学校は働きやすい職場である。
人相に険があって神経質で、しかも上昇志向が露骨に出ているようなら、それは悪い学校である。

俗に、校長が学校を引っ張ると、以前は言ったが、戯言である。校長に、実際の指導ができるわけがない。校長の役目は、教職員の労働環境を具申し、対外的な雑用をこなすことにある。
条件整備に意を払い、教員の鬱憤のはけ口となって、ひたすら教員や保護者の愚痴を聞いて、共感することができるなら、上出来である。
一人前に教科指導や生徒指導の蘊蓄を垂れてはならない。担当教員の方が数段上手だろう。

晩年の某喜博が、教育とは、と問われて、苦渋の顔で「虚しい、ただ虚しい」と語った。自己表出をうまく演じ、年齢を重ねるほどに、周りから持ち上げられ、やりたい放題だった男の、正直な言と、とらえるべきかどうか。

仮面が厚くなると、支えきれなくなる。教育は、教員と子どもたちとの個人的営みであるから、大言壮語や、各種イデオロギーと、相性が悪い。多くを望まず、多くを語らず、日々の授業で学力を確実に子どもにつけることが教員の本務である。その他にあろうはずがない。

結局、教育活動はムーブメントではない。スター誕生でもなければヒーローヒロインの活躍する場所でもない。地味な裏方作業であり、苦労のみ多くて報われることのない仕事である。そう割り切ることができないのなら、最初から教員なんて、よすがいい。むしろ、営業職や芸能界が向いている。

そういえば、文科省と提灯大学の教育学部、および教育系マスコミ業の連中は、いつも愚にもつかない流行をでっち上げてきた。ここに書くのも恥ずかしいのような代物で、よくもまあ、懲りもせずと、呆れるのである。
今は何が流行りだろう。知らなくて幸いである。

教育の根幹は自学自習で、自ら問いを発して解決するに尽きる。
宣長に、
「詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。
いかほど学びかたよくても怠りてつとめざれば、功はなし。
又人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、
生れつきたることなれば、力に及びがたし、されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有物也。
又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり。
又暇のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也。
されば才のともしきや、学ぶ事の晩きや、暇のなきやによりて、
思ひくづをれて、止ることなかれ。
とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし。
すべて思ひくづをるるは、学問に大にきらふ事ぞかし。」(『うひ山ふみ』)とある。

余計なキャッチフレーズなど、不要である。

 

 

問題の子ども。学年をぶっ壊してご満悦。退学させて施設にいれるか。

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ある人来たりて、嘆息して曰く。


今時、在籍数1000人を越えるような公立小中学校は珍しいが、都会またはその近郊では一学年5クラス6クラスの小学校が存在する。
たとえば、ここに某公立小学校Xがある。

一年生が6クラスとすると、その中にたったひとり、際だって「問題」な子供がいると、なんと全クラスがおかしくなる。学級内に収まっているときは、当該学級だけの崩壊で済むけれども、運動会、遠足、課外学習など学年全体で行動するときには、学年の児童全員に、一挙に伝播する。

ひとりのために、全教員が振り回されるのみならず、その姿を目にした他の子供の頭に、当該児童のわがまま狼藉ぶりや教員たちの右往左往が焼き付いてしまう。その結果、学年の全児童が落ち着きなく指示が通らず、安定せず、だらだらそわそわいらいら、何ごとにも、いい加減でお粗末になる。

以上を大袈裟だと思うなら、あなたが現場を知らないからで、教員なら、あるある、と頷くだろう。

さて、問題はこれからで、当該児童を排除する方法が今の日本の公立小学校には、ないのである。

もちろん教員は必死である。入学から数ヶ月、なんとか、この子供を落ち着かせよう、少しは周りの迷惑にならないように、指示が通るように、数分でも勝手な行動をとらないようにと、指導してきたはずである。
それがどうだろう。全然変わらないどころか、ますます傍若無人な行動をとる。児童相談所他、いろいろ調べても、大きな問題もなく、言葉の理解や発言も、年齢発達段階相応である。これでは、学級から追い出せない。居座る。
愛情をかけても、逆に少しばかり厳しくしても、一切効果がない。

さて、当該児童のようなケースは、いろいろと議論があるだろうが、それはそれ。つまりは全体を引っかき回す児童を、それなりの施設に入れればいいだけの話である。子供は可塑性が大きいから、なおるものなら、なおるだろう。なおらないなら、それまでである。現学級復帰は無理である。

と、このようにすればいいのだが、しない、できない。居座る。

学年全体の子供、親、教員たちも、問題の子供に、大迷惑である。他の子供たちの学習権を奪っているにもかかわらず、居座る。


おもてなし文化というか、何というか、日本の公立学校は優しい。優しすぎる。
たったひとりの問題児でも、全体の犠牲を考えることなく、暖かく見守るのである。
不思議な風土である。

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というような話であるが、さて、どうしたらいいものか。
担任教員の指導が手ぬるいまたは、力不足だ、と言うのは簡単だが、実際はそんなものではないだろう。子供も色々である。子供を根本から変えることなど、誰にもできない。

第一には、当該児童の親を巻き込んで指導することになるが、しかし、その子なりの親であることが多い。言っても無駄、逆にぶちぎれる可能性がある。たとえ双方の理解ができたとしても、肝心の子供は簡単に変わりはしない。

 

法改正しかないのではないか。義務教育期間の公立学校に、いくつかの条件に該当したならば、強制退学させる権限を持たせるしかない。

通常の能力の教員の指導で、指示が全然通らず、本人の我が儘勝手な行動が続き、他の子供に身体的危険を及ぼす可能性が大きく、変化改善が長期にわたって見られない、このような子供については、退学させるべきではないか。こういった傾向を持つ子供のための専門の施設に、強制収容させて、そこで教育するのである。

無駄にやることが増えてばかりの小学校の教員を、これ以上、苦しめても何にもならないだろう。
ここは行政の出番である。法制度を改正をするのが順当だろう。

 

いじめ男子を排除する。甘い顔でおもてなし、大概にしておけ。

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学校の問題は数あるが、いじめは大きな問題である、とされている。

他人からうけた行為を、いじめと感じ、それにめげてしまうか、避けて通れない経験と観念して受け流すか、対峙して対抗策をとるのか、等々の対応は、人それぞれである。もっとも、子どもの場合は、時々刻々変化する。いじめの行為者と被行為者との立場の転換も起こるだろう。

いじめを、悪と決めつけて、糾弾し、なくそうとするのならば、まず、いじめの概念を明らかにしなければならない。一種の罪刑法定主義である。いじめを撲滅しようとしても、いじめの概念が明確でなければ、そもそも無理である。

ある行為が、相手によっていじめととらえられり、逆に友情の発露ととらえられたりするのは、行為の内面に立ち入るという過ちを侵しているからで、当該行為の外形のみを、問えばいいのである。
簡単に言えば、道交法に言うところの速度制限違反であって、急いでいようと、スピード狂であろうと、アクセルを無意識に踏みすぎたのであろうと、速度域を超えていたらスピード違反になる。

いじめ問題を難しくしているのは、いじめの認識が確立されていないからである。
まず、実証的に、どういう行為がいじめなのか、いじめの定型を決めなければならない。
刑法流に言えば、いじめの構成要件を記述しなければならない。

手近な国語辞典(1987年版)では「いじめ」の項目はなく、「いじめる」がある。「1 弱い立場にある者にわざと苦痛を与えて、快感を味わう。2 限度を越えて、乱暴に物を扱う」とある。
これでは特定できない。
弱い立場とは何か。わざと、は故意の証明である。どのような行為が、相手に苦痛を与えることになるのだろうか。
その行為が相手に苦痛を与えていなくても、いじめの行為の定型に合致し、違法性と有責性とを備えていれば、いじめと認定すればいい。

とはいっても、どうも釈然としない。
これは結局、いじめは子どもたちの日常の挨拶のようなもので、法的裁定にそぐわない、と先人が考えたからではないか。

いじめは、嫌なものである。不快である。しかし、人の心に潜むいじめようとする感情は、以前もあったし、今もあるし、これからもあることだろう。

いじめを心理学的に説明したり、社会現象としてとらえたり、小難しく考えても無駄である。
プーチンですら、ある時、アメリカを長とする連合側からいじめられた。プーチンは全然めげずに、背中に核爆弾を背負って対抗した。びっくりして、アメリカ連合側は急に元気がなくなった。
大国間でもいじめ、いじめられるは、日常茶飯で、ロシアもアメリカも、大国として、小国をいじめていることも、大同小異である。

学校の、いじめを許すな、のかけ声は、ごもっともであるけれども、しかし、いじめは人の哀しい本性のようなもので、永遠になくすことはできない。
なくしたとしたら、外形だけで、だから外形が当てはまればいじめと断定し、法的措置を執ればいいのである。

都会の混んでいる電車内では、男性の立ち席の客は、痴漢呼ばわりされるのを恐れて、みんな両手を胸より高いところへ出している。まるで西部劇のフリーズである。
直立してズボンに手を突っ込んでいたり、鞄をだらりと下げて持っていたりしたら、周りの女性客から、いつ何時触られただの、痴漢だのと、叫ばれかねないのである。大声をあげられた時点でアウトであって、冤罪のパレードとなる。

ならば、いじめも、似たようなものである。いじめられた、傷ついた、もう学校に行きたくない、死んでやる等々、何を言い出すやらわかったものではない。
だから、いじめの定型を作れ。該当すればすべていじめ、該当しなければ、それは妄想である、と明快にすればいい。

 

教員の実力と中学生の学力低下。某中学校の授業参観。

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この中学校は、どこでもいい。たとえば、あなたの住んでいる近くの中学校を想像してみればいい。

中学生(男子)と高校生(女子)の子を持つ親から聞いた話である。


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どの中学校も、中学生という難しい時期の子供を扱うわけですから、学年団もそれなりに問題を抱えています。特に今年の中学2年生は学校での生活、学習ともに非常に乱れている状態だと聞きました。

この中学校では、生徒が教員に暴言を吐いたり、休憩時間中、更衣室で菓子を食べたり 、チャイムの無視や暴言奇声はもちろんこと、授業に全然集中できない状態であると聞きます。生徒間のいじめや暴力行為も頻繁にあるということでした。授業が、生徒の学力保証になるどころか、単なる遊び時間の延長のまたは、もっとひどい暴力の場になっているようです。

先生方も苦労なさっているようですが、一部の生徒に過度に遠慮されているのか、強い指導が為されていないように思います。もちろん、授業が不成立なような状況に至るまでには、一部の問題的行動をとる生徒を放置したり、あるいはその指導が足りなかったということがあったかもしれません。

また、中学入学までの 前段階として、同じ校区内の小学校高学年での学習指導や学校規律が、きちんとなされていたのかどうかにも、関係があると思われます。

勉強をしたいと考えている生徒にとって、普通に勉強できるような場所にするために、教員も行政も保護者も、何らかの行動をしなければならないと思います。

近年の中学校における学力の低下は目を覆うばかりのものがあります。
学校側でも生徒の荒れに対処するに精一杯で、学力の向上に手が回らない状態のようです。これでは、今後の社会状況の変化に対応する知性的で創造力あふれる人間を育てることは、とうてい無理な状況のように思われます。従って多くの親は、苦しい経済状況の中でも、なんとか学習塾に通わせて、最低限の学力をつけさせようと必死でございます。

多くの親は、この状態を見越して、小学校段階から、公立中学校への進学を放棄し、なんとか私立の中学へ入れたいと希望する親が多くなってきました。家庭の経済的及び子供の学力という条件をクリアできるならば、私立中学に行かせたいという考えを持つ人が多いのが現状です。

しかしながら、現実には、受け入れの生徒数の問題があり、小学校卒業生の7割程度は公立中学校に通うこととなります。私立中学は不況にもかかわらず、公立中学に比べて、高い学費が必要ですので、誰にでも門戸が開いているわけではありません。

ですから、公立中学校では今一度、学習指導要領の原則に立ち返って、学力の向上の見える授業を行っていただきたく、授業妨害を行う一部生徒に対しては厳しい対応を願わざるを得ません。実りある毎日の教育活動を進めていただきたいと思います。

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以上の意見はともかくとして。

過日、公立中学校の授業を見る機会があった。中学3年生である。英語、数学、国語の授業を何クラスか参観した。

あいかわらず、中学教員の多くは授業が下手である。
授業の技術は、小学校の教員が一番優れていて、高校教員は素人である。

大学は論外で、大学教員のそれは、授業というよりは、独りよがりのつぶやきにすぎないことが大半である。まことに、おめでたい「職業のようなもの」である。

さて、某中学の授業では、教員は黒板に教科書と同様の図を書きなぐり、ときどき、生徒の方に振り返っては、教科書のページを棒読みする。
生徒を前に出させて、黒板に書かせたり生徒自身が考えた解法を説明させたりすることをしない。どういうわけだろうか。
うまく指導すれば、生徒の発表も可能であるはずなのに。

女性教員によくあるタイプだが、大声を張り上げる。何とか生徒達を授業に入り込ませたい気持ちはわかるが、声を大きくすればするほど、知性はどこかに飛んでいく。むしろ、声は小さいほうがいいのである。

授業構成は、教員が一方的に話しているだけのものがほとんどであった。それも「簡潔にして要領がよく、興味をひいておもしろい」のならば、まだ救いようがあるのだが、だらだらと冗漫で、暗く自信のない様子である。

お決まりのプリントを配り、生徒達は、漫然と書き込んだりして、手持ちぶたさである。しかも、例によって自己評価(よくできた・できた・もう少し。自分のことを自分で○をする)とかの欄がある。こんな偽善があるだろうか。

自己評価をする行為そのものが、授業の目的になってしまっている。

何より問題なのは、この「授業のようなもの」が授業であると、教員も子どもも信じ込んでいることだ。

中学生は、小学生の次の段階で、年齢的にも近いのだから、小学校教員の授業レベルの、せめて半分程度くらいは、中学校教員も効果のある授業をするべきである。

とはいえ、私は、一部(あるいはほとんど)の小学校教員が、授業に凝りすぎてしまうことを、苦々しく感じている。
何でも屋であることを要求されている小学校教員は、ただでさえ、殺人的に忙しい。

毎時間の授業を、繊細に精緻に、「完成度」を求める準備作業ばかりに、日々のエネルギーのほとんどを使っては、なんのことやら、である。

準備に費やした時間の割には、授業の効果少なく、自己満足に過ぎない。あれでは、毎日へとへとになってしまうだろう。

小学校教員は、授業方法にいたずらに凝ることなく、淡々と授業を進めるようにすればいいのではないか。知的迫力のある授業は、授業の明確な目的と、知識と自信とを教員が持ってさえいれば、できるはずである。

それはともかく、中学校に話を戻そう。
中学の授業レベルは年々落ちてきている。もちろん、学習の基準となる「学習指導要領」が、ご存じのように、あきれかえるほど、レベルダウンしているので、一方的に中学教員のせいばかりとはいえない。
だからといって、授業の工夫もしない、教員が知的レベルを高める努力もしないようでは、ますます泥沼にはまって行く。
今、全国の多くの公立中学校で行われている授業では、並の中学生なら、その単調さと、知的な格闘のない平板な時間つぶしに、きっと嫌になることだろう。

教材も教える方法も、数年前と比較しても、程度が下がっている。だから、子供がついてこない。知的興奮がないからである。

子供の授業態度が年々悪くなり、指導そのものが難しくなってきていることは認めよう。しかしそれは、授業がお粗末であってよいことにはならない。授業を、教員の意識で変えていけば、倦怠の塊のような中学生でも、いくらかは蘇生するはずだ。

 

 

運動会や体育祭の哀しさ。無料演芸会、地域サービスもいい加減にしておけ。

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 小中学校は長い間、3学期制で、4月9月1月が新学期の始まりであった。現在は、2学期制が多く、この場合は10月が境目である。

 

新学期が始まると早々に、学校は、常にも増して大忙しである。

指導計画、教材準備、すべて万端なはずなのに、なぜバタバタするのだろう。

すぐに運動会があるのである。都合よろしく、5月にする学校が増えた時期もあったが、9月または10月開催に戻る学校が多い。

運動会という、変な行事が当たり前のように居座って、もう何年になるのだろう。いい加減に終わりにしたらどうか。
あれは地域の人々を慰撫するための、無料の演芸会である。サービスである。
子供を、暑い日中に運動場に晒して、勉強を放棄させ、こき使って、意味不明の踊りに類似した集団演技をさせて、地域の住民に護摩をする。
指導する教員も、ご苦労だが、何より子供が迷惑する。

運動会は百害あって一利ない代物である。
もう止める、と職員会議で決定すればいい。そんな学校は、学校自由選択制の下で、大人気となって、子供や親が殺到するだろう。
嘘だと思うなら、お宅の学校で、まずやってみたら如何。

日本の公教育が、惰性で甘えてきたこと、周りの評判に怯え、振り回されてきたことが、よくわかるはずである。


中学校では、体育祭の練習が、うまくいかない。あんまりうまくいかないので、教員による指導を最初から放擲して、子供を利用することを思いついた。
中学生に運営を任せるふりである。生徒主導だそうである。主体的だの自主的だの、意味不明の奇麗事を並べ立てて、教員は、実際の指導からちゃっかり手をひいて、一挙両得を目論んだ。
要するに放任である。ほったらかしなのだから、ろくなことにはならない。

特にひどいのが、演技種目で、練習に不熱心どころか、はなから、練習なんかしやしない。
徒競走だけなら、半ば、やけっぱちで走る子供達も、演技となると、「馬鹿馬鹿しくって」やる気にならない。

 

小学校の運動会で、散々、演技と称する猿真似を無理強いに、やらされてきたのである。もしも、それが楽しくてやりがいを感じていたのなら、中学生になっても、喜んでするだろう。
そうしないのは、小学校の運動会が、楽しくなく、やりがいもなく、不愉快なだけの思い出しかないからである。
それでも小学生である。教員に大っぴらに逆らうこともなく、従順に操られてきた。
中学生ともなると、そうはいかない。あんなことするもんか、となる。

 

中学生が、教員の指図通りに行動しないのは、問題ではあるが、その根は、小学校の運動会という無理無体な「やらせ行事」の、「児童虐待」に原因がある。

どうしても体育祭だの運動会だのを、したければ、「なんとか踊り」「組体操」等をすべてやめて、「かけっこ」だけにすればいいのである。練習なんて、不要である。
その場限りの、愚劣なダンスの類の振り付けを必死で覚えさせられて、挙句が、子供だましの「やらせ」なのだから、小学生とはいえ、はらわたが煮えくり返ったことだろう。
二度と猿真似演技なんかしたくない、これが正直な気持ちなのだろう。

何度でも言う。
運動会を止めるべし。害のみあって、利のない代物である。

それでもなおかつ、こだわるのなら、地域なり財団なりの責任で、社会教育またはイベントとして、するがいいだろう。

 

 

高校の授業料が無料なら、大学も授業料タダが筋である。大学教員の精選と意欲ある学生。

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教育には、金がかかる。
高校の授業料が無料またはそれに類似したものになって、久しい。

憲法にも、教育の機会均等の名目で「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければ」ならない、とある。だったら、義務教育ではないが、高校も無料でいいだろう、という安直な発想である。
外国人に日本国民の血税をくれてやるより、日本の子供のために金を使ったほうがいいに決まっている。
どうせタダにするのなら、高校のみならず、大学もそうしろ、と言いたいところだが、話は別なのである。大学の「授業」は、税金補填までして無料にする価値があるかどうか。

大学は、およそ教育現場とは思えない遊園地である。
大学経営者や大学教職員は、高給を得ている。親や学生が高い学費に苦しんでいることなど、どこ吹く風で、相変わらず暴利を貪っている。

私立高校も、公立校なみに、月謝がほとんどただ同様になってきた。やがてはすべての高校は、タダとなる。
これが大学に波及しないのは、親は、大学には金を献上してもよいと思っているからである。怪しい情熱だが、まだ、大学ブランドを何となく「素敵」に感じているのだろう。哀れである。

 

学校教育は、すべて一律に無償であることが望ましい。
しかし、その権利は、義務教育期間までで、それが過ぎれば、厳しい試験に合格した者だけに高等教育を受けさせるのが、本来の姿である。でなければ、一億総愚民の再生産である。スマホ中毒と相乗効果して、条件反射奴隷の拡散が続き、誰かの思うつぼである。

 

大学や大学院の授業を、より洗練させなければならない。

実力のある教員を選抜採用して、意欲と能力とのある子供に、無償の大学教育の機会を与えるべきである。
タダにはリスクが伴う。教員も子供も、教授能力や学習成績如何でどんどん馘首、落第、退学させれば、筋が通る。

大学に行くばかりが能ではない。義務教育を終えれば、各種専門学校、徒弟制度、現場で働く、その他種々の進路がある。さっさと手に職を得るのも一法である。
本人の幸せにもなり、外国から怪しげな移民と称する工作分子を入れるより、よほどお国のためになる。

近代日本は歪に生きてきた。それをここに詳述する根気がない。詳しくは、ご自分で調べてくれ。

教育をタダにできるのは、国民の税金を投入するからである。ならば、国家国民のためになる人材が育たなければ、なんにもならない。今のままでは、無能な教員の餌代にしか、ならないではないか。