ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

国公立よりも私立の方が良いなんて、誰も言わない。どこに就職できたかで勝負が決まる。

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十数年前のこと。例によって文科省が下手をして、全国の小中学生の学力を下げてしまった。
内外からの批判に、文科省役人たちは真っ青になった。大慌てで、「世界トップレベルの学力を目指そう」などと、各県の教育長を集めて話した。

自分でやっておいて、とぼけている。

ゆとり教育」だの「生きる力」だの「総合的学習」だの、公教育を、幼稚なキャッチコピーでガタガタにしておいて、今度は、てのひらを返して、学力優先、と言い出す。
学校が学力をつける場所であることは、有史以来当然のことである。それを壊したのはいったい誰だったろう。
寺脇某とその一味は、どこで何をしているのだろう。


お話変わって、大人は、子供に勉強してくれ、なんて頼む必要はない。
しかし、頼んでいない大人は、ごく少数で、日本全国津々浦々、家庭でも学校でも、「お子様」に、勉強していただくために、平身低頭して汗だくである。
子供は、いったい何様だ。

昔は、背中に背負った袋の豆を、食べ食べ、遠い京の都まで師を訪ねて行って、半年間、教えを請うた。後の半年は郷里の田舎で農作業をして次の上京と、学問へ思いを馳せた。これが勉強だった。

子供に、頼んでまで、「教えさせていただ」く必要はない。
大人は子供に対して、親切すぎる。
小中学校、高校大学と、児童生徒学生に対して、親切というより、お節介の度が過ぎている。異常である。

たとえば、小中学校で流行っているのが、「わかりやすい授業」だ。こんな戯言を言ってると、子供自身の怠慢や我が儘にすぎないことまでもが、正当化されてしまうだろう。
授業は困難で分かりにくいものである。それが学問である。こう覚悟することが、すなわち、勉強することだ。

それにつけても、NHKは、相も変わらず、お遊戯のような素人芸を授業と称して放送し、恥じるところがない。

とはいえ、教えることに不熱心な教員や学校体制を擁護するわけではない。以上は小中学校に当てはまるが、高校の半分くらいと、大学のほとんどでは、全然、逆なのである。まったくもって、子供へのサービスが皆無である。月謝泥棒である。俸給盗人である。
この件につていは、今までも話したから、もうよす。


話は変わる。

知人の教員から聞いた。
年末になると、教員がふだん以上に忙しくなるだけでない、子供が、とくに小学6年生がいらいらしてくる。
教員や親や周りの大人が、気忙しくなるので、つられて子供もそうなるのだろうか。

いえいえ。いちばんの理由は中学校という新しい世界が近づいてくるからだ。
私立や国立を受験する一部の子どもをのぞくと、ほとんど地元の公立中学へ入学する。

公立中学の噂は、あまりよくない。
生徒が反抗的だ。素直でない。学力がつかない。高校入試で苦労する。教員は教科指導よりも生活指導に追われている。悪い仲間に引きずられやすい。
ただでさえ、難しい時期なのに、親も子も不安はつのるばかりである。

私学に受験予定の子どもも穏やかではない。まず受かるかどうかがはっきりしない。誰もが受験するようになると、むしろ受かる方が稀である。金銭的にも体力的にも、何年間も無理を重ねてきた。塾にずいぶん投資をしたはずである。

受験料だけでも十万円近い出費である。子どものプレッシャーも並ではない。
どこか日本の教育はおかしいのではないか、と考えたくもなる。

しかし、これが普通なのではないか。
人間に、嫉妬や向上心や利己心があるかぎり、当然のことが起こっているに過ぎない。悲憤慨嘆はよすがいい。人は現状を攻撃すると、自分はちゃっかり正義の旗を持った気になるものだ。

自分の子供には楽をさせたい。できればいい学校に入れて、いい就職ができて、リッチな生活をさせてやりたい。親の多くは、そう考える。

入試が子供に負担が少なく、しかも子供の特性を的確に判断できるようなものになったとしても、競争は決してなくならないだろう。親も子も、捜してでも、競争を見つけ出すだろう。欲望と競争は双子の兄弟だからだ。

他人に勝ちたい、他人より優れていると自分でも思い、他人にもそう思わせたい。
その欲望は人の自然な感情である。それなら、競争があることを嘆くよりも、いっそのこと、競争を楽しむくらいでちょうどいい。
いつも勝とうと思うから苦しいのである。三回に一度勝てばよい。負けて勝つ、ということもある。ゲーム感覚で試験を楽しむのである。実際、子供はそうしているように見える。

高校入試、大学入試、就職試験、資格試験その他諸々。人生はゲームの連続である。楽しまない手はないだろう。

以上ではあるが、そういうわけにもいかないのである。
俗にいう、「いい女」「いい男」に巡り合うことも、受験の一種であり、また受験の結果であることも多いからである。
こんなことは常識だろう。特に就職は男女にとって、学校生活の仕上げであるが、どこに就職するか、何を仕事として従事するかによって、男女の出会い、収入の大小、人生設計の根本から、大きな違いが出る。
言わずもがなのことなので、これもよす。


受験といえば、最終的に大学で元はとれる、と言われている。三流とされる高校の卒業生も、一流とされる大学に入れば「勝ち」らしい。
大学は、国立公立私立と色々ある。どれが得策かは、学校による。
小学校中学校高校は私立が良いとされてきた時期が長かった。
平成29年現在、国公立の小中高校と、私立のそれとでは、微妙な差異しかない。私立学校は、今後、淘汰されるだろう。それでいい。それが自然であり、公平である。

私立志向の変化は、この十年くらい前から兆しがあった。
小学校は地元の公立へ行かせて、私立の中高一貫進学校に入学できる実力があっても、公立中学校(国立大付属中も含む)に、子供を通わせる親が増えてきた。

公立が多くの問題があることを知ってはいても、無理して学費の高い私立へやったって、その実利がない、と判断したようだ。
第一に、今のご時世、親が安定した職についていなければ、子供の学費を払い続けることに不安がある。
第二に、私学に行かせたからといって、そこそこの大学に入れるとは限らない。
第三に、首尾よく、そこそこ大学に滑り込んだとしても、就職がない。つまりは、元の木阿弥である。
だったら、最初から無理したくない。させたくない。できない。
普通の公立に言って普通に卒業すればよしとする。それで、就職があれば幸せ、なければ、どこなりと探すだけである。
たとえ、三流四流と呼ばれる大学でも、きちんと生活ができて、本人なりの自負と幸せとがあれば、十分どころか立派な職業人でありそれこそが大人である。

世間は大競争に入っている。
何事も、自分から、熱心に練習しなくては、上手にはならない。選手どころか、補欠にも入れない。勉強や進学も就職も同じことで、子供本人が本気でしないのなら、無駄である。
学校も同じことで、本人次第である。
私立もだめ、公立もだめ。だから、結局は、どこでもいいのである。