ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

キャッチの世の中。スター誕生や綺麗ごと。教育は、ひたすら「虚しい」か。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

私立学校には、建学の精神というほどのものがある。半ば形骸化して、惰性で続いているだけのような学校も、創立者の理念だの、建学の精神だの、能書きだけは一流である。とすれば、私立学校は、学校ごとに大きな特色があって当然で、ない方がおかしいことになる。

さて、公立学校も、学校によってその中身は驚くほど違う。
地域が違い、通ってくる子どもが違うのだから、当然ではあるが、個々の教員にとっては、勤め先がどんな学校であるかは、死活問題になりかねない。

簡単な見分け方は、校長の顔を見るといい。のんびりゆったりしているような雰囲気があるなら、その学校は働きやすい職場である。
人相に険があって神経質で、しかも上昇志向が露骨に出ているようなら、それは悪い学校である。

俗に、校長が学校を引っ張ると、以前は言ったが、戯言である。校長に、実際の指導ができるわけがない。校長の役目は、教職員の労働環境を具申し、対外的な雑用をこなすことにある。
条件整備に意を払い、教員の鬱憤のはけ口となって、ひたすら教員や保護者の愚痴を聞いて、共感することができるなら、上出来である。
一人前に教科指導や生徒指導の蘊蓄を垂れてはならない。担当教員の方が数段上手だろう。

晩年の某喜博が、教育とは、と問われて、苦渋の顔で「虚しい、ただ虚しい」と語った。自己表出をうまく演じ、年齢を重ねるほどに、周りから持ち上げられ、やりたい放題だった男の、正直な言と、とらえるべきかどうか。

仮面が厚くなると、支えきれなくなる。教育は、教員と子どもたちとの個人的営みであるから、大言壮語や、各種イデオロギーと、相性が悪い。多くを望まず、多くを語らず、日々の授業で学力を確実に子どもにつけることが教員の本務である。その他にあろうはずがない。

結局、教育活動はムーブメントではない。スター誕生でもなければヒーローヒロインの活躍する場所でもない。地味な裏方作業であり、苦労のみ多くて報われることのない仕事である。そう割り切ることができないのなら、最初から教員なんて、よすがいい。むしろ、営業職や芸能界が向いている。

そういえば、文科省と提灯大学の教育学部、および教育系マスコミ業の連中は、いつも愚にもつかない流行をでっち上げてきた。ここに書くのも恥ずかしいのような代物で、よくもまあ、懲りもせずと、呆れるのである。
今は何が流行りだろう。知らなくて幸いである。

教育の根幹は自学自習で、自ら問いを発して解決するに尽きる。
宣長に、
「詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。
いかほど学びかたよくても怠りてつとめざれば、功はなし。
又人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、
生れつきたることなれば、力に及びがたし、されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有物也。
又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり。
又暇のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也。
されば才のともしきや、学ぶ事の晩きや、暇のなきやによりて、
思ひくづをれて、止ることなかれ。
とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし。
すべて思ひくづをるるは、学問に大にきらふ事ぞかし。」(『うひ山ふみ』)とある。

余計なキャッチフレーズなど、不要である。