ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

不登校の原因は、子供の甘えか、教員の見て見ぬふりか。何事も、自分次第である。

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不登校という現象は、かつてあったし、今もあるし、これからもあるだろう。
不登校の子供がいた場合(大学生の場合は、これは怠学と判断される。すでに法的な大人である。自分で責任をとるがいい)、以前は、学校が恐縮して、さも申し訳なさそうな素振りをした。

事実として、中学校では、学校側にも責任があることが多かった。指導によって、多くの不登校は防げたはずである。
教員は、学級内のいじめを見て見ぬふりをした。
授業妨害された腹いせに、子供を憎んで、ついでに、学級全体の子供までも憎むようになった。生徒の問題行動に対処するほどの技量を、ほとんど持ってはいなかった。
一方、小学校の場合は、教員や大人が優しすぎで、子供の世話を焼きすぎることが多かった。

不登校の原因は、いじめばかりではない。子供にとって、家庭の方が学校よりも安楽な環境だからである。苦手な勉強をしなくてすむ。面倒な友達関係もない。ゲーム、漫画、ネットに没頭できる。
不登校は長い間、不勉強な子供の免罪符だったが、近年、若干不利になってきた。甘えを、世間が許してくれれば、子供は天国である。世間が許さなくなると、厳しい環境となる。

甘えを許すことができるのは、許す側の大人なり同級生なりに、やはり甘い環境が必要である。
「自分に厳しく他人に優しく」は、理想としてはご立派だが、現実離れをしている。
自分が楽な環境にあるから、自分の甘さが世間から許されているから、不登校の子供にも甘く対応できる。
就職、家計、人間関係、万事が、景気が悪くなると、気持ちの余裕がなくなる。甘さを出す気分になることができない。
自分の腹が減っていては、他人の腹まで気が回らない。自分の腹が満ちてはじめて、他人の腹に気を回すことができる。

これが、現在の流れである。

もはや学校に行きたくないのなら、それもよし。その結果、どうなるかは身をもって、体験するといい。
学校ばかりが世間ではない。
不登校のどこが悪い。行きたくないから行かないんだ」と叫んでみればいい。そして後で後悔するのなら、するがいい。
それを他人のせいにする。行きたくても行けないんだ、とくる。
嘘である。本心では、行きたくない。もっともらしい理屈をつけて、被害者ぶるのは大人子供の区別なく、人の本性である。

本音はお見通しである。子供の周りのだれもが知っていて、大目に見ているのである。大目に見すぎると、子供自身が本気で被害者だと信じかねない。注意が必要である。

不登校の者は、不登校の道を選択した。それもまた人生である。学校職員や学級の子供が、不登校者の家の前まで行って、「お願い」して学校へ来ていただくような時代は、もう二度と来ないだろう。

 

さて、上記は、学校や教員が十分な受け入れ態勢があり、かつ学級学年運営がうまくいっている場合である。教員に相当の指導力があることが前提である。
それがないのなら、ぺこぺこと反省しながら、教員自ら、技量を高めるようにするしかない。

力のない教員が多い。けれども、そのために子供が不登校になることは、まずない。逆に、教員が不登校になっているだろう。
教員が指導力不足で子供を制御できないために、学級が無法状態となって、子供同士のいじめが蔓延し、いじめられた当人が不登校になる。これが、ほとんどである。つまり、敵は教員ではなく、「友達」である。

 

とはいえ、不登校は、ある種の療養でもある。必要な時もあるだろう。当人が後々後悔したとしても、その時点では、必要だったのだろう。
もっとも、あの時、こうすればよかった、ああすればよかった、と反省し、後悔するのが人の常である。我事において後悔せず、なんて、誰でもが武蔵の境地に立てるわけがない。
食堂で下手に注文して、料理が出た後、がっかりするくらいは、なんでもないが、人生を選択する場面での判断ならば、穏やかではない。

 

私たち日本国民は、一応、平等が建前の民主主義社会に暮らしている。
勉強だけが人生でない、という。それはそうだが、勉強以外のことで、差ができてしまう社会は、不幸である。身分の差、生まれや育ち、時の政府や独裁者に忠誠を尽くすかどうか、等で人生が変わるのである。
それに比べれば、個人の勉強努力で、人生が多少または大きく変わる現在の日本社会は、平等で公平なのである。

私たち大人は、子供時代に戻れない。戻ることができたなら、やはり、勉強しないだろうか。それとも、今度は心を入れ替えて勉強するだろうか。
たぶん、勉強するだろう。
大人は、若い日々の勉強の価値を痛いほど知っている。原因と結果との因果律の一端を、体験として知っている。子供がうかがい知ることのできない世界である。
だから、親は、我が子には、しっかり勉強させようとする。涙なくしては語れない。
だが、親の期待ほどには、到底、子は勉強しない。仕方がないことである。期待が大きすぎるのである。
いずれにしても、不登校や不勉強を選択したのならば、その結果を、背負うて生きる。勉強する子もそうである。どちらが良いか悪いか、他人が判断することではない。それは当人にすら判断できないこともある。運命という大きな歯車があるだけなのだろう。
合掌。