ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

「解説」で売るマスコミ家業。テレビ新聞大学教員売文屋は、実は、大量の偽物で本物を隠すことが目的です。

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誰でも、自分自身を「ひとかどの人物」であると、思っているし、他人にもそう思わせたい。荷風先生の言葉は、あなたも賛成するだろう。みんなが「ひとかど」である。

そういう連中はどうするか。ともかく人の師になりたがる。それには、「実は病」が役に立つ。
何かを、自分だけが知っているかのように、話す。前振りに、「実は、」とやりたがる連中である。
テレビを稼ぎ場とする連中が例外なくかかる悪病で、内容空疎なくせに、「(皆さんみたいな素人または馬鹿は、知らないまたは誤解しているだろうが)実は、この問題は、(専門家で優秀な私だけが知っているのだが、教えてやろうか、それはな)」という調子で、嬉し気に話すアレである。

こういうのが、現在のテレビ局、新聞社、出版業、大学関係者に溢れかえっている。
何事でも、上から目線で、大勢の他人に、つまりは「視聴者」「読者」「大衆」「国民」に、知ったかぶりに話したくてうずうずしているのである。
一方、対象である私たちも、権威者のようなものに、解説してもらうことが楽しみなのである。口をぽかんとして、他人の解説を受け入れる。
ついには、味覚聴覚はもとより、現実体験ですらも、誰かに解説をしてもらうことで、自分が実際に経験した気になって、満足するようになった。
恐ろしいことである。虚しいことである。自分を引き下げ、他人を持ち上げることによって、自分を認めるしかない方向へ、日本人の大部分を陥れることになる。国民が三流四流の楽しみに満足して、一部の人間へ奉仕し、「おもてなし」をすることになる。

自分で考えない。自分の学んだこと経験したことを軸に、外部を認識しようとしない。他人の意見を自分の意見として、現実を解釈する。誘導されやすく先導されやすい、洗脳最適人間になる。そうなりたい。むしろ、そのことが嬉しい。

広大な図書室の中には、なるほど多くの書物がある。しかしその99パーセントは不要無益無駄害悪の塊である。良書を覆い隠すために、悪書で溢れさせているのである。その方が、筆者と称する売文屋や、大学教員と称する遊び人や、ごみ資源生産業である出版社連中の、利益になるからである。

良書はすでにある。常にある。どこにでもある。このことを国民が知れば、現存の「解説業者」の大部分は、廃業となるだろう。そうなることを心から願う。

巨大書店の棚に居並ぶ、小学校中学校高校大学の入試のための、学習参考書、問題集。各種有象無象の資格試験、就職試験のための、同じく関連書籍群。
何事かを学ぶのに、これほど大量の本が、なぜ必要なのだろう。

些末な事々を解説めいて書き散らしたもの、人の不安に付け込む人生指南書のようなもの、見てきたような嘘のルポ、小説類、ビジネス書、芸人本、なにがなにやらわからぬ本、本ともいえない本、巨大な物量の大波と化して、私たちを押し流そうとする。

ごみ本の山は、一体どこからやって来て、どこに流れ着いていくのだろう。

学校教育の、特に国語の時間の役目は、ここにある。
子供に、数少ない良書を体験させ、偽物と本物とを見わけることのできる眼を育てる。
「教員」と「教材」があれば、可能である。それを信じなくて、何を信じることができるだろう。