授業批評は、高校では、難しい。どこが難しいかと言えば、授業が、そもそも批評するレベルに達していない。
高校では、厳密には公開研究授業はない。たまにあるのは、あれは教科ごとの授業研である。同じ教科の教員と、校長あたりが数人来て、お茶をにごす。区でも都でも、たまにやるあれは、もっとひどく、飲み友達くらいしか集まらない。。
授業というよりは、プリントゴッコであり、下準備の披露であり、教員の小演説である。子供は教員の下心を見抜いて、静かにしている。
それでも授業研をするのは、一部の進学校である。問題校では、そもそもする気がない。
教科ごとの授業だから、体育の教員は数学の授業に文句をつけることができない。批評できない。する気もない。第一、見に来ない。
気の毒なのは、校長や研究部長と称する連中で、わからないくせに何か言わなければ格好がつかない。しどろもどろでつぶやいて、他から失笑される。
高校では、研究授業をする教員はえらい、とされる。批判されない。「お疲れさまでした、本当に力がおありで、感激しました。参考にさせていただきます」と、おべんちゃらの嵐である。
一例をあげれば、と思ったが、挙げるまでもない。馬鹿馬鹿しくなった。
教材の解釈や展開の問題以前に、授業になっていない。
声の調子、顔つき、子供への対応の角度、板書の位置、全体の雰囲気の把握、教室の風の通り具合、光量等々に始まって、刻一刻と変わる子供の気持ちの変化や知的興奮の度合いを注視し、制御してこそ、授業と言えるのである。
無い知恵絞って、数日かけてプリントを作った。「さあ、やりましょう」では、研究授業にならないのである。