ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

夏休みの課題は、無駄なプリントでいっぱい。海外旅行、海外赴任もネットで満足。

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2019年7月末日現在。

現役の教員の多くは、夏休みに突入である。
昔々、夏休みが近づくと、職員室では、教員たちの、ハワイだスペインだカナダだの、旅行の予定を言いたい放題だった。
子供は子供で、9月の新学期になると、どこそこに行った何を買って帰ったと、海外旅行の話題でいっぱいだった。

今はどうだろうか。夏に海外に遊ぶのは、むしろ格好悪いことになったのではなかろうか。
親は金なし、暇もなし、気持ちの余裕もない。第一、外国旅行がめずらしくない。
インターネットは、世界を子供部屋の箱に入れた。ドラえもんの「どこでもドア」である。スマホなら、ポケットに入れることもできる。
バーチャルを馬鹿にはできない。脳内は、認知心理学によれば、仮想現実である。だったら、パソコン画面の向こうも現実の一つだろう。


さて、巨大温泉で、湯煙の向こうから聞こえてくる親子の会話。
子は、北京への転勤が嫌だ。同期のXもYも国内勤務のままなのに、と不服である。
父は言う。まあ数年だろうから我慢せい、云々。

かつては、海外勤務が決まれば、小躍りしたものだった。
エリート中のエリートである。出張中は給与は倍である、箔がつく、同僚に一歩先んじることができる、面白おかしく色々見分できる、悪いことなんて一つもない。と、少なくとも本人は考えた。
今は、そうでもないらしい。多少の増給や海外勤務経験なんて、日本国内での、安心安全で、お気楽な毎日に比べると、何得にもならない。
海外勤務生活は、むしろ不快不安で嫌なのである。

だれもが、海外生活のあれこれは、ネットですでに承知している。
どうせたかが知れている、と本人も思い、周りも思っているのなら、それは事実となる。
空気が悪く喧噪の北京なんて、まっぴら御免、新橋新宿渋谷辺りで、わいわいやってるほうがよほど楽しい。

 夏休みに海外旅行をしたからといって、何の自慢になるだろう。近頃の子供は、海外旅行が特別なものでないことを、すでに知っている。


さて、話は、夏休みの宿題である。教員たちは、これでもかというほど、課題をを出すのが当然で、出さないと不安であるらしい。なにより、子供自身が不安である。何をどのように勉強していいのかがわからない。高校生になっても同じである。

教員が、宿題の何たるかを、わかっていない。どうせできっこないような小難しいものを、大量に出す。


教員も子供も、互いにレベルを下げっこしているのである。普段の授業で、プリント漬けである。そのプリントたるや、微に入り細に入り、ご親切丁寧な代物である。こんなもので、学習の忍耐や工夫を養うことができるだろうか。勉強への、怠惰で安直な感情を植え付けるだけである。
教員はダイナミックで印象的な授業をすることがなく(できるわけもなく)、プリント配布、プリントの説明、子供がプリントを書き込む、提出させる。教員は、そのプリントを夜なべで丸付けしたり、訂正してやった入りする。翌日、子供に返してやる。子供はそれをそのまま、屑入れに投げ捨てる。
この繰り返しが、授業である。お疲れ様。

 

 

 

自分を見せたいのは、みんな同じ。夏休み、教員の執念、スマホでピコピコ、テレビ芸人、貧乏国家。

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旅客来りて嘆いて曰く。

夏休みは、子供は学校に行かない。
ならば、こちらから出向いてやる、とばかりに、「学級だより」のプリントを、夏休み中、毎朝、届けてくる教員がいた。雨の日も風の日も、自転車で学級の子供たち全員の家のポストに投函してくる。その執念恐るべし。
肝心の内容は、どうでもいいことが書き連ねてある。子供も見向きもしない。教員の自己満足に過ぎないのである。

今はどうだろうか。ひょっとして学級連絡メールだのSNSだのを強制的に読ませるのではなかろうか。
スマホなんて、見なければいいのだから、玄関ポストに突っ込まれるよりは、よほどましである。

人はことほど左様に、他人に、自分を見てもらいたい。
「先生、僕が私がここにいるの、こちらを見てよ」
教員経験者なら、思い当たるだろう。
小学生低学年のみならず、高学年にも、中学生でも、そして高校生でも、こんな子が多い。大概、良い子たちである。
しかし中には、乱暴者もいる。素直に自分を表現できないので、他の子供に意地悪をしたり、規律を破ったりして、教員に注目してほしいのである。叱られたいのである。
これもまた、指導によって簡単に解決する。可愛いものである。

 

他人に見てほしいのは子供だけではない。配達教員の例の如く、むしろ大人のほうが、自分を誰かに見てもらいたくて仕方がない。

憎むべきは、テレビ芸人の類で、こちらは全然見たくないのに、平然と出しゃばる。自己宣伝する。
討論番組、識者、新聞屋、ニュースキャスター諸々で、あれが嫌で、テレビを見限った人が多い。
自己表現、自己宣伝は、人の常である。しかし、各家庭に割り込むのは不躾である。

 

情報過多は、情報皆無と同じである。本当に重要な事実を、多くの嘘でごまかす、隠す、煙に巻く。
それを証拠に、ニュースは繰り返しが多い。同じことを何度も言って、時間潰しをする。肝心なことは、決して言わない、言えない、わからない、わからせたくない。

携帯電話を、子供たちに持たせるようになったのは、学校帰りに塾に行く子が増えた。夜遅くなるので、親は、携帯のGPSで子供の動向を監視する必要があった。
近頃は、持たないと仲間外れにされるからスマホが要る、と言って、親を困らせる。
俯いてスマホをピコピコするのも、いくばくかの自己表現なのだろう。

子供たちがスマホを持つようになってから、格段に学力が下がった。特に国語が下がった。日本語がダメになった。ピコピコ書くのは、あれは文章ではない。「つぶやき」と称する手前勝手の繰り言である。

ラインにツイッターに取り憑かれて、一日中、目を酷使する。

高校3年の崖っぷちなのに、短文を書くことすらできない。
大学では新入生に、初歩の作文の書き方を教えなければならない。
読書案内も、してやらなけらばならない。
子供自身の露出欲はあふれていても、自己表現どころではないのである。

 

ーーー

以上を書いて、幾星霜。

思うに、日本は遊び場所が少ないのである。ご近所は狭い、危険、健全な施設もない。自然らしい自然なんてない。ごちゃついた街と道路と排気ガスと公衆便所が大半を占める公園云々。

スマホ画面に逃げるくらいしかないのだろう。

住食衣そして薬(健康)の四つを持つのを富めるといい、欠けるを貧乏という。ならば、日本全国大人も子供も、貧乏人だらけである。

それでも、外国人にはおもてなし、だそうである。甚だ奇特であるまいか。

 

 

 

 

 

 

嘘くさい「活発な授業」、学校から競争をなくして、学力を下げよう。 みんな一緒にお仲間である。

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教員は、授業を、一方的な思い込みで判断しがちである。
子供が、手を挙げていさえすれば「活発な授業」。
子供の思いつきの発言にも、「発表が多かった」と満足する。
隣の子供と無駄話をしていても、「子ども同士の交流があった」と喜ぶ。

授業の目的が、子供の知性を高めるためであることを無視する。
授業が集団的馴れ合いに堕しても、気づかない、気づきたくない。

自分に都合の良いように、判断する。

これには理由がある。
第一には、子供の学力を速やかに高めることのできる教員が、極めて少ないことだ。
授業を、学力の向上があったかどうか、知性を鍛えたかどうかではなく、教員と子供、子供と子供との関係性を評価する傾向になった。

授業中、挙手した子供が何人以上だった、そのうち何人が発言した、グループごとに子供同士の相談が何分あったこと等を、「よい授業」の条件にしたいらしい。

他人から見て活発そうな授業をするのは、案外、簡単である。
多くの子供に手を挙げさせることなど、少しの工夫でなんとでもなる。
子供は教員の顔色をうかがう。教員の望んでいることを、ちゃんと見抜いて、上手に芝居をする。

第二には、「みんないっしょ主義」である。
みんな同列で、突出した者がいない方がいい。
もともとが農耕社会だから、嫉妬深い。優れた者がたまに出てくると、よってたかって八つ裂きにした。全員が、可もなし不可もなしであることが、一つ場所に定住する人間にとっては、安心だ。
学力を高めることを目的とすると、教員にも子供にも、各々の差が明らかとなる。実力がはっきりしてしまう。
それが嫌なのである。
だから、学習が遅れがちな子供(怠惰で、勉強嫌いで、テレビ好きな子)に、合わせていたら、全員が安心である。安心しない子供は、せっせと塾へ行くだろう。
学校は、授業で最低限をすればいい。  
こんな風潮になった。

学力を高める授業をすると、「教師主導」だの、「子供同士の係わり合いが少なかった」、などと、愚劣な批判する。
実力のある教員の授業を受ければ、学級の子供の学力は、どんどん伸びる。その事実を認めざるを得ない。だから、言うに事欠いて、ステレオタイプな決まり文句を口走る。
関わり合いだって? 社交ダンスか、ペットの飼育なのか。


学校教育での、授業の判断基準は単純明快なければならない。
子どもに学力がついたかどうか。
その授業で、子どもの知性は高まったかどうか。

授業で、学力以外の何物かが、向上したとすれば、それはそれで、めでたいことだ。
しかし、学力向上を二の次にして、「係わり合い、高めあい、支えあう授業」といった空疎な言葉で授業を評価するのは、愚かである。
言葉遊びが先行して、できもしない綺麗ごとを夢想する。これが一番危険なのだ。

ところで、学力の国際比較が出るたびに、大学教員等「識者」と称するおしゃべり達が、例のごとくの屁理屈をこねる。
飲み屋の、よた話にも及ばないことを、もったいぶって言うんじゃない。

レベルなんて国際比較しなくても、ほぼ十年ごとに出る新学習指導要を見れば、低下するだろうことは 明らかだ。
学習内容を減らす一方で、余計な「総合的学習の時間」とかの遊びを押し付け、「開かれた学校」だの、「生きる力」だの、お笑いコピーをぶら下げて、宣伝だけは、マスコミ総動員で、ご熱心である。粗末な指導要領と行政と教員でもって、子供に勉強させろ、学力をつけろ、なんて無理な相談である。

開かれた云々も、外部からの侵入者の事件以後、急転換して、今度は警備を厳重に、とくる。開いたり閉じたり、ホテルのドアではあるまいに。

 

 

競争がなければ、向上はない。
プロ野球のごときも、報酬と数字で競うから、技術らしいものが多少は向上する。日本の球界に飽き足らない連中は、アメリカ大リーグで、思うさま活躍して、もっと高給取りになる。
何事も競争である。それしかない。

学校教育現場には、敗戦後、競争を持ち込まない過剰な配慮、競争を嫌がる心理が蔓延した。
お門違いの、子供の人権だ、同和だ、と騒ぐ連中がいたからである。
競争排除の言葉は、できない坊主の親たちの耳に心地よく響いた。怠け者の児童生徒学生の耳に都合よく響いた。
予備校、学習塾の経営者には、利用しがいのある言葉だった。 
みんな、一緒にお仲間同士である。
してみると、学力の国際比較の結果が、どうのこうのと騒ぐ連中も、グルかもしれない。きっと、グルだろう。

 

競争は、子供の心を傷つける、だから止める。コンクールは流行遅れなのか。

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昔々、聞いた話である。
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かつて、コンクールの盛んな時期があった。
小中高の生徒向けの、絵画音楽作文主張など、主催が官公庁や新聞社、各種財団、県、市、郡、ついには小さな町の名を冠したコンクールまであった。

コンクールにはよく出た。
当時は、学校代表という形で、二人とか三人だったと思う。だから出たら責任を感じた。特選か入選か佳作か、腕試しのような感じもあった。

今、子供のコンクールは流行らない。厳しい選抜もなくなった。

逆に、大人向けのものは、小説絵画デザイン、シナリオ、標語、コピーと称する宣伝文など、種々あるようで、それがまた、商売上の利があるらしく、会社主催のものが多い。一般公募のコンクールばかりを紹介した月刊雑誌もある。

絵画塾がまだ残っているのは、台湾韓国中国である。多くの流派が競っているらしい。
ピアノを習うのも、香港や上海では人気だ。ただし、ピアノは高級品である。金持ち以外は、日本製の中古を買って、大切に使用している。
それでも、ちょっとやそっとでは買えないとのことである。
日本の楽器屋に感謝しなければならない。日本では優れた品質のものが、手の届く範囲にある。
香港では歌の塾もある。これは小学生を中心に習っている子が多い。

お話変わって、水泳だの陸上競技だのは、記録会といって、コンクールとはいわない。プールなり競技場で、日がな一日楽しんで帰ればよいのである。この日の子供は、顔つきが違って見える。ふだんよりも、いっそう生き生きとして、たくましいような感じすらある。
自分の身体を自分でコントロールすることは、難しいけれど楽しい。
プラトンは、数学と音楽と運動とを、その教育の根本とした。運動は、体力の問題だけではなく、その精神に及ぼす影響が大きいからである。

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と、こんな内容だった。

十人いれば十人の能力がある。子供の個性、というと聞こえがよいが、要するに能力差があるということだ。

能力差を認めたくないのが、親である。しかし、歴然とある。公立学校、特に公立の小中学校では、親に遠慮して、差異が目立たないように、ごまかそうとする。

これが間違いの元である。

子供の能力差を認めないふりをするようになったのは、保護者の見栄や甘え、同和教育の影響も大きい。
学校は競争を嫌がった。結果をはっきりと出すのを嫌がった。子供が「傷つく」のだそうである。
子供は、ガラスコップなのか。そうならば、割らないように大事にしまっておけ。


高度経済成長の真っ只中で、しかもアジア諸国は発展途上のままで、日本だけ独走したときは、それでもよかった。
国内で、浮かれた太平楽を決め込んでいても、経済は発展し、日本人の生活は、努力に見合った分だけ、確実に向上した。

だが、もう、それは夢である。経済の境は曖昧となって、常に流動する。人材育成も、国際間の戦国時代である。

アジア諸国の子供の能力開発の意欲は、すさまじい。結果、優秀な人材がぞくぞくと育ってきている。政治経済での立ち位置も、飛躍的に伸びてきた。もう、日本に頼らなくても、すべてよし、という雰囲気ができつつある。彼らの心は、ほとんど私利私欲にある。
ぼやぼやしている日本は、背中を刺されるだろう。

日本の公立学校でも、競争原理を元とした能力別学習や、個人差を認めた教育方法が必要である。
子供たちの「心が傷つ」くことは、ますます多くなりそうである。

 

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と書いたのも、これまた昔である。

 

 

 〇 政治学者のアイドル的存在である丸山眞男

東大出版会のものは必読。みすずの書房のものは気楽に読める。

学者は文章という。文章が上手である。

日本政治思想史研究

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戦中と戦後の間 新装版

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期末中間試験で、担当学級のみ高得点をとらせる方法。能力不足の教員は、無駄な競争がお好き。

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能力不足か人の煩悩ゆえか、同僚との競争に明け暮れるのは、中高の教員である。
教科に相応しい能力を持つ教員は、いったいどこにいるのだろう。

並み居る児童生徒学生の中には、教員を凌ぐ者がいる。というより、大部分だろう。とすると、教員は厚顔無恥にならざるを得ない。
そうでないのは、もとより論外の子供たちで、そんな子ばかりを集めた学校が他にある。などと言うと、大方からお叱りを受けそうだが、それぞれの事情である。

問題は、日本全国の大部分の小中学高校大学その他である。面倒だから、教育者を教員、被教育者を子供、と呼ぼう。いい年をした大学院のおじ様おば様までも、子供というのはどうかと思うが、便宜上、そう呼ぶ。
子供と教員との関係は、知識学力見識で、教員が子供より上であるのが自然である。そうでなければ、落ち着いて「先生」ができない。子供の方が優れていれば、先生は不安であり、穏やかではない。

それはそうとして、厄介な問題がある。
ここに某高校2年生6クラスがある。某教科をABCの3人の教員が、Aが1組2組、Bが3組4組、Cが5組6組を各々担当するとしようか。
それが、どうしたと思うだろうが、すぐに乱闘になる。激烈な競争になる。
ABCとも、自分が受け持つクラスに、中間期末各試験で、常にトップの成績をとらせたい。平均点を高くしたい。担当クラスから、学年1位の子供を出させたい。
どうせ、中堅の公立高校である。生徒の大半は、どこかの国公私立大へ行く。安心すればいいものを、教員は、ほとんどノイローゼである。無我夢中である、寝食を忘れる、狂ったように教え込む、叱咤激励、子供を小突き回す。
ばかばかしいようだが、当人たちは必死である。
他の教員を出し抜くためには、見え透いた権謀術数の限りを尽くす。
例えば、Aが試験作成の担当になると、しめたとばかりに、自分の担当クラスだけ有利になるように、問題を作って、その内容を、ぎりぎりまでBCに教えない。一方では、担当クラスには、解答すれすれの授業をする。
もともと教科の試験は、教科の教員全員で、大枠の了解事項を決める。でないと、学年全体の学習歩調が揃わない。試験日の1週間以上前に、他の教員に試験原案を見せなければならない。それを隠す。熟慮中だの、未完成だの、何とかだのと、ぐずぐずとごまかして渡さない。BCが問題を見て、授業で試験対策をされるのが嫌なのである。
担当クラスにはできるだけ有利に、他のクラスには決定的に不利になるように、無い知恵絞る。

笑うべし、憐れむべし。これも人情と言いたいが、そうではない。
単なる、「愚か」である。
つまりは、教員としての能力が不足しているのである。

こんな例を嫌というほど見聞きしてきたが、この現象が多くみられるのは、公立高校のすべてと、私立高校の中堅から下のランクの学校、及び、公立中学のほぼ半分である。
国立の小中高はない。私立の名実ともにトップクラスの高校にもない。

理由はお分かりだろう。いちいち書く煩に堪えないから、私立のトップ高校のみ、言おうか。
同一学年の全クラスを一人の教員が教えることが多いからである。だから全く競争がない。好きなように、やればいいので、楽ちんかつ精神衛生上とてもいい。子供はもとより優秀で、制止しても勝手に勉強するような連中である。学校教員全員が、それを知っているので、安心して、甘えた体制を続けることができる。

知人の言によれば、かつて某校では、英語の時間に教員が黒板を背にして教卓にうつ伏せで寝ている。授業終わりのチャイムで、つと顔を上げ、では、と教室を出て行った。いい気なものだが、それでも日本のトップ校の一つだから、非難されない。
授業は、洪庵の適塾方式である。
今はどうだか知らない。

 

公立高校は、親方日の丸だから、安直な授業をしているのだろうと思ったら、大間違いである。
上記のごとく、教員自身の劣等感と不全感とで醸成された競争意識で、異常に熱心すぎる授業が行われている。
その一方で、大方の私立高校の未来はない。

ゆっくりたっぷりでいいはずの公立学校教員が、全速力で走っているのに、私立学校教員は、のんびりと甘い低空飛行である。
親はどう見るか、子供はどう見るか。

今時、私立の中学高校へ受験させる意味があるのかと、真顔で問われた知人は、人それぞれの金の使い道、好きでいい、と答えたそうである。

 

 〇 小津安二郎の映画は、正真正銘の日本の映画である。頭を冷やすには最適だ。私は特に麦秋秋刀魚の味を好む。

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中国や朝鮮に媚びる教科書、無駄の多い授業。他学級を嫉妬しても、損するだけ。

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かつて、中学校の歴史教科書の内容について、シナやコリアが、非難してきたことがあった。

小学校の教科書については、どうなのか。

今のところ、表立っては文句は出ていないようである。
中国や南北朝鮮にとって、おおむね都合のよいことが書いてあるからだろう。

小学校6年の社会科教科書『日本の歴史』(東京書籍)を見てみる。
例によって、日本を、太古の昔より卑しめ、あたかもチャイナの属国であるかのように思わせること、また先の敗戦に至るまで、日本の外交政策は「侵略」であり、指導者たちは常に判断を間違っていたこと。今後も、アジア周辺諸国に対して、ことあるごとに謝罪をすべきこと云々が、手をかえ品をかえて説明されている。特にチャイナに対しては平身低頭である。

一例を挙げようか。「おじいさんの話」の形を取った囲み記事では、

「わたしは、中国大陸で中国軍と戦いました。わたしたちは、広くアジアの人々のためを考えているのに、中国はそれを理解しようとはしないと教えられ、わたしもそうですが、多くの人がそれを信じていました。それなのに、日本軍は、中国の村や町を破かいし、多くの中国人の命をうばったのです。いっぽうで、日本人も大勢戦死しました」
なんという卑しい書きぶりであろうか。これはどこの国の教科書なのか。チャイナは全て善い。日本は悪だ、という観点で書かれている。ご丁寧にも、その横には、女の子の吹き出しで「中国の人たちは、日本のことをどう思っているのだろうか」と言わせている(東京書籍『新しい社会6年上』)。
答えは「不快。ひどい。残酷、うそつき」等々を予想している。
子供が言わなければ、教員が言って聞かせるのだろう。

教員は、この授業で何を狙うか。
「日本はこれからずっと、チャイナに対して謝罪し、経済的に援助を続けるべき」ことを、子供に教え込みたいのである。

開いた口がふさがらないとは、このことである。まったくもって狂っている。このような教科書が採択され、実際に小学校で教科書として何年も使用されている。
採択者たちは、どう責任をとるつもりなのか。それとも、本当に、賛同しているのか。だとしたら、恐るべき確信犯である。

偏った教科書の一方で、本来するべき基礎学力育成の授業は、無駄が多く、効果的ではない。特に小中学校にその傾向が目立つ。
子供の授業時間を大切にしていない。教授効率が悪い。
高校は進学校と呼ばれる一部の例外を除いて、時間を無為にしている。大学はそもそも授業効率というような段階ではない。ほとんど時間つぶしである。

小学校の低学年から中学年そして高学年へと、学習内容が複雑かつ高度な「ようなもの」になっていく。それにつれて、授業方法もまた、工夫したものとなり、深化すべきものであるが、実際のところは、そうではない。
6年生は、小学校の授業の学習のまとめの学年にもかかわらず、教科の全体像が、担任教員に把握されてないことが多い。
教員によって教科への得意不得意があるにしても、初等教育で、読み書きそろばんが、大切であることは、国民の常識であろう。国語と算数とが、中心科目である。

教員はだれでも、国語数学は得意であってほしいし、教授力学識ともに、一定レベル以上は持っていてほしい。     
万が一、教員が主要2教科に苦手意識を持っているとしても、それと教授力とは、完全に連動しているわけではない。むしろ逆の場合もあり得る。
ショパンコンクールの入賞者ではなくても、音楽教室に通ってくる子供にピアノは教えられる、効果的な指導はできる。その教え子が、リスト国際ピアノコンクールで入賞することだってあり得るだろう。

教員の実力は「教えていくら」の世界である。より具体的にいえば、子供の「成績が上がっていくら」、の世界である。目の前の子供の学力をつけることが、最大の役目である。
当然ながら、教員自身の学識や教授力向上のためには、不断の研鑚が必要だ。

教員は学習指導要領の枠内で、独自性と発想とを発揮して、授業する。児童生徒の学力を伸ばしてみせる、伸ばさなければならぬという危機感と、使命感が必要だ。
しかし、特定の教員の学級が突出すると、他の学級の保護者が騒ぐことがある。その学級と我が子の学級との格差に、嫉妬と焦りを持つ。瑣末な点を探し出して、熱意のある教員を批判非難をする。足を引っ張るのである。
嫉妬は人の常だから、仕方がない。しかし、我が子が、当たりか外れか、どの担任の受け持ちになるかは、運である。運が悪いからといって、当たり教員を批判しても無駄である。どころか、害になる。先進する教員の授業工夫や学力向上の意欲を、減少させることにもなりかねない。その結果、我が子の学級のレベルも、結局は、今よりもさらに下がってしまうのだ。

学年が5クラスあれば、突出した1学級のおかげで、他の4学級も、それなりに向上する。

しかしながら、他学級の親が焦るくらいに、学力向上を目指して、本気で授業に取り組む教員は滅多にいない。いたとしても、実際に効果を出せる教員はごくごく稀である。
安心していいのである。

 

注:シナまたはチャイナ(China)とは、中国(中華人民共和国)のことを言い、
コリア(Korea)とは南北朝鮮(大韓民国及び朝鮮民主主義人民共和国)のことを言う。

 

 

 〇 穏やかでない書名だが、内容は穏当。生徒指導担当なら読んでおくといい。

新装版 治療論からみた退行―基底欠損の精神分析

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