ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

他人から説教される快感。金が解決するわが子の教育、は素敵だ。

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つくづく、私たちは、お説教が大好きである。説教するのが好きで、説教されるのも、大好きなのである。

テレビ新聞雑誌、ついには、お手軽の極みである動画共有サイトに至るまで、他人に説教する連中でいっぱいである。

 

自分が一番詳しいはずの、わが子の教育にまで、多くの他人から、説教されたくてたまらない。
他人は、そこに損得を見て、商売を画策する。

教育に金が絡むと、ろくなことにならない。

私は、教育を商売にすることを憎むものである。
ある種の親は、子供に対して、不安で、自信がなく、定見がなく、見識を得ようともせず、ただただ、迷い漂い浮いて沈むことがある。十代の子を持つ母親に多い。
母親たちは、赤の他人の、三流テレビのニュースショウもどきの「ご意見」「無駄話」を、聞かせていただき、ご指導を承りたいのである。
または、流行作家気取りの三流大学教員の無駄話を読みたいのである。


あなたの子供だ、あなた以上にわかっている者が存在するわけがない。

金銭を払ってまで、自分の子供の事々を相談をするなんて、どうかしている。

教育を標的にして、商売する者どもが多すぎる。無限に近い購買予備軍がいるだろうビッグビジネスだからといって、節操がなさすぎる。
教育の主役は親である。親以外は、学校教員だけである。その他が関わるときは、異常事態発生のときである。医者、警察の類で、彼らが教育現場に顔を突っ込んでくるときは、尋常ではないときである。

であるのに、恒常的に、カウンセリングもどきのお説教を聞きたがる。
それほど、異常なのか、あなたの子供は。
だったら、入院させるがいいだろう。

 

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ついでに言えば、動画共有サイトで、頻繁に見かける大げさなタイトルは不快である。

世界が驚く〇〇の、世界が涙した〇〇、美しすぎる〇〇とか、タイトルを見るだけで気分が悪くなる。

万万が一、実際に美しいとしても、美しさに、過ぎることなんてないから安心せよ。過大な表現は避けるがいい。それこそ、卑しすぎる。

 

 

 

 

 

世界警察がないのに、核廃絶、恒久平和は可能か。相対善としての大国アメリカ。奴隷を楽しむも一興なり。

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居酒屋にて、ある人曰く。

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どうも困ったものである。

核なき世界だそうである。恒久平和だそうである。反核のうねり、平和国家、核拡散反対だそうである。
綺麗事は、何とでもいえる。

 

治安維持に警察が必要なように、火事に消防が必要なように、ある程度の規模の国家には、核武装が必要なこと、赤子にもわかる。

ドイツはもともとプライドの高い国で、すぐに戦争をしたがるようにみえる。人種偏見の塊で、ユダヤ人を根絶やしにしようとした。日本人を含む黄色人種を軽蔑し、利用しようとした。
彼らにすれば当然のことなのだろう。ヨーロッパ諸国は、地続きで、国の周りは、敵だらけである。殺し殺されるの繰り返しが歴史そのものである。利用できるものは利用し、邪魔者は消すのである。

国家間が弱肉強食の敵同士であることは、ドイツに限らない。アメリカロシア中国イギリスフランスインドその他諸所も、戦争の歴史である。平和とは、戦争と次の戦争との間の、短い期間をいうに過ぎない。

アメリカは、他国を侵略し、征服し、ネイティブを皆殺しにして、しかもアフリカから人間を拉致して奴隷として利用して、作り上げた国である。それ故に、無論、大国である。

先の戦争で負けて以来、日本もまた、アメリカの奴隷である。
奴隷を支配するには、コツがある。イギリスが上手である。イギリスのかつては家来だったアメリカも、その伝である。
奴隷を支配するには、奴隷にやらせる。同じ国民から指導者を出させる。奴隷の王である。これを民主主義といい、選挙制度という。奴隷が奴隷を支配するわけだが、ご主人様は遠くから、奴隷の王に、細かく指示をする。

 

国家に警察や消防が必要なように、地球を一つの大国と考えるなら、支配者と被支配者に分かれるのは当然で、警察消防が必要なことも当然であるが、残念なことに、世界警察は存在しない。
地球では、信頼できる唯一の治安維持権力や、煙と見るやすぐにかけつける消防はいないのである。

もちろん、ある種の人々にとっては、世界警察は、アメリカである。ロシアであり、中国だと信じている人もいるだろう。日本人にとっては、もちろん現在の支配者であるアメリカ様である。
アメリカを信頼し、服従し、お金を払って、ご機嫌をとっていれば、アメリカが守ってくれるだろうという案直な考えである。

事実はそうでないかもしれないと、日本国民の多くが暗澹とすること、ご想像のとおりである。

しかし国の為政者とは、因果な商売で、国のことより自分のことを第一に考える。国家が大切で、日本が大切だ、と歌うのは勝手だが、行動に移すと、それは奴隷の身分を逸脱することになる。すぐに支配者様から、お叱りだけならいいが、身ぐるみ剥がされて、瞬殺されてしまう。故田中角栄中川一郎昭一親子を見るといい。
それを日本の国会議員、国家公務員各種の役所の諸君はご存知である。マスコミ諸君はもちろんで、アレは素性がそもそも、GHQ育ちである。

そう思うと、日本人は、現在の奴隷状態を、これからも脱することはできない。

私は、それでいいと思っている。


ドイツはそう思っていないようだ。イタリアも、フィリピンも、南北朝鮮も、そうは思っていないようである。奴隷状態を潔しとしない風である。中国はもちろん自分たちが最高、中華思想である。

はて怪訝である。どうして、日本人のみが、未だに奴隷状態を楽しみ、安心し、他国を疑うことなく、安逸を貪っているのだろうか。

とは言い状、こうして安居酒屋で、どんなことでも、なるようになるだろうさと、気楽に笑って話しているではないか。
奴隷状態こそが、「平和」な日本人の体質に、合っているのではないか。

 左様な。合っているのである。

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という言である。

私は、反論はしない。

かつて宮澤喜一氏は、日本人は大勢に流される、危ない安心できない、そういう意味で現憲法の縛りは是とする、と語った。それ以来、私は宮澤氏のファンである。

私は、批判があるにせよ、アメリカが世界の大国であり続けることが、価値相対主義として、人類の幸福に通じると思うものである。

 

教育談議に政治話は禁物であるが、しかし、公教育は、存在そのものが政治なのである。避けては通れないだろう。

 

もうすぐ敗戦の日である。

 

 

 

The Tragedy of Great Power Politics

The Tragedy of Great Power Politics

 

 

 

 

 

 

 

医者が、死ぬまで医者なら、教員も同じこと。 芯のない教育で、子供を迷わせてばかり。

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夕涼みである。知人来りて言うには。


近頃の校長は変わっている。
校内で、教職員が「校長」と呼ぶと、怒り出す。「○○校長先生」と呼ばないと機嫌が悪い。教頭も以下同文で、同僚教員が「○○教頭」と呼ぶと、ぷいと横を向く。
「○○教頭先生」と言ってやらないと、気分を害するらしい。
これはまた、面妖な。

以前はそうではなかった。
地域から、学校は信頼され、教員に教師としての威厳があった(ような雰囲気があった )。校内では「校長さん」、または「××校長」「○○教頭」で通用した。それで目くじら立てることではなかった。
どういうわけか、今では、校長や教頭は、妙に繊細で神経質なのである。

原因は、実力不足と自信喪失である。
誰からも尊敬も信頼もされてない(ごくまれな例外あり)。無様な顔見せパンダが校長で、パンダのご機嫌取りが教頭である。せめて、同じ校内の教職員には、「校長先生」だの「教頭先生」だのと呼ばせて、「アイデンテテイ」を確認したいのだろう。
げに浅ましいが、それが人間である。目くじらを立てるには及ばない。

教員は、今でも子供や親からは、表向きは、「何何先生」と呼ばれている。それは当然である。なんと言っても学問を直接に教えてくださる師匠である。この人たち以外に「先生」がいるであろうか。いるわけがない。
だから、学級担任や教科担任が、「何々先生」と子や親や同僚教員から呼ばれるのは当然である。

しかし、校長や教頭は、ここには含まれない。直接子供を教えない者は、「先生」ではない。きちんと区別しなければならない。
対外的に学校の「代表」のようなものであっても、直接の子供の先生ではない。事務手続き上の管理者に過ぎない。
実質的に教員を指導できる経験や学識のある「校長」など、滅多にいるものではない。無理な相談である。

親も、校長のことを、教員への悪口や陰口を受け止めさせる相手くらいに考えている。
このあたりを間違わないようにしないと、また不幸な「○○校長先生」を作り出すので、老婆心ながら言っておく。

ところで、学校という団体・事業所の、対外的な代表として、校長が雇われている。

細々と民間からの校長採用も行なわれるようになった(無論、そのほとんどは失敗した)。
外部からの雇われ校長は、勘違い人種が多いので、失敗する。といって、校長職が、常に教員上がりである必要はない。
ケースによっては、教員経験者でない方がよい場合もあるだろう。しかし、いかにも、人材不足である。


教員は採用されてから、退職のその日まで教員である。医者は死ぬまで医者だろう。ならば教員も死ぬまで教員である。
教員は、現場教員として、その職責を全うすることによって、実力の向上や技量の円熟がある。

それが不満だったり、耐えることができないのなら、辞めるしかない。

管理者としての校長職の範囲を明確にするならば、学校現場の様々な問題も、少しは、すっきりするのではないか。

ーーー

ということなのだが、少し脱線する。
太古の昔から、子供が学ぶべきこと、教員が教えるべきことは、決まっている。読み書き算盤である。
子供に素直に習得させればいいものを、愚かな流行に踊らされて、勝手に迷う。
大人が迷うのは、自業自得だから許されても、肝心の子供を迷わせて、どうする気だろう。

元凶は文科省や追随する大学教員、教育ビジネス関係者である。出版社は新規な材料を餌に書籍の売り上げを、教員もどきは原稿代金や講演料を稼ごうと必死になる。
つくづく日本の教育は、おかしい。

国民に根ざした宗教観がないから、こんな有様になる。
ご近所のよしみで付き合いはよくても、外部からのショックに弱い。あたふたと大騒ぎして、簡単に屈服されてしまう。精神の支柱がぐらつく。というより、最初から、支柱がない。

教育は国家の文化伝統を守ればいいのである。日本の古典を読み、数学を学び、わかりやすい写生文を書くことができればいいのである。これを5年続けたら、だれでもそれなりのモノになる。
その後に、「個性」や「可能性」とやらが、もしもあるのなら、出てくることだろう。

 

 

教員は、空き家で何をする気だろう。夏休み、長期休業中は、研修と草むしりとペンキ塗り。

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身銭を切って、何かを学ぶことを、利巧という。道に知識を拾わないものは馬鹿だ、と露伴は言った。


頼まれもしないのに、自分の意思で学ぼうとするのは、何ものかを得るための最良の方法である。
他人にものを教えることが職業のはずの教員が、自分でも学ぼうと努力するのは、当然のようだが、そうでもない。


教員は、実際のところ、自ら学ぶことも、他人に何かを教えることも、それほど上手ではない。
教える時間数が多すぎるので雑になる。または神経質すぎて肩が凝る。堂々巡りで何が何だかわからなくなる。

授業は一日4時間もすれば十分である。
それくらいが集中できる時間である。あるいは、教員の能力の限界である。
4時間限度説は、児童生徒学生諸君に向かって、言っているのではない。教員に向かって、言っている。学ぶ方は一日10時間でも耐えることができるだろう。

 

さて、金を出して学ぶ場所は、各種の講習、免許取得、キャリアアップ商売云々、多々あるが、講師の受け持ち時間を見てみると、案外に少ない。せいぜい一日2から4時間である。
大学受験の予備校講師は、どうだろう。多くても、3時間くらいではないか。
毎日、一人の講師が、8時間近くの授業を持つところなどないだろう。

しかし、例えば、公立小学校教員は、毎日、8時間授業が続く。
授業が6時間なら、8時間は変だと問うのは、現場を知らない素人である。休憩時間、給食時間、掃除時間、すべて真剣に気を使わなくてはならない「授業」である。

高校中学小学校と、対象の子供の年齢が下がっていくにつれて、忙しくなる。余裕がない。
普段ばたばたしている教員が、常にはできない研修や研究の時間が生まれるのが、子供の登校しない「長期休業中」であるはずなのだが、そうはいかない。


多くの小中高は7月下旬から夏休みになる。学校は夏季休業である。
子供が来ないから、教員も休ませればいいものを、待ってましたとばかりに○○会議と称する時間つぶしをする。または研修と称して、素人識者や教育委員会筋の舌足らずな講義を受けさせる。無駄の骨頂である。

そんなことをしなくても、教員の悲しいサガである。自分から、しなくてもいい仕事を探し出して、次のプリントを作っておこう。生徒の提出物を再度チェックしよう、図書の点検、倉庫の掃除、果ては、渡り廊下のペンキ塗までする教員がいる。

 

夏季休業中に、不要な会議や校内の研修その他を増やして、ともかく学校に来させて一日中、ばたばたさせようとする。

なーに世間の目が怖いからである。
教育事務所の職員も、適当な時期に管理職で役所を出たい。または、役所の中で、ちょびっと「出世」したい。
だから、親や議員から、ごたごた言われたくない。
校長は校長で、「うちの教員は夏休みにも、ほれこのとおり、登校して勤務してますよ」、と自慢げにアピールしたい。

彼らを非難しているのではない。誰でも自分が可愛い。それは仕方がないことである。

 

しかしである。子供がいてこその学校で、いなければ、ただの空き家である。またはクラブが利用する運動施設である。
空き家の時ぐらい、教員を休ませてやれ。相手は一流の教員である(例外は当然ある)。
その一流の教員に向かって、子供のいない夏に学校へ来させて、校庭の草むしりをさせて、どうする気だろう。
あるいは愚にもつかない会議と称する時間つぶしをさせて、満足なのか。

夏休みは、教員を学校に来させなくていい。
教員は、家で寝っ転がっていればいい、と言うのではない。

そうはしておれない、と自ら焦るのが教員である。休ませようとしても、授業や子供の指導のために、草の根分けて探して、何かをするだろう。昔から、今日の今日まで、それが教師の根性である。
少しばかり景気が悪くなったからと言って、行政ごときが、手のひら返したようなことをするな。

 

世間が怖い。マスコミが怖い。
笑止である。
日本の教員とその制度は、所詮その程度と、世界中から馬鹿にされるぞ。

教員たるもの、30日くらいは海外の大学にでも研修に行って、鋭気と知性のごときものを、養ってこい。そして9月から、迫力のある授業で子供を圧倒してみろ。
それこそが教員の「夏休み」ではないのか。

 

 

新校舎建設ラッシュ。たくさんの学校は不要である。NHKマスコミの宣伝を鵜呑みにして、時流に迎合する。

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子供の数は減りつつあるのに、あちらでもこちらでも学校をどんどんつくっている。
学校の数が増えているばかりか、既存の学校も、規模を拡大している。
競って、校舎の新築増築、新学部学科の増設である。傍から見ていて、気味が悪い。
どうせ、ろくな教育も研究もしていない、できないだろうに、痛々しい。

肝心の教員が力不足である。生徒学生諸君も、玉不足である。
どうやって経営していくつもりだろう。例によって、税金から、ちゃっかり填補してもらう気なのだろう。

道端のコンビニエンス・ストアの如く、瞬時に、即席店舗ができあがる。集客競争の挙句、潰れてしまったり、生き残ったりで、落ち着くところに落ち着くのだろうか。

学校は減った方がいい。大学に至っては、無駄の極致である。
にも関わらず、野放図に増やしているのは、なんらかの利害があるに違いない。利の源泉は、国民の税金と、庶民のなけなしの貯蓄とである。利を得るのは、人口の数パーセント以下の何者かである。

教育は「ビッグビジネス」で、商売人からすれば、これほどおいしい標的はない。
多くの家庭からすれば、
子供の教育はリスクの塊で、最悪の投資先となっている。しかし、出産育児は人の定めのようなものだから、是非もない。

問題は教育の中身である。
義務教育期間は、法の定めがある。従うしかない。
しかし、中学卒業後の進路については、国民一人ひとりが、などと大げさに言うまでもないことだが、家庭が、つまりは、子供の保護者が、よーく、熟慮しなければならない。

もはや、一斉に並んで歩いて行くような、同質教育時代は終わっている。

みんないっしょ、みんな同じでは、効率が悪すぎる。何より、人間的ではない。奴隷の集団である。または、痴呆の集団である。あるいは巨大遊園地で、運命を甘受して、粛々とアトラクションを並んで待つ有象無象の民である。
学校には、価値の残滓すら、残っていないのか。

 

以上は、巨大なクレーンが新校舎を積み上げるのを見て、知人が言ったのである。

あれもこれも、教育政策を、空気だけで決める愚かな文科省や、利を見る大学教関係者マスコミNHKらの有象無象の欲である。

と、こう書くと、何だか、突拍子もないことのようだが、考えても見るがいい。
先の大戦の発端になったのは、結局のところ、新聞の宣伝と、私たち国民の雰囲気、空気である。
日本国民の特徴は、大方の流れに、すぐに迎合する。大局を見ない。のぼせる。そして潰れる。

オバマが米国大統領になったとき、関東の某大学を中心に、オバマに夢中になって、新しい時代だとかなんとかで、就任演説を、授業の中心題目とした。多くの英語教員も同様に熱中し、オバマのテープやテキストが「馬鹿売れ」した。
マイケルサンデルとやらの「講義」の類も、NHKが大宣伝をして、大当たりした。
一時の流行に、目の色を変えるのは、愚かしさを通り越して、浅ましい。

現在に不安ならば、福澤諭吉を読んだらどうか。近代から現代、そして未来へのいくばくかの展望は、福澤全集にちゃんと書いてある。
教育は、自国の文化伝統を教えればいいのである。本を読み、冷静な判断力を養えばいいのである。どうせ明日は、やってくる。


 

 

 

国語嫌いを増やす国語教科書。お粗末な学校図書館。大半の本は、ゴミである。

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国語の教材には、日本の古典、漢文の他に「現代文」がある。明確な定義はないが、明治以後の文章のことであろう。
教材の現代文は、よい文章ばかりとは限らない。つまらない文章がある。これでも日本語かと疑うような、ひどい文章もある。

その文章を細切れに、微に入り細に入り、読み解いていくのだから、ご苦労なことである。中学三年間、高校三年間、そんな授業を受け続けていると、ほとんどの子供は、国語が嫌いになる。

国語の入試問題を調べると
中学、高校、大学と、問題文がどんどんひどくなる。大学入試現代文など、何を言いたいのか分からない文章の連続である。
簡にして要を得た文章は、問題に使えないのだろう。希代の悪文を選んである。
悪文を読み解くのだから、難しいに決まっている。難しければ、入試問題として最適である。悪文読解の訓練に、中学高校の国語は費やされている。

文章は、分かりやすく、一読して、さっと意味が分かるものがよいのである。読書百偏意自ずから通じると言うが、百偏読まなければ通じないような文章は、現代文ではない。暗号である。現代文は、そもそも百回の通読に耐えない。

現代文の問題作りは難しい。定期試験が近づくと、国語教員は、数学教員を羨む。
数学はいかにも、問題がすぐできる。採点も短時間で可能である。次には、物理、化学、生物などの理系教科が、その次には、歴史、経済などの社会系教科が楽である。美術音楽体育等の類は論外とする。

国語科は、そうはいかない。
問題作りに、七転八倒である。夜中の二時三時までやっても、まだ不安である。おまけに採点が面倒だ。夜なべの連続である。

とはいえ、国語科は日本語を扱う。中でも現代文は、現在の口語を扱っている。
言葉は思考の道具でもあるから、疎かにはできない。
国語日本語は、毎日、聞いたり話したり、読んだり書いたりしている。実際生活と馴染みがもっとも深い教科である。それが、難解で、面白みもなく、嫌になるような代物では困る。

指導の難しさで、教員が悩むのは勝手だが、肝腎の子供を、無益に苦しませてはならない。



国語教科書の文章は、独立してあるわけではない。多くは、既存の堕本からの切り抜きである。さもなくば、編著者と称する雇われ人の即製の短文か、取り巻き子分の短い文章を載せる。
唾棄すべきものである。語るに落ちるが、これが教科書の実態である。国語嫌いが増える原因が、教材文にあることは明白である。

教科書には、屑文章ではなく、簡潔明快で、品位ある文章を選択しなければならない。日本語のリズムの美しい文章を、学ばせなければならない。
ごくまれに、一流の文章を載せることがある。鴎外漱石敦直哉などで、そこだけが絶壁のごとく輝いて、読む人は、これは国語の教科書だったのかと、はっと気づくのである。


本は身銭を切って買え、などと言うが、実際、身銭を切るほどの本は、そうそうあるものではない。
コーヒー1杯分ほどで新書が買える。しかし、新書の大部分はゴミである。
買え買えと言う者は、たいがい、自分の本を買ってもらいたいがためで、互いが誉め合って、売り上げを伸ばそうとするのは、下品かつ浅ましい。

過日、本を整理をしていて、つくづくゴミ本が多いと、思い知った。
ゴミでないのは、これは私の師匠みたいな方々の書物で、師匠は何人も要らない。
その他の堕本は、缶ビールのごとき。飲めば、カンは捨てるしかない。溶かせば再利用できるだろう。書籍もそうか。

学校図書館は、税金で本を買うから、駄本の山である。
二ヶ月くらいで寿命の切れそうなパソコン関連の本を、ハードカバーにして、学校に買わせる。ほとんど詐欺である。
担当教員も知識がないものだから(しかも、学校は、地域の本屋と特別な結びつきのあることが多い)、書店員任せとなる場合もある。
個人が、身銭を切って厳しく本を選んで買っても、ほとんどゴミになるのに、他人に任せて、「学校図書館」の蔵書を購入するのは、子供に腐った肉を食べさせるようなものだと、嘆息する人がいた。
教科書も学校図書館も、恐るべき駄本で埋まった。もはや臭気を放っている。