ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

アクティブ・ラーニングは、文科省と大学やマスコミの猿知恵。売ったもの勝ち、書店もニンマリ。

 

 

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新入学、新年度、新学期を目前にして、案の定というべきだろうか。
書店では、アクティブラーニングごっこで、大忙しである。
ついでに、騎士団長何とかで、これまた、売ったもの勝ちの、大宣伝である。

どうにもこうにも、書店の先行きは暗い。
暗くて構わない。本などが、どんどん売れるわけがない。どんどん売れるほど、良書や読むべき本なんて、あるわけがない。
書籍は、古書があれば十分で、後は雑誌の類であろう。
それを生意気に、次から次へと、数か月(または数日、あるいは数時間?)もたてば、ごみにしか過ぎなくなるものを、新刊本として出しまくる。
一体全体、これほどの無駄無理があるだろうか。

かつて、ゴミ本は、真に読むべき名著を、読者の目から覆い隠すためにある、と書いたが、今また思うのである。

さて、アクティブラーニングは、文科省と教育系大学と売文稼業者どもとが、結託してでっち上げた、下らない思い付きである。
しかし、哀しいのは、まんまと騙されてしまう教員や教員予備軍や「教育」熱心な親たちである。
アクティブ(悪底部)ラーニングは、いったいなんだとばかりに、駄本に飛びつく。ばかばかしさに見てはおられないというよりは、浅ましくも痛々しいのである。

内容浅薄で、まったくの言葉替え遊びであり、学校での毎日の授業とは何の関係もない。あれは、白墨をチョークと、机をデスクと呼ぶことと、同じまたはそれ以下の、言い方を変えて喜ぶ日本人特有の心理である。

アクティブラーニングの中身を見れば、なんのことはない。普通のことである。普通のことをことさらに強調するから、普通でなくなる。普通のことが、「何か優れたこと」をやっているかのようにごまかされる。いっそう現場を悪くする。
では、これまでの授業はどう呼べばいいのだろう。

ゆとり教育、総合的な学習の時間、生きる力、等々、安っぽい造語をでっちあげては、文科省と、その取り巻きのマスコミ連中は大宣伝をしてきたが、今回の「アクティブラーニング」は、うんざりするとともに、恐れ入った。
猿知恵にはキリがないものと見える。