ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

競争は、子供の心を傷つける、だから止める。コンクールは流行遅れなのか。

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昔々、聞いた話である。
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かつて、コンクールの盛んな時期があった。
小中高の生徒向けの、絵画音楽作文主張など、主催が官公庁や新聞社、各種財団、県、市、郡、ついには小さな町の名を冠したコンクールまであった。

コンクールにはよく出た。
当時は、学校代表という形で、二人とか三人だったと思う。だから出たら責任を感じた。特選か入選か佳作か、腕試しのような感じもあった。

今、子供のコンクールは流行らない。厳しい選抜もなくなった。

逆に、大人向けのものは、小説絵画デザイン、シナリオ、標語、コピーと称する宣伝文など、種々あるようで、それがまた、商売上の利があるらしく、会社主催のものが多い。一般公募のコンクールばかりを紹介した月刊雑誌もある。

絵画塾がまだ残っているのは、台湾韓国中国である。多くの流派が競っているらしい。
ピアノを習うのも、香港や上海では人気だ。ただし、ピアノは高級品である。金持ち以外は、日本製の中古を買って、大切に使用している。
それでも、ちょっとやそっとでは買えないとのことである。
日本の楽器屋に感謝しなければならない。日本では優れた品質のものが、手の届く範囲にある。
香港では歌の塾もある。これは小学生を中心に習っている子が多い。

お話変わって、水泳だの陸上競技だのは、記録会といって、コンクールとはいわない。プールなり競技場で、日がな一日楽しんで帰ればよいのである。この日の子供は、顔つきが違って見える。ふだんよりも、いっそう生き生きとして、たくましいような感じすらある。
自分の身体を自分でコントロールすることは、難しいけれど楽しい。
プラトンは、数学と音楽と運動とを、その教育の根本とした。運動は、体力の問題だけではなく、その精神に及ぼす影響が大きいからである。

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と、こんな内容だった。

十人いれば十人の能力がある。子供の個性、というと聞こえがよいが、要するに能力差があるということだ。

能力差を認めたくないのが、親である。しかし、歴然とある。公立学校、特に公立の小中学校では、親に遠慮して、差異が目立たないように、ごまかそうとする。

これが間違いの元である。

子供の能力差を認めないふりをするようになったのは、保護者の見栄や甘え、同和教育の影響も大きい。
学校は競争を嫌がった。結果をはっきりと出すのを嫌がった。子供が「傷つく」のだそうである。
子供は、ガラスコップなのか。そうならば、割らないように大事にしまっておけ。


高度経済成長の真っ只中で、しかもアジア諸国は発展途上のままで、日本だけ独走したときは、それでもよかった。
国内で、浮かれた太平楽を決め込んでいても、経済は発展し、日本人の生活は、努力に見合った分だけ、確実に向上した。

だが、もう、それは夢である。経済の境は曖昧となって、常に流動する。人材育成も、国際間の戦国時代である。

アジア諸国の子供の能力開発の意欲は、すさまじい。結果、優秀な人材がぞくぞくと育ってきている。政治経済での立ち位置も、飛躍的に伸びてきた。もう、日本に頼らなくても、すべてよし、という雰囲気ができつつある。彼らの心は、ほとんど私利私欲にある。
ぼやぼやしている日本は、背中を刺されるだろう。

日本の公立学校でも、競争原理を元とした能力別学習や、個人差を認めた教育方法が必要である。
子供たちの「心が傷つ」くことは、ますます多くなりそうである。

 

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と書いたのも、これまた昔である。

 

 

 〇 政治学者のアイドル的存在である丸山眞男

東大出版会のものは必読。みすずの書房のものは気楽に読める。

学者は文章という。文章が上手である。

日本政治思想史研究

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