ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

国公立と私立の大学入試日程を同じにせよ。無能な大学教員と、3S(セックス、スクリーン、スポーツ)予備軍を養うための大学施設は、潰すのがよかろう。

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国公立大学の入試日程は、不自然なほど、後にずれ込んでいる。なぜ2月までに、すべてを終わらせて、合格発表をしないのか。
現役高校生は大いに、迷惑している。

3月は落ち着いて、高校生活を振り返らせたい。みんな揃って、最終のまとめの授業を受けさせたい。
実際は、高校3年の3学期は休み放題、たまに来てもバラバラで、だれがだれだか、わかりゃしない。

3月までも、国公立入試日程を、だらだらと延長する理由は、もちろん商売のためである。文科省他が率先して、私立大学に媚びを売っているのである。私立大学の延命のための、とんでもないインチキである。これは半ば習慣化し、常識のようになっているが、ずいぶんと変な話である。
私立大学は入試が、めちゃくちゃに早い。さっさと、合否を発表して、入学金をせしめる。

近頃の子供は、国公立が第一志望でも、浪人を嫌がる傾向にあるので、手近な私立大学を受けて(当然合格して)、入学金をたんまりと払わされる。国公立の最終発表より前に、入学手続き一切を完了させるように、私立大学は納入期限を決めている。
一種の詐欺である。

私は、日本の現今の大学のほとんどが潰れることを願っている。あんなもの、ほんの一部を除いて、何の役にも立たないこと、あなた自身がご存じだろう。

大学は、教員も学生も、優秀な連中で、構成したい。有象無象の時間稼ぎの遊技場、無能教員の荒稼ぎの場では、ないはずだ。
同一時期に私立も国公立も入試をし、同じ時期に合否を発表し、入学手続きの日程も同一であるべきだろう。

それにしても、どこまで私立学校は、セコイのだろうか。高額な入学検定料を取っておきながら、まだ金をせびる。無能な教員を食わすためと、理事会が儲けるためである。
大学も所詮、一企業である。商売人である。ならば、無能無益な「お店」は、さっさと潰せばいいのである。


もう少し話そうか。
大学入試は、私立大学の場合、推薦入試、OA入試、センター入試、一般入試など、数種類用意されている。
一般入試で入ってくる子は、学力が高く、推薦入試で入ってくる子の学力は低い。
至れり尽くせりの入学試験で、人集めをしなくてはならない大学だから、学力が高いといっても、相応である。
怒る人もいるだろうが、怒っても無駄で、世間はそう見ている。口に出して言わないだけで、推薦で入っても、一般で入っても、結局は同じ○×大学卒業ということになって、一丁上がりである。
名前ばかりは、全国区の「有名大学」も、学生の質は、似たり寄ったりで、入学試験のその瞬間だけの技術が発揮されたに過ぎない。

ともかくも、地方区というか、まさに地方の大学は人集めに苦労する。
どうしても、お客様(新入学生)に入っていただかなくては、経営が成り立たない。

毎夏の、高校野球大会は人気があるらしい。甲子園によく出る「常連高校」は、全国から、野球だけは、うまい中学生を引っ張ってくる。または、本人が入りたくてやってくる。みんな金仕事である。
ともかく、そんな高校の一つが、運よく甲子園まで勝ち上がってきたとしようか。そこの「高校球児」が、投げたり打ったりで目立ったとする。
すぐに「有名」私大から、声がかかる。一般入試では入れない「学力」でも、大学側は、どうか来てくださいお願いします、と泣かんばかりの求愛である。関東では新宿三田神田その他、関西の今出川通朱雀町以下同文、どんどん提示してくる。どれにしようか一番条件のいいところはどこかいな、と選ぶのに悩む。
そもそも、「大学進学」を口にするのも恥ずかしい学力であっても、楽々と「入学」して、しかも本人も当然という顔である。

これでは、大学は、3S(スリーエス、セックスとスポーツとシネマ)に、ご奉仕する組織で、娯楽のために存在するようなものである。

もう学歴などを目標に、子供の尻を叩いて、勉強させても、まったく意味がない。
独学独立独歩で十分である。優秀な講義はネット動画に、いくらでも溢れるようになるだろう。
既存の大学は、今以上に、ますます娯楽施設となるだろう。

 

 

筑波大学附属小学校、国立大付小の「お受験」は、良いことづくめ。子供の背中に、重いランドセル。

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筑波大学附属小学校は、東京大学が、字義通りの「名門」かどうかはともかく、国立付属小の東大といわれる「名門」なんだそうである。

地下鉄茗荷谷駅の近くにある学校で、年に数回の研究発表会を開く。全国から熱心な先生方が集まって、授業を「参観」し「協議」する。
児童の方も、6年生なら、12回以上も研究会の場数を踏んでいる。
みんなお利口さんで、どんな授業でも、うまく理解して、発言も要領がいい。手慣れたものである。
あれは、公立小学校の手本にはならない。

授業前に数人の6年生と話した。察するところ、家庭は裕福なようだ。お受験のために幼稚園から塾に通って、入学後も、家庭教師を使ったり、大手の学習塾に通い続けている。そんな子供が多い。
学校の授業を、軽くこなすのは、当然である。

さて、本題はこれからである。
今回の研究会でも、会場満杯の教員達と研究発表者、文科省担当者とで、総合学習をめぐって、盛んに論議されたが、労多くして益少なしの感はぬぐえなかった。

参加教員たちは、散会後、会場から地下鉄駅に向かってとぼとぼと歩く。誰の心にも、総合学習の無意味さと虚しさと、何か間違っている、総合学習はもう駄目だ、と観念がわいたはずである。
その中で、ただ一人気付かなかったのは(または、立場上気付かぬふりをした)、文科省の人間だけだったのかもしれない。
理念のみの空論を、さも意味ありげに話していた。内容破綻の苦しさが、言葉の端々に出ていた。
所詮、間違いを間違いと認めずに、押し通そうとするから、無理がある。

全国の現場の教員のほとんどは「総合的学習は無駄で空疎」と気付いている。観念で気付いたのではない。実践によって、確信させられたのである。
もはや、総合的学習は終わっている。次の指導要領改訂では消えてなくなるだろう。そうならなければ、日本の教育はますます停滞するだろう。

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以上を書いて、かなりの年数がたった。

予想通り、さすがに、現在では、文科省担当者の面子をつぶさない程度に、暫時、時間数を減らしている。

そりゃそうだろう。

しかし、文科省の担当者のレベルの低さには、毎度ながら辟易する。
教員が迷惑なだけではない。親と子供とが迷惑をこうむるのだ。

 

ところで、筑波大附小は、3歳4歳の子供の親が、受験を考えて熱心に取り組まなければ、そもそも入学できない。準備がいる。
公立小学校に入学後、中学から付属に入ればいいようなものだが、少しでも早くから放り込みたいのも親心である。

こんな親は、表と裏とで、子供に強制する。
勉強しろ。勉強してくれ。勉強していただけませんか。
親が、ついには教員までもが、子供にお願いする。

銀行や保険業の勧誘パンフレットは、学費がどうの、予備校、学習塾、習い事、都会での下宿等々、莫大な金がかかるからと、親の不安をあおって、預金しろと、言い寄ってくる。

まあ、ちょっと待て。
そうまでして、勉強が好きではない、勉強をしない子供に、勉強をしていただく必要があるのか。

義務教育が終わったら、最悪でも高校を終えたら、親は子供を突き放したらどうか。

と話しても、無理だろう。

親は子供を、猫可愛がりする。これが日本の伝統である。そうまでして何になる、と言いたいところだが、何にもならなくても、そうまでするのが親心である。

「高校を卒業したら、後は本人次第です」、と力説する親の子供を見れば、それなりの成績で有名大学を経て、今は某院に在学中である。それで言う戯言である。

親は我が子に、なんとかして勉強してほしい、勉強させねば、と焦る。
しかし、勉強がよくできる子供もいれば、できない坊主もいて、それで世間は、丸く収まる。
できる限りの教育を受けさせようとするのは、親の傲慢または、親の自己陶酔ではないのか。
鳶は鷹を生まないはずなのだが、鳶が自らを鷹だと信じ込んでいる場合は、どうしようもない。

すべてこの世は本人次第である。法を破らぬ限り、子供の好きに任せればいい。
結果は、子供本人が背負うのである。各々の背中の幅しか荷を運ぶことができない。それでいいのである。

 

 

 

連休前に宿題を出す教員は、熱心なのか。宿題は単純作業がよろしい。それ以外はごまかしである。

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連休近くになると、以前は、教員も子供も色めき立った。

ハワイへ行く、グアムへ行く、沖縄でいい、北海道はどうだ、言いたい放題である。
近頃ではどうだろう。

さて、連休前には、宿題を出さないのが本筋である。出すのは、点数稼ぎの無能教員が多い。
「私は違う」という教員もいるだろうから、宿題について、少しく話そうか。


教員が、宿題をどんどん出すと、その教員は、さも熱心なように見える。宿題がありさえすれば安心する親も多い。
そこで、愚にもつかない宿題を、平気で出す教員が後を絶たない。
これは、教員が得意とする「時間つぶし作戦」である。
時間つぶしの宿題とはどんな宿題か。あなたの子供の宿題を見るといいだろう。

 

宿題を出すからには、ちゃんとやらせなければならない。
学級の過半数が、さぼって未提出であるような課題は、宿題とは言えない。
一人残らず宿題をやらせなければ、そもそも宿題を出していることにならない。宿題云々の学級規律の問題である。

宿題を出す学級は、子供が宿題を、形だけでもやってきているはずである。子供のほとんどが、宿題に対して、やらなくてはならないという意識を持っている学級であるはずだ。つまり、宿題を出す教員は、わずかにポイントが上がるわけだ。
ならば、宿題のない学級よりは、宿題のある学級の方がいいということになりそうである。

だが、違う。

繰り返すようだが、むしろない方がまし、といったつまらない宿題が多すぎる。時間を無為に過ごさせ、子供の集中力を奪うような宿題が多すぎる。 
こんな宿題は出さない方がましだ。

無駄な宿題は、宿題の9割を占める。
宿題をすることによって、子供の学力が上がらなければ何にもならない。よい宿題は、子供の学力と学級の学習進度によって、変化し、学力がついていることが、子供にも親にも実感できるものである。

学校の教員が出す宿題には、いくつか意味がある。

1授業前に、課題の予習をさせて学習理解を容易にする

2授業後に、学習内容の定着をはかる
3家庭で一定時間は学習する習慣をつけさせるため

宿題に3の意味を持たせたのは、日本独自の発案で、日本の教員が熱心(または、おせっかい)な証拠である。
欧米では宿題は、1の意味でしか出さない。単なる予習のためである。
アメリカやイギリスの教員は、各家庭で子供がどのような勉強をしようと、子供の勝手だと考える。
伸びる子は伸びるし、怠ける子は脱落する。
これは仕方がないことだし、むしろその方が良いというニュアンスがある。
まったくもって「自由」な国である。子供のときから、「立派」な個人だ。本人の人生だ。各々が、自分で責任をとるのだから、なんとでもやってくれ云々。

一方、日本では、無理矢理でも、全員を引き上げようとする。
子供にとっては、いい迷惑である。勉強したくないのに、どうしてそれほど勉強しなくちゃいけないの。

日本の教員は、学級の全員にさせることが前提だから、宿題の中身を、吟味して出す(はずである)。
吟味しすぎて、単純なものになりがちである。それでいい。
宿題は、むしろ通り一遍でオーソドックスなものがいい。ややこしい宿題を出すような教員は、力が足りないのである。

望ましい宿題は、読み書き計算の単純作業に尽きる。これ以外の宿題は、まず間違いなく時間の無駄である。
これを極端だと、言うのか。
では聞くが、計算をノートにきちんと解き、漢字や単語をノートに書き写し、名文を朗読し暗唱する。
これ以外にどんなすばらしい宿題があるのだろう。あるなら、教えてくれ。

それにしても、連休前に宿題を出すのはご法度である。よく覚えておくがいい。

 

 

授業時間数だけが大切な、教員管理と行政。本物の授業の体験を持ったことがなければ、わからない。

 

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熱心に授業をして、子供に学力を本気でつけようとする教員は、一部の保護者や教員から陰に日向に非難される傾向がある。
「遅れがちの子どもに目が向いていない」とか、「学校全体の授業進度を無視する」とか、「学習成績で子供を判断するのか」等々。
自分の子と他の子との、能力差を見たくないという親心である。自分の子が他の子よりも優れていると確信している場合など、過度な露出欲が加わることもある。

以前、卒業式のために、国歌の練習をさせると、国旗国歌に反対の立場の保護者が、匿名電話等で教員を中傷非難したりすることがあった。担任教員の些細な言動が、攻撃材料として使われることもあった。
というのも、国旗国歌に関しては、法的に決着済みなので、解釈論では無理と見て、些細なことで攻撃する。結果的に、その教員をつぶすのが狙いであるから、あることないこと、学校や教育委員会に抗議する。

教育委員会は苦い顔をしながら、学校長に連絡する。校長は教員へ怒りをぶつける。こうしてようやく、当該教員へ圧力をかけることに成功する。奇妙な循環を経て、一部の親による教員への嫌がらせや憎しみは、満足させられる。

これを見ても、諸外国(主に米中ソ連朝鮮)の戦略は、長期にわたって、いかに日本に浸透したかがわかる。政治的発言ととられては、困る。国際関係論の導入に過ぎない。
教育現場では、利権団体まで関わって、複雑怪奇な様相を呈する。


公立学校では、一時期、「学力向上に熱心な授業、受験競争、学習塾、学習指導要領」などの言葉が、タブーとされた時期があった。まだ、地方では残っているかもしれない。教員は、自分の指導力不足、学力不足を都合よく隠したいのである。

しかし、平成30年の今、学校を取り巻く状況はずいぶん変わった。
少しは安心してよいのだろうが、大きな心配もある。公立学校全体の学力が落ちてきて、いずれ滅茶苦茶なことになりそうなことである。

時間ばかり気にすると、単位時間の仕事の効率は、かえって遅くなる。
時間数の確保とかで、授業時間の計算がやかましくなった。国語が1時間足りない、社会が2時間多いだのと、神経質に査察する。集計を月ごとに出す。週末に出す。はなはだしきは、毎日出させる学校まである。

プロの教員は時間なんて関係ない。
10の内容を2時間で教えることができる教員もいれば、10時間かけても、たった二つのことすら、教えることができない教員もいる。

時間数合わせに、熱心になってはならない。
適材適所で実力を出させるのが、学校である。時間数にこだわりすぎると、黙阿弥である。
能力ある教員の足をひっぱり、力不足の教員には、無理をさせることになる。良いことはひとつもない。
隣町で事件があったら、こちらの町の全員が犯人だ、と決め付けるようなものである。


さて、以上は前にも言ったような気がするので、少し補足しようか。

役所仕事は、何事も書類上の数字合わせが大切である。つつかれても、ボロさえ出さなければ、安泰である。

学校も残念ながらそういうところがあって、ほれ、この通り時間数は守ってます、と胸をはる。およそ授業とは言えない代物でも、チャイムから45分または50分間、教科書を机の上に出させて、時間が過ぎればよしとする。

時間ではない、内容なのだ。優れた授業は20分でも十分すぎるくらいで、あとの時間は関連する話題を展開するのがプロのやり方である。

このあたりのことは、簡単に理解できないかもしれないが、わかる人にはわかるだろう。
不幸なことは、わからない人が多すぎることである。大方、集中した授業を受けたことがないのだろう。それも仕方がないことである。

授業のイロハを言うのもなんだが、授業とは、ある目標があって、それに近づけるために、見識能力技術を駆使して、効果的に行うことをいう。時間の終了とともに、子供が何かを得ていなければ、子供の知的な何かが変わっていなければ、何にもならないのである。

とはいえ、教員と児童生徒学生との出会いも、運である。双方とも、本物の授業の体験がないのならば、永遠にわからないだろう。

 

男の娘、ミス筑駒が目玉の文化祭。屋台遊びばかりの大学祭。

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筑波大附属駒場中高校の文化祭を見た。筑駒は、東京在住の、進学熱にうなされた親にとって、キラキラな男子校である。
小学生の低学年をつれた夫婦が多かった。在校生の親もちらほら。

意外にも、小学高学年が見当たらない。小学5年生や6年生にとっては、あまりに現実的に過ぎるからである。成績が筑駒受験に相応な子は、自宅または塾で勉強しているだろう。まったく可能性のない子は、見に来ないだろう。
親は、小学低学年のわが子が、高学年になる頃には、学力が急激に伸びるだろうことを期待または確信するからこそ、ああして、子供の手を引っ張って、文化祭なりと見に来たのである。涙である。


イベントの流し方はおおむね普通だが、レッドだのオレンジだの当日配布のタイムテーブルだの、行事と場所との案内が、わかりにくい。お粗末至極なパンフレットである。
どうせ、業者に作らせたのだろう、生徒の熱が全然伝わってこない。

 

学校行事なので、子供の展示や発表の評価は配慮がいる。「見た中では」という、条件付きで、感想を少し。

中高農芸部がよろしい。学園祭の発表展示は、かくありたい。

中学1年生の「幕張マッセ!」は、手作り感があって、実験説明の中学生のトークも面白く、参観者に楽しさが伝わった。

高校1-3HRの劇「あゆみ」。少ない人数で、うまく展開していたが、この程度の脚本は、既存のものを使うのではなく、自分たちで書いてほしかった。また、書くことができるはずである。

筑駒Jugglersのジャグリング。コミカルに楽しませてくれた。見応えあり。

中高音楽部。規模は小さいが、曲目が洗練されている。音程等、些細なミスも、許容範囲である。

ミス筑駒。筑駒文化祭の目玉である。他にミスター筑駒があるが、男子校でミスターコンテストをするのは、女装とマッチョとの、バランスのためかもしれない。

 

ミス筑駒イベントは、準備、時間、予算等、他を圧している。この企画が生徒や父兄一般客に人気があるだけでなく、実際に宣伝力があって、文化祭全体の認知度を高めているからだろう。
高崎高校のそれとは違って、予備選がないようである。あらかじめ他薦だか自薦だかで、5人に絞って本番に臨ませているらしい。
ご丁寧に、数週間前から、ネットで宣伝している。
ネット戦略をする割には、本番の様子が動画として流れていないのが不思議である。5人の女装男子は、自己紹介や寸劇やらで2時間近く頑張った。コンテスト出場者も大変である。
化粧や服装に、生徒本人の手作り感がない。プロに頼んでいるのではないか。
素材を無理やり押し上げているような風があるのは、都内の大学祭のミスコンに影響されたからだろう。
男の娘として、高崎は素材を売り、筑駒は装飾で売る趣がある。

 

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ミス筑駒 コンテスト

 

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中高音楽部

 

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なかなかの熱演だった 「あゆみ」

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大学祭は、この時期が最も多い。いずれも、学生本人が騒いで飲んで遊ぶためのもので、大方の大人は見向きもしない。
表参道駅からすぐの大学など、正門を入るなり、屋台テントの連続で、学生たちや子供たちでごった返して、互いに食べあって喜んでいる。それだけのことで、見るべき何物もない。

年々、大学祭がつまらないものになってきている。高校文化祭はまだ、細い命脈を保っている。

少しでも盛り上げるためには、一芸披露やミスコン・ミスターコンに頼らざるを得ないのかもれない。

 

 

 

 

 

 

 

日本の祭は、日本の強みである。呉市吉浦祭。NHK番組の美男美女たち。

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日本には、教育のよりどころとなる宗教がない、などと言うと、人は急に不機嫌になる。
人は己の欲するものしか聞きたくない。
皆さんが大好きらしいNHKなる独占企業がそうで、受信契約を切られると大変だから、いつも視聴者の気分を損ねないように最大限の注意をはらう。
裏では、国民を侮蔑冷笑して、高給取りの選良気取りでいるくせに、表向きは、追従とごまかしの塊である。どうせGHQ育ちの、大衆操作部門である。素性が怪しいのは許すとしても、インテリぶるんじゃない。

知人が言うには、NHKのドル箱らしい「朝の連続テレビ小説」という番組のヒロインは、常に不美人を出す。朝昼夜のニュースの時間帯でも、司会者の男女はみな、日本人として不細工な部類に入るメンツである。
これらは、視聴者に、小さな優越感を与えるためである。
飛びきりの美男美女が得意げに画面に大写しになったら、視聴者はそっぽを向くだろう。
人は嫉妬する存在で、しかも気難しく、傲慢で、騙されやすく、常に何モノかを信じて、それに頼りたい存在である。

あなたも感じているように、日本の政治職業人が劣化しているのは事実だろう。まさに、事実を見たくないのである。災害でも戦争でも事故でも、起こってしまうと困ることは、起こらないことになっている。生じてはいけない事態は、生じないことにしているのである。
ごまかしであり、欺瞞である。無責任である。国民が税金で雇っている政治職業者が、この体たらくである。

しかしこれもまた、選挙民たる国民は許している。そういう風土だから仕方がないと言いたくはないが、おそらくそうだろう。お代官様である。御威光である。有難いのである。仲良しである。おもてなしである。


話を変える。楽しいことを書きたい。
日本の祭りである。
愉快で、興味深く、美しい祭りである。

それは、呉市吉浦町の吉浦祭、別名カニ祭りである。
半世紀以前、都会育ちの知人は、初めて吉浦祭に遭遇し、驚嘆した。
知人は、先日、偶然に「吉浦祭り」の動画を見て、幼少の感動が蘇ったそうである。

ちょうさいの宮上りを、長い階段の横から、手に汗して見た。左右に大きく揺れる太綱に弾かれて、見物の大人たちが何人も吹っ飛んだこと、笛の音と大人たちの酒の匂いと怒号などを、思い出した、と言う。

 

吉浦祭 ちょうさい宮上がり 2018年(1分)

 

ちょうさい、だんじり等 宮上がり宮下がり 2018年(2分)

 

 

登り切ったちょうさい 神社前のねり 2010年(7分)

動画3分あたりからは必見である。

 

吉浦祭をコンパクトにまとめた動画  2017年(19分)

 

ちょうさい、だんじり 宮下り 2011年(42分)

 

知人が言うには、今も昔も全然変わっていないとのことである。

いちいち動画を示したのは他でもない。
来年は吉浦町に行って、実際に見ようと、知人と約束したのである。

道徳も学びも、地域の大人と子供とがいっしょになって、協力して、楽しみとする行事の中に、何か大切なものが含まれているのだろう。