ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

学校選択制は失敗か。「公立」の中高一貫校は、まだまだ増え続ける。

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公立小中学校の学校選択ができるようになって久しい。
この制度は、十分に定着したのだろうか。

選択制は強制ではなく、地域によって異なるし、一度選択制を採用したものの、元に戻す例もある。
学校格差が出るだの、教職員の負担増加だの、選択の理由があいまいだの、もっともらしいことを言っているが、親子で相談して、行くべき学校を選んで何が悪かろう。

学校選択の欠点なんてない。望ましいに決まっている。
公立中学校の長年の怠慢は明らかで、十代の子供の、貴重な三年間の墓場だった。
教員がお粗末ばかりではない、授業内容、部活動、高校入試対策等、粗雑すぎる。なっていない。
大本の法制度からして問題がある、と気づいている人も多いが、これは、すぐには変わらない。


学校の選択は、小さな一歩だが、大切な一歩である。これによって、地域の公立小中学校間に少しは競争が生まれて、ようやく公立でも、学力向上に効果のある授業が、成立するようになるかもしれない。

ところで、新自由主義は金持ちをますます金持ちに、貧乏人をもっともっと貧乏にさせる政策である。TPP等もその一環で、どうせ多くの日本人にとって、ろくなことにはならない。しかし、資源脆弱な日本は逆らうことができないだろう。

学校の自由選択性も、新自由主義の範疇だが、学校選択そのものは、まっとうなことである。
もっとも、「学校の特色ある教育活動を考えて自分の行きたい学校を選択」云々であるが、どうせたいした「特色」があるはずがない。保護者も子供も、粛々と授業ができている学校なら、それだけで万々歳である。


学校は独立企業のようなもので、隣町の中学の評判がすこぶる良くても、近所の中学は荒れて最低ということもある。親にとって、子供をどこに通わせるかは、思案のしどころである。
中高一貫の私立中学があり、少ないながらも公立の中高一貫校もある。
どこに行かせたいのか、行かせることができるのか。

かつて、転勤族の妻は、夫の転勤先に一足先に来て、市中のどの学校が評判が良いのか聞いて回った。狙いが定まったら、その学校区に住居を決めた。

親子にとって、転入先をどの学校にするかは、大問題だった。今では、選択の幅が広がっているから、ますます、慎重になる。
そんな馬鹿な、大げさな、と言う人は、実態を知らないのである。
トンでも学校は、数多く存在する。一方、評価の高い学校は市内に一つか二つしかない。しかもそれが年ごとに変化するからややこしい。
トンでもを選んだばかりに、散々なことになった転入生は、多いのである。

世間に出れば、色々な連中と付き合わなければならないから、どのような学校学級でもちゃんとやればいい、または人並みにやればいい、なんていうのは、恰好だけの話である。放り込まれた子供の身になってみろ。親が子供の転入先に定見を持っていないのは、あまりに無責任である。


公立高校のレベルが著しく低下している県では、あわてて、とってつけたように、中高一貫の県立高校を設置した。
各公立小学校から、学業成績もまあまあで、教員受けの良い「真面目」な子供を選抜して、入学させる。公立でありながら、高校入試を気にせずに大学受験を目指して鍛えるという、親にとっては、安上がりで、お楽しみな学校である。
子供を選んで、教育事務所お気に入りの教員達に教えさせたら、レベルがすぐに上がるのではないか、と安直なアイデアである。

 

実際、どのような学校でも、ある種の教員にとっては、子供の学力を上げるのは実にたやすい。
にもかかわらず、子どもの学力の向上が難しいのは、子供の学力をうっかり上げると、その教員をねたみ、そねみ、憎しみを抱く親や同僚がいるからである。泣く子も黙る「差別」というタブーに触れることにもなるからである。
公立小学校では、学力を思う存分つけることができない。低レベルのごっこ遊びで、お茶を濁すしかなかった。今もそうだし、これからも、そうだろう。

どんな地域の学校や学級でも、優秀な子供は、稀にいる。その子を集めて、公立学校の枠内で、遠慮なく鍛えることは、面白い試みであるが、一部の教員組織や親にとっては、これほど不公平な話はないだろう。
公立の中高一貫校に反対しないのは、当該校に入学する子は、どうせ物好きな子供だから、と納得しているのだろうか。 
不思議な現象である。

あれはおそらく、自分の周りの子供が行っていないから、嫉妬のしようがないだけである。あるいは、大学進学結果が出るのが先の話だから、反対のしようがないのである。
しかし、どうせ6年なんてあっという間だ。そのときに、もだえ苦しむかもしれない。
それが嫌なら、今からでも遅くはない。
小学校から「できない坊主」と「できる子」あるいは「やる気のある子」とは、歴然と区別して学級編成するべきだという内容を、陳情メールなり、教育事務所への「ご意見」投稿なり、学校へ乗り込んで関係者に話すなり、その他種々の手を打つなりするがいい。

ーーーーー

月日が流れた。

現在は選択制はどうなっているのだろう。なんだか、不振である。これは地域の学校がよくなったということではなく、親子に選択するほどの元気がなくなったのである。理由はお分かりだろう。日本全体の落ち込みである。はっきり言えば、景気が悪い。


公立の中高一貫校は、そのほとんどが失敗だった。
期待していた成果に、ほど遠いようである。しかし、予算が不思議にも余っているのか、役所流のポスト増数の狙いからか、今でも、
わけのわからない特色を宣伝して、新しく開校される話をよく聞く。いずれ収まるところに収まるのだろうか。

 

 

 〇 唐突だが、刑法である。文章がいい。初版当時は、内容よりも、その書き方に批判もあった。しかし、今でも、論文はこういう書きっぷりがいいのではないか。

刑法綱要総論

刑法綱要総論

 

 

 

 

不登校の原因は、子供の甘えか、教員の見て見ぬふりか。何事も、自分次第である。

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不登校という現象は、かつてあったし、今もあるし、これからもあるだろう。
不登校の子供がいた場合(大学生の場合は、これは怠学と判断される。すでに法的な大人である。自分で責任をとるがいい)、以前は、学校が恐縮して、さも申し訳なさそうな素振りをした。

事実として、中学校では、学校側にも責任があることが多かった。指導によって、多くの不登校は防げたはずである。
教員は、学級内のいじめを見て見ぬふりをした。
授業妨害された腹いせに、子供を憎んで、ついでに、学級全体の子供までも憎むようになった。生徒の問題行動に対処するほどの技量を、ほとんど持ってはいなかった。
一方、小学校の場合は、教員や大人が優しすぎで、子供の世話を焼きすぎることが多かった。

不登校の原因は、いじめばかりではない。子供にとって、家庭の方が学校よりも安楽な環境だからである。苦手な勉強をしなくてすむ。面倒な友達関係もない。ゲーム、漫画、ネットに没頭できる。
不登校は長い間、不勉強な子供の免罪符だったが、近年、若干不利になってきた。甘えを、世間が許してくれれば、子供は天国である。世間が許さなくなると、厳しい環境となる。

甘えを許すことができるのは、許す側の大人なり同級生なりに、やはり甘い環境が必要である。
「自分に厳しく他人に優しく」は、理想としてはご立派だが、現実離れをしている。
自分が楽な環境にあるから、自分の甘さが世間から許されているから、不登校の子供にも甘く対応できる。
就職、家計、人間関係、万事が、景気が悪くなると、気持ちの余裕がなくなる。甘さを出す気分になることができない。
自分の腹が減っていては、他人の腹まで気が回らない。自分の腹が満ちてはじめて、他人の腹に気を回すことができる。

これが、現在の流れである。

もはや学校に行きたくないのなら、それもよし。その結果、どうなるかは身をもって、体験するといい。
学校ばかりが世間ではない。
不登校のどこが悪い。行きたくないから行かないんだ」と叫んでみればいい。そして後で後悔するのなら、するがいい。
それを他人のせいにする。行きたくても行けないんだ、とくる。
嘘である。本心では、行きたくない。もっともらしい理屈をつけて、被害者ぶるのは大人子供の区別なく、人の本性である。

本音はお見通しである。子供の周りのだれもが知っていて、大目に見ているのである。大目に見すぎると、子供自身が本気で被害者だと信じかねない。注意が必要である。

不登校の者は、不登校の道を選択した。それもまた人生である。学校職員や学級の子供が、不登校者の家の前まで行って、「お願い」して学校へ来ていただくような時代は、もう二度と来ないだろう。

 

さて、上記は、学校や教員が十分な受け入れ態勢があり、かつ学級学年運営がうまくいっている場合である。教員に相当の指導力があることが前提である。
それがないのなら、ぺこぺこと反省しながら、教員自ら、技量を高めるようにするしかない。

力のない教員が多い。けれども、そのために子供が不登校になることは、まずない。逆に、教員が不登校になっているだろう。
教員が指導力不足で子供を制御できないために、学級が無法状態となって、子供同士のいじめが蔓延し、いじめられた当人が不登校になる。これが、ほとんどである。つまり、敵は教員ではなく、「友達」である。

 

とはいえ、不登校は、ある種の療養でもある。必要な時もあるだろう。当人が後々後悔したとしても、その時点では、必要だったのだろう。
もっとも、あの時、こうすればよかった、ああすればよかった、と反省し、後悔するのが人の常である。我事において後悔せず、なんて、誰でもが武蔵の境地に立てるわけがない。
食堂で下手に注文して、料理が出た後、がっかりするくらいは、なんでもないが、人生を選択する場面での判断ならば、穏やかではない。

 

私たち日本国民は、一応、平等が建前の民主主義社会に暮らしている。
勉強だけが人生でない、という。それはそうだが、勉強以外のことで、差ができてしまう社会は、不幸である。身分の差、生まれや育ち、時の政府や独裁者に忠誠を尽くすかどうか、等で人生が変わるのである。
それに比べれば、個人の勉強努力で、人生が多少または大きく変わる現在の日本社会は、平等で公平なのである。

私たち大人は、子供時代に戻れない。戻ることができたなら、やはり、勉強しないだろうか。それとも、今度は心を入れ替えて勉強するだろうか。
たぶん、勉強するだろう。
大人は、若い日々の勉強の価値を痛いほど知っている。原因と結果との因果律の一端を、体験として知っている。子供がうかがい知ることのできない世界である。
だから、親は、我が子には、しっかり勉強させようとする。涙なくしては語れない。
だが、親の期待ほどには、到底、子は勉強しない。仕方がないことである。期待が大きすぎるのである。
いずれにしても、不登校や不勉強を選択したのならば、その結果を、背負うて生きる。勉強する子もそうである。どちらが良いか悪いか、他人が判断することではない。それは当人にすら判断できないこともある。運命という大きな歯車があるだけなのだろう。
合掌。

 

 

教員が授業で悩むこと。過剰な準備と提出物点検の無駄。お疲れ様である。

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過日、東北某県の市立中学教員と話をしていて、当方も内情を知らないわけでもないから、朝からジャージ着て笛吹いていればいいのだから気楽なものだろう、と言うと、まったくその通りですと答えた。中学教員になって以来、ずっと担任をしているとのことである。
なるほど、体育教員は、担任をすることが多い。理由は皆さんご存じだろうから書かない。

教員の悩みは、生徒指導や同僚や子供および親との人間関係にもあるが、多く苦しんでいるのは、その授業のためである。
授業が安直な音楽体育美術技術家庭等、次に楽勝の社会理科数学の類は、さておく。
英語はどうだろう。これは、教員自身が腐ることが多い。これもまた、理由はご存じだろう。
どう見ても、国語科教員職が、難物である。

もっとも、ここを見ている方は、国語科教員だけではないだろう。だったら、笑って見てくれ。

さて、国語科はチョーク1本に教科書さえあればいい。それで授業し、子供の実力をつけるのが、教員である。
なんといっても、日本語の授業である。誰でも読める材料である。授業に、何の準備がいるだろう。すべては、その場の機転と知識教養経験とがあれば、足りるはずである。

とはいえ、こういう教員は少ない。というか、皆無である。
なぜなら、それでは本人の気が休まらない。副教材指導書プリントの類が怒涛の如く押し寄せる。抵抗、攻撃または無視しようとしないで、すべて受け入れる。膝まづく、やらせていただく。

知人のように、既存の教科書に飽き足らない者は、教科書を規定通りさっさと進めて、自作の名文集で授業する。これは稀である。
多くは、教科書を理解させるために、プリントを山ほど刷って、副教材や問題集の類を反吐が出るほど、子供に科して、その挙句、提出物を見るとかで、長時間ペン入れをする、放課後指導をする。

そしてどうなったか。全然、子供に実力がついていない。笑止であるというより、まったくのお笑い沙汰、時間の無駄である。

 

国語科の授業は、国語科教員が、毎時間毎時間、創出するのである。内容を覚えるのは子供である。教員は、むしろ忘れなければならない。
子供が作る授業とやらを、今でも、時折聞く。これが可能なのは、国語科だけであるべきなのに、教員が手取り足取り教えなければならない教科は、子供任せになっていて、逆に、国語科は異常に干渉過多である。

教員の皆さん、それでいいのなら、構わない。しかし、子供はどうだろう。無駄なことを強いられて、結局、実力が向上するどころか、低下し沈没する。子供にとっても不幸、日本の将来のためにも損失ではないか。

現実的な方策は、環境と教員自身の能力とによるから、わかりやすい解決はない。これは教えられるものでもないし、教えても、できない場合がある。自分自身で、考えて実践するしかない。

ただし、条件は書ける。
1 当該教員は、児童生徒学生期に、国語科の試験でトップだった経験があること。
2 豊富な読書体験があること。
3 文章が書けること。

以上は、並みの採用試験を受けて入ってきた国語科教員なら、大概、当てはまるだろう(でもないか)。
だったら、もっと良い授業があふれているはずだが、どっこい、9割以上の授業は、悲惨である。嘘だと思うなら、見て来ればいい。

これはいったいなぜだろう、どういうことか、どういうわけか。
答えは簡単だが、ここに書くことではない。あなた自身が一番知っていることだろう。それを実際に行うと、周囲との厳しい対決が待っているだろうから、あなたは結局、実行しないだけである。お疲れ様。

 

〇アラン著作集は旧版も含めてすべて持っている。何度読んだかも忘れた。徒然草みたいなもので、そういう付き合い方がいい。

アラン著作集

アラン著作集

 

 

 

教員は、何事につけても、苦しみ悩む仕事である。気楽な授業、同僚との戦い。

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教員は、何事につけても、苦しみ悩む仕事である。その一方、マイペースでお気楽で安楽な仕事でもある。
その差はどこから来るのだろう。

幼稚園小学校中学校高等学校大学大学院等の勤務先による、職種による、担当教科による、教員の能力による。つまりは、種々の要素が絡まって、楽する人、苦労する人、発狂する人、病む人、定年前に辞める人などの、差がでてくる。中でも、もっとも大きな要因は職場の人間関係であるが、それはさておく。


親は、我が子のことだけしか、見ていない。
仕方がないというより、当然である。
満足できない我が子に対して、親である自分にも責任があると考えてよさそうなものだが、全然、考えない。自分及び我が子以外の、何者かが、悪人だと決めつける。
子供も、自分も正義であって、悪は他人の方だと考える。

学校では、担任教員が悪者である。あるいは「ろくでなしのクラスメート」達が害虫である。
この「思いこみ」を、聞きかじりの「教育論」「学習論」の味付けをして、学校へ乗り込む。教育事務所へ匿名の電話をする。電子メールを送りつける。

事務所職員(教育委員会指導主事、管理主事)は、わはは、と笑って対応するかと思ったら、そうではない。
はじめ真っ青になって、その後、いまいましそうに舌打ちして、教員や校長に、「注意」「指導」をする。事実関係を文書にして出せ、地域の理解を得よ、と生意気を言う。

そうは言っても、注文の多くは、親の戯言である。まじめに取り合うのが馬鹿らしい。

大人ならそう思うところだが、学校現場は、そうではない。極めて厳粛に受け止める。畏まって反省させていただく。


煙の立たぬところには火はない、親の文句や投書にも、いくばくかの道理はあるのだろう。
教員は、人間相手の仕事である。しかも、生半かな仕事ではない。
今時の親の子を、たくさんまとめて、面倒を見ているのである。
どこかには隙も出るだろう(その隙が教育上大切でもあるのだが、ここでは述べない)。ミスもあるだろう。
些細なミスであっても、絶好のターゲットとなりうる。
隅をつついて、大喜びである。

当該教員を攻撃するときは、周囲はすべて敵となる。行政教委校長同僚親子供までもがよってたかって、当該教員を痛めつける。はははと、笑って済ませることができる豪傑ならいいが、そんな人なら、最初から教員なんてなりはしない。大概ここで、教員は死ぬか辞めるかする。

教育事務所職員らも同情の余地がある。保身こそ命である。親からの突き上げは、学校現場にいなくても、怖いのである。彼らには、自身の能力に関係なく、学校及び教員を「監督」「指導」するという「名目」がある。周囲の覚えめでたく、教頭または校長で出たい。あるいは、役所内でちょびっとでも、役職の階段を上がりたい。
せこいと言えば、それまでである。あれも人情である。


どこかに救いはないのだろうか。

ないといえばないし、あるといえばある。
簡単な方策の一つは、仕事範囲の確認である。
必要なことを明確にして、それ以外のことをしない。雰囲気や得点稼ぎで、守備範囲を広げることをしない。やるべきことを明確にして、それのみを、着実にする。

とはいえ、これができない。できるような豪傑または鈍感な人は、そもそも教員になってない。教員は、繊細で神経質な仕事でもある。たまに豪胆ぶっている教員もいるが、見せかけである。本音でそうなら漫画になる。

学校教育の守備範囲の逸脱が、教員の苦しみ悩みの、大きな原因である。

 

ただいささか。

親は我が子のことしか見ない。それはそれで正しい。

と同じく、人は誰でも自分のことしか見ない。見たくない。職場で、我が身を助けるためなら、すすんで他人を犠牲にする。あなたの職場でも、同じだろう。

弱肉強食が世の常で、教員もそうか。たぶんそうだろう。

 

〇 随想録の邦訳は、これが一番いい。大部の一巻か、分冊を選ぶかはそれぞれだが、私は下記を重宝している。

モンテーニュ随想録

モンテーニュ随想録

 

 

 

傲慢な子供に、教えさせていただく教員。ペコペコするのも程がある。本を忘れて思い出す。

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どの社会でも、人間関係は難しい。
子供相手の仕事である学校教員も、同僚や教育事務所、行政他等の人間模様の中にある。

学校は、行事等で、多人数が一度に同じことをする。
実際には、「たいしたこと」はないのだが、それを「たいしたこと」と考える人間がいれば、大したことになってしまう。
これを「無駄」と言う。

だが、根が真面目な(あるいは真面目さをアピールすることの好きな)人間が多い職場だけに、無駄を無駄と考えることができない。
とことん、やらせていただく、というポーズをとる。
親も子も、教員のポーズに慣れてしまって、教員を召使と同列だと考える。
たまに、「普通」の対応をとるような教員が現れると、ぎょっとする。
逆上して、「この野郎、教員のくせして、頭が高い。児童生徒様、その保護者様、ということが、わからんか」と叫んだりする。
笑止な。

怪訝なのは、ここまで教員は嘲(あざけ)られても、唯々諾々と、馬鹿真面目を押し通すことである。
これは、「立派」ではない、「融通が利かない」のである。


子供に、はいつくばる教員が多い。
学問を教えているのである。教えさせていただいているのではない。受けるべき給金は当然である。数少ない優秀な教員にとっては、少額である。多くの教員にとっては、妥当または高額である。

仕事の実態は、サービス業だとしても、教員が謙虚すぎると、逆効果になる。何より、児童生徒学生が戸惑うだろう。


某日、某小学校での研究授業を見た。教員が、児童生徒に対して、馬鹿丁寧な言葉で話しすぎる。あれでは、子供が傲慢になる。
「ごめんね」「ありがとう」、あるいは、してくれた、言ってくれた、うなづいてくれた。
していただいている、と教員が思うなら、子供はつけあがる。勉強してやっているんだ、と勘違いしてしまう。

学習塾はもちろん、ピアノに水泳に習字にバレエの習い事、自家用車で父親や母親に送り迎えさせているのだから、学校授業も、子供にしてみれば、「してやっている」となるのだろう。
しかし、授業中、教員は、子供にお願いをする立場なのかどうか。
見苦しいほど、遜るのは、教員自身が、自らの授業や知識教養に、自信がないからだろう。だとしたら、努力して学び続けて、乗り越えるしかない。

教員は、気が細かく、頭が固く、面白みのない人間のように見える。この連中に囲まれていると、息が詰まる、またはうんざりする、と某氏が述懐していた。

しかし、教員は、開き直らなければならない。
親や子供を変えるのも、教員である。もちろん彼らの能力や生き方を、変えてやる必要なんかない、大きなお世話だろう。
第一、それを変える力が、教員にあるわけがない。
ここで言う「変える」とは、子供の学校内での行動についてのみ、変えることが可能だと言っている。子供を通して、その親も、わずかに変えることができるかもしれない。

学校外のことは親の領分である。
立派な「保護者」であるからにして、自分の「お子様」には、たぶん、きちんと躾をしているはずだろう。

校内では、教員は、自信をもって授業を進めてほしい。それ以外は、雑事であり、無駄と心得て、笑い飛ばすくらいの余裕がほしい。


さて、話は変わる。
当文章「ぱるるの教育批評」を、時折見るような奇特な人は、もうお気づきだろうが、本文の下の方で、本の紹介をすることがある。
参考というわけではない。本は、勝手に選んで、好きに読めばいいと思う。
それでも、問われることもあったりするから、私の読んだもので、良書またはそれに近いと思う本を選んだ。過去記事の下にも、おりおり追加しようと思う。
私は、アマゾンをよく利用する。本や趣味のものを買うが、とくに不満はない。

私は、本は読むかたから、ほとんど忘れている。この機会に少しでも思い出すことができるだろうか。ボケ防止にもなるだろうか。

 

〇 哲学概論がお好きなら、読むといい。明快である。

 

 

悩む教員と嗤う教育産業。授業は教科書とノートとがあれば足りる。

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悩む人は悩むもので、ことさらに仕事を難しくする。これは、半ば習性または性格、あるいは悪癖であろう。
国語科の授業は、教科書とチョーク1本で済むものを、やたらとピント外れの予習や準備をする。プリントを多種大量に刷りまくる。自作プリントというらしい。どこが自作なんだろう。手本は、教科書用指導書、同じく各種参考書、問題集とやらである。
白目をむいて、ご本人自ら解いて、解答を参照し、説明を読み、またしても、切り貼り印刷、または本文丸ごとそのままワープロで打ち込んで作り上げる。
バカバカしくって、見てはいられない。

あのな、授業は、子供の実力を上げてやればいい。それが学校教育の目的である。他学級の期末試験の平均点の結果を比較して、一喜一憂したり、どのクラスの誰それが最高点だったと、同僚に対して、傲慢になったり卑屈になったり、妬んだり憎んだりすることではない。
どうせ、できる子供は、教員が足を引っぱっても、または特に目をかけたとしても、できる。反対に、しない子できない子は、それなりに頑張る、または怠ける。教員ごときが、なんでも、自分で左右できると思うのは大間違いである。

授業は余裕と才能と機知とで、行うものである。それができてこそ、プロの教員で、できなければ、ただの素人である。
ところが、ここに困難な問題がある。

全国の教員の9割以上は、上記の意味で、素人である。素人は一挙に玄人になることはできない。だから他の方法で、安直に玄人になろうとする。玄人のふりをしても、素人である。下手をして、怪我をする。それが教員本人だけならいいが、迷惑するのは子供である。小中高校生や大学生大学院生である。
大学大学院は、そもそも教員が、素人だから、まだいい。小中校のそれは、本人自身が教員だと勘違いするから始末が悪い。

大学教授は、自分自身を教員だと思ってはいない。それは正しい。あれは教員未満である。ご本人は、研究者だと言い張る。それも正しいかもしれない。某小学校低学年児童も、ニンテンドーの立派な研究者である。だったら、同様な意味で、大学や大学院の教員も、研究者の端くれである。
小中高校の教員は、自分自身を教員であり、先生だと、本気で思う。これは、本人にとっても悩ましく苦しいことである。
少しばかりの余裕も、かなぐり捨てて、火になる。燃料も僅か、素材も脆弱なのに、燃え上がると、あっという間にしぼんで消える。有害物質をまき散らす。

かつて、小中高等学校の教員は、教科書とノートと辞書の類で、余裕の授業ができた。子供に教科の実力をつけることができた。児童生徒も、日々、授業で学力が向上している実感を持つことができた。
これはなぜだろう、どうしてそれが今日稀なのだろう。

もうお分かりだろう。
教育産業のあの手この手に、まんまとだまされたのである。
騙す方は、それが商売だから仕方がない。責任は、騙される方にある。教員自身にある。

なぜ騙されるのか、それはピアである。東京デートスポットである。彼女が喜びそうなレシピである。今日は何を着ていけばいいか、雑誌を見るのである。人から聞くのである。
他人に託すのである。
これだけ言って、理解できないのなら、分かりたくないのだろう。それならそれでもいい。

とはいえ、また話す。

 

〇 読んで、頭を冷やすがいい。

幻談・観画談 他三篇 (岩波文庫)

幻談・観画談 他三篇 (岩波文庫)