ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

競争のない運動会、体育祭は無駄である。団体演技は、共産圏の宣伝運動の如き。

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運動会は無駄である。

運動会というイベントがある。
軍国主義とやらが大嫌いらしいそぶりを見せる「教員組合」も、不思議と運動会だけは賛成であった。
ただの賛成なら、可愛げもあるが、競争のある運動会は駄目で、競争のない運動会なら、いいのだそうである。
奇怪なことを。

運動会は競争に決まっている。ところが、競争嫌いの教員たちによって、全国のほとんどの運動会は、単純な見世物になった。
下手な踊りや組体操と称するマス運動で、まるで新興宗教の示威運動か、某国総書記万歳の祭典ごっこの真似事である。いかにも共産国が大好きで、シナ朝鮮夢の国、と歌った過去のある教員組合のやりそうなことである。

あれでは、子供があまりに不憫である。運動会と聞くと、うんざりして、勉強も手につかず、不毛の日々が続くことになる。
暑い最中、運動場に子供を並ばせて、教員は、いらいらと怒鳴り散らして、まるでナチスである。
その挙句が、品のない踊りのような「表現運動」と称する猿真似である。これでは、怒鳴り続けられ大汗を出した子供も浮かばれまい。

馬鹿の一つ覚えではあるまいに、どの学校も「なんとかソーラン」などと、どうしてこうも、ワンパターンで硬直しているのだろう。

長い間、多くの小中学校では、運動会や体育祭で、「負けた子供の心が傷つく」とかで、すべての徒競走を禁止し、それでも走らせなければならないときは、横一列に手をつないで走らせた。
そんな異常な学校は、今では、さすがに少ないだろう。

あれは、ソ連社会主義教育の猿真似だった。「同和教育」で利権を得た連中の影響だった。
みんな平等だとか、心を大切にだとか、手をとりあって仲良く等々の、空疎なキャッチフレーズは、今でも残っているのだろうか。
不思議にも、ほとんどの学校では、ちゃんと残っているらのである。

学校で「競争こそが、進歩の元である」と話すと、みんなが目を剥く。
そんなに怒るな。競争に決まっているではないか。
勉強も、運動も、遊びも、結局は競争である。

競争を、教員や親が憎むのは、負けるのが嫌で、あらかじめ煙幕を張るからである。何よりも、競争があると練磨がある。努力がいる。仕事を楽にこなせなくなる。
卑怯である。または、見栄っ張りである。勝つ者への嫉妬である。
素直に、負けるのが嫌だから、競争はしない、と言えばよいものを、正義の見方面して、屁理屈をつける。

世界との競争で、日本が教育で負けることは、国が負けること、衰退することだ。他国に蹂躙される、あるいは滅ばされる可能性が大きくなることである。よく覚えておくがいい。

運動会など、大反対である。あんなものは遠慮なく止めてしまえ。