ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

授業時間数だけが大切な、教員管理と行政。本物の授業の体験を持ったことがなければ、わからない。

 

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熱心に授業をして、子供に学力を本気でつけようとする教員は、一部の保護者や教員から陰に日向に非難される傾向がある。
「遅れがちの子どもに目が向いていない」とか、「学校全体の授業進度を無視する」とか、「学習成績で子供を判断するのか」等々。
自分の子と他の子との、能力差を見たくないという親心である。自分の子が他の子よりも優れていると確信している場合など、過度な露出欲が加わることもある。

以前、卒業式のために、国歌の練習をさせると、国旗国歌に反対の立場の保護者が、匿名電話等で教員を中傷非難したりすることがあった。担任教員の些細な言動が、攻撃材料として使われることもあった。
というのも、国旗国歌に関しては、法的に決着済みなので、解釈論では無理と見て、些細なことで攻撃する。結果的に、その教員をつぶすのが狙いであるから、あることないこと、学校や教育委員会に抗議する。

教育委員会は苦い顔をしながら、学校長に連絡する。校長は教員へ怒りをぶつける。こうしてようやく、当該教員へ圧力をかけることに成功する。奇妙な循環を経て、一部の親による教員への嫌がらせや憎しみは、満足させられる。

これを見ても、諸外国(主に米中ソ連朝鮮)の戦略は、長期にわたって、いかに日本に浸透したかがわかる。政治的発言ととられては、困る。国際関係論の導入に過ぎない。
教育現場では、利権団体まで関わって、複雑怪奇な様相を呈する。


公立学校では、一時期、「学力向上に熱心な授業、受験競争、学習塾、学習指導要領」などの言葉が、タブーとされた時期があった。まだ、地方では残っているかもしれない。教員は、自分の指導力不足、学力不足を都合よく隠したいのである。

しかし、平成30年の今、学校を取り巻く状況はずいぶん変わった。
少しは安心してよいのだろうが、大きな心配もある。公立学校全体の学力が落ちてきて、いずれ滅茶苦茶なことになりそうなことである。

時間ばかり気にすると、単位時間の仕事の効率は、かえって遅くなる。
時間数の確保とかで、授業時間の計算がやかましくなった。国語が1時間足りない、社会が2時間多いだのと、神経質に査察する。集計を月ごとに出す。週末に出す。はなはだしきは、毎日出させる学校まである。

プロの教員は時間なんて関係ない。
10の内容を2時間で教えることができる教員もいれば、10時間かけても、たった二つのことすら、教えることができない教員もいる。

時間数合わせに、熱心になってはならない。
適材適所で実力を出させるのが、学校である。時間数にこだわりすぎると、黙阿弥である。
能力ある教員の足をひっぱり、力不足の教員には、無理をさせることになる。良いことはひとつもない。
隣町で事件があったら、こちらの町の全員が犯人だ、と決め付けるようなものである。


さて、以上は前にも言ったような気がするので、少し補足しようか。

役所仕事は、何事も書類上の数字合わせが大切である。つつかれても、ボロさえ出さなければ、安泰である。

学校も残念ながらそういうところがあって、ほれ、この通り時間数は守ってます、と胸をはる。およそ授業とは言えない代物でも、チャイムから45分または50分間、教科書を机の上に出させて、時間が過ぎればよしとする。

時間ではない、内容なのだ。優れた授業は20分でも十分すぎるくらいで、あとの時間は関連する話題を展開するのがプロのやり方である。

このあたりのことは、簡単に理解できないかもしれないが、わかる人にはわかるだろう。
不幸なことは、わからない人が多すぎることである。大方、集中した授業を受けたことがないのだろう。それも仕方がないことである。

授業のイロハを言うのもなんだが、授業とは、ある目標があって、それに近づけるために、見識能力技術を駆使して、効果的に行うことをいう。時間の終了とともに、子供が何かを得ていなければ、子供の知的な何かが変わっていなければ、何にもならないのである。

とはいえ、教員と児童生徒学生との出会いも、運である。双方とも、本物の授業の体験がないのならば、永遠にわからないだろう。