ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

受験シーズンに思い出す学校選択制。平等信仰と競争。コロナと人間価値の下落。

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人皆、新型コロナウイルス騒動である。コロナごっこが終わらない。終わらせない。終わらせたくない。

そんな階層がどこかにいる。でなければ、これほど引き延ばしていることが、怪訝である。

それはともかく、コロナで騒ぐずっと以前は、下記のような議論もあったのだが。

今は、コロナと叫んでいれば、教育関係者は安泰なのである。

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公立中学校の学校選択制度が定着した。

学区に制限されることなく、保護者や児童生徒が進学先を自由に選ぶのは当然である。
その一方で、義務教育ではあるが、公立中学校もまた、入学者を選ぶのも当然ではなかろうか。だったら、遠慮なく、選んでくれ。

選択制にするのはいいが、無理は禁物だ。相場というものがある。実力以上を出そうとしたって、元からないのだから、何も出やしない。
これは子供や親に言っているのではない。学校に言っている。

教員や教育事務所(別名は教育委員会)は、地域の人々や協力者会議や児童生徒やらの、評価や評判を気にする。お互いに、点付けごっこをして、少し、ほっとする。
そんなことをしなくても、どうせ実力はすぐわかる。
無理をせず、普段通りでいいのである。自ずから、評価は定まる。
ばたばたするな。
地域の暇人の協力者なんていらない、と突っぱねるがいい。地域と仲よく退職のその日まで、なんて夢を見るんじゃない。器でもないのに無理するな。

バランスシートは、どの分野でも必要である。均衡の上に立つべき学校が、利得関係者に操られたり、教員組合に押しまくられたり、保護者やその取り巻きに左右されたりしてはならない。力のバランスを利用しながら、航海をして行くのが、学校である。修道会を見よ。

学校選択について、教員組織・組合が気にしたのは(または恐れていたのは)、「競争激化」であった。


競争はどんな社会にもあるし、進歩の条件だから、望ましいはずだが、教員は、そうは思わない。ない袖ならぬ、ない能力を絞られることを嫌がって、駄々をこねる。

教員は競争を忌避しすぎる。競争に負けたからといって、明日がないわけじゃない。学校教育は、売り上げを競う店舗ではない。
だから、大した競争ではないのである。枕を高くして眠ればいい。眼前の子供たちに、学習内容を教え込めばいい。
それで十分だ。

 

ところで。
いまどき、人間の能力がみな平等である、と、まじめに信じている人はいるまいが、教員には、平等大好き人間が多い。

「がんばれば、できるようになる」は、教員間にも保護者にも、なるほど受けのよい言葉だ。

しかし、当の子供たちは、だれもそんなことを信じてはいない。

数学国語体育美術音楽など、誰が得意で誰が不得手か、級友には明らかだし、何より本人が一番よく知っている。
制度はともかくとして、才能容姿容貌意欲学力その他、資質能力のどれ一つを取ってみても、なにひとつ平等であることなんてない。
要するに、個人が生まれ持ったもの、これまでの生きてきた経験の結果で得たもの、それが平等なわけがないのである。

学校教育を「平等」が支配してしまうと、子供の学習意欲が下がる。日本人の学力の低下、日本の国力そのものを引き下げる。
だからこそ、教員やマスコミは平等信者なのである。本音はポルポトなのである。

個々の素質素養の違いは、認めるしかない。
悔しいだろうが仕方がない。仕方がない中で、悩んだり努力したりして、そこに進歩や発展がある。
「みな同じ、平等に、仲良く」の類の、低俗なキャッチフレーズは、すべてを狂わせる。「人間だもの」とかの、甘ったれたコピーも以前はあった。

「みんな同じ」が建前の社会主義国をみるがいい。散々なことになっている。

みな違う、そこから始めよう。

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さて、2021年2月現在、コロナ騒動は、各方面に、人の分断、国家の分解、人間の価値下落を加速させている。なかなかの作戦である。