ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

学校教育に群がるハイエナたち。ゆとり、総合的学習の大失策。

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小学校低学年の「生活科」だの、「総合的学習」だの、みょうちきりんな、「お遊び」の時間が、授業とされている。実に嘆かわしいことである。以前は、学校の外で、子供が自然と身につけたことばかりだ。

家庭では難しいから、学校で、半ば強制的にやらせるのだ、という理屈をつけたいのだろうが、ちょっと待ってくれ。学校は、家庭の代わりではない。
遊園地でもない、お子様探検隊でもない。
パンを作ったり、繁華街をうろうろしたり、校庭で芋を焼いたりするのが、授業だろうか。悪い冗談ではないか。
音読すらまともに訓練しないで、葉っぱを集めましょう、などと大真面目でやっている。教員も子も親も、無邪気に嬉しげである。

 

実生活では、身に付かないようなことを、強制的に『勉強』させることが、学校の本来の役目である。教えるプロとされている教員の仕事である。

教員の実力が頼りないことと、だから教科の中身を変えたり程度を下げたりすることとは、話が別である。

断言する。
総合学習とかいう「お遊び」は、日本の国力を下げることになるだろう。子供の知的レベルが哀れなほど下がって、親も子も我慢できなくなるだろう。そのとき、総合的学習だの「ゆとり」だのを喧伝した教育行政関係者や大学教員たちはなんと言って、弁解するだろうか。


以上は1991年ごろに書いたものだ。
どうだ、図星になっただろう。
今になって、「お遊び」による、「教育効果」のあまりの酷さに、行政もマスコミも親も(肝心の子供までもが)気づいて、悲鳴をあげだした。
もう遅い。

しかし、総合的学習の類は、なかなかにしぶとい。当時の関係者、寺脇某やおだて挙げたマスコミその他のメンツをつぶさないために、屁理屈で胡麻化そうとする。

ところで、こういう見方もできるのではなかろうか。
簡単に言うと、総合的学習は、小学校低学年では理科と社会とを包含している。高学年でも、中途半端に理科社会の内容が盛り込まれている。
だから、これはむしろ、将来的に理科と社会とを義務教育から、特に小学校教育からなくしてしまうための布石にもなる。
もし、そうだとすれば、実に大賛成である。

初等教育では、理科や社会は全然必要ない。百害あって一利なしとは言わないが、時間の無駄である。
プラトンは、「政治は大人の仕事である」と言った。子供に、社会科学の真似事をさせてみても、理解できるはずがない。人生経験がものを言う。
現在の「社会科」は、義務教育では、「歴史学習」につきるだろう。それは国語の中に含ませて、歴史の良書を選び、徹底的に読ませればいいだろう。薄っぺらで、しかも大学教員(あるいはその下請けのゼミの院生や学生)が書いた駄文では、駄目である。一流の文章家、歴史家の書いたものがよい。これらは読んで面白く、しかも道徳にもなる。

「理科」もまた、観察実験と言うが、これがお粗末至極である。
そんなことより、ファーブルでも、とことん読ませればよい。興味は子供が自ら醸成するだろう。疑問も生まれ、自ら探求するようになるだろう。
理科・社会をなくしてしまって、国語・数学を中心に学校教育を立て直す。義務教育の現代化であり、必要急務な「改革」と言えるだろう。


さて、
教育史上の巨悪と言ってもいい「総合的な学習」、「ゆとり教育」が、指導要領に収まる以前から、子供の「発表」のようなものは、あった。
とくにそれは、参観日の授業で、よく、見かけた。
子供が数人ずつグループに分れて、調べたレポート(のようなもの)や、画用紙になにやら書き込んだものを、発表する。または、身振り手振りを交えて発表する。
何をやっているんだか、さっぱりわからない。子供のやることだから微笑ましく可愛くもあるが、実はそれが教員のねらいである。
自分の下手くそな授業を見せずにすむ。

近ごろは、教育に詳しい親が多い。教科内容や指導法について、親の方が、教員以上の知識があるかもしれない。となると、教員は、参観授業で教えることができない。自分の実力を見破られてしまう。
そこで、あらかじめ何度もリハーサルをさせて、子供に発表(のようなもの)をさせる。お芝居である。
総合的学習が、指導要領に入ったことが、嬉しくてしょうがない。発表会と称する「やらせ」で、すべてオーライである。

無意味な遊びで、子供に学力がつくわけがない。あれは、テレビのバレエティショウの下手な(しかし、けなげにもまじめな)物真似である。

公立は、だから、いけない。私立がいいわけでもない。
愛想を尽かして、私立に入れたいと考える親もいる。しかし、私立小学校は、数が少ない。第一、授業料が高い。教員のレベルも怪しい。
日本の公教育なんて、今やこんなていたらくである。


三人のお子さんが小学校在籍中の方のお話を、紹介する。

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授業参観に思うこと。

「プレゼンしよう」
毎度毎度、子供達の「プレゼン:普段の生活の発表」には、いい加減飽き飽きなのです。
(私達が子供の頃の授業参観は、先生の「普通の授業」をしている姿と子供達の反応を見てもらっていたような気がします。机間巡視をされる先生に、注意されたらどうしよう・・とか、手を揚げて発表しても間違えたらどうしよう・・などと、心地よいドキドキ感があったように思い出されます。)
私達「親」は、先生が普段、どのように子供達を指導してくださっているのか、本当は、それが観たいのに「子供達が、プレゼンします」(私には、プレゼンと言う言葉の響きに酔っているような気がしてならないのですが。ただの「発表会」・・と思うのです。しかしながら「発表会」ではないそうです。
(中略・・・)
縄跳びの技術を見せてくれたり、「お父さん、お母さん生んでくれてありがとう」なんて言葉を言ってくれたりするのは、普段自宅でも観察できますし、声を揃えて無表情で言われても、なんの嬉しさも込み上げてこないのは、私がおかしいのでしょうか?
確かに、低学年の子供達は、それはそれでかわいいのですが・・。
そんな、お仕着せの練習をした子供達の姿を見せて、先生方は、なんとも思わないのでしょうか?幼稚園児にも劣るような内容で・・。

ゆとりの教育で、主要教科の学習時間がなかなか充実出来ないと嘆いていらっしゃるような先生もいるのでしょうが、この「わけのわからないプレゼン」の練習も、かなりの授業時間を割いて、やっておられることと思います。(子供達が「今日もまた授業参観の練習だよ・・・やだなぁ・・と言うので、なんとなく、そう感じました。その練習の間、先生は何やってるの?と聞いたら、「知らない、どっか行ってるんじゃない?」です。)

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学校教育の目的は、知識・技術の伝達以外にはない。それ以上または以下のことができると思うのは、教員の傲慢である。
教員は、自分が持っている程のことしか教えることができない。
文科省やマスコミの類が利を求めて妄想した、ゆとり、総合学習、生きる力などの宣伝文句は、すべてインチキである。

もう一度言う。
教育は、知識と技術の伝達である。その他は、枝葉であり、害の大きい毒である。よく覚えておくがいい。
私があれこれ書くのは、実に、この一点が言いたいためなのだ。
学校教育から、夢想妄想を取り除き、知識技術の伝達を徹底させること。教員の必要不可欠の仕事内容はそこにある。

本の学校教育を、幼稚園から大学院までと定義するなら、この目的に沿った制度と施設と教員団が必要だ。

しかし現状はどうだろう。絶望するしかない。
無能な教員、異常な入試制度、あきれ果てた文科省製の「学習指導要領」、害悪の塊のマスコミ利権集団、安楽会社の国会議員等々、教育を利の手段としか見ていない。彼らは、単純明快なはずの教育目的を曖昧模糊としたごっこ遊びに仕立てあげて、金の生る木のままにしておきたいのである。