ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

政治と教育は、別物とお思いか? オリンピックで転んで、泣く子供。

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以下は、知人の話である。


二十代から三十代の教員たちは、政治の話、特に近隣諸国と日本政府との外交について、全然興味がないようだ。
中国韓国台湾云々の話題は、どんな会合でも、場違いとなる。
どうも、外交だの憲法だの、チャイナ・コリアだのは、苦手というか、嫌であるらしい。そのくせ、オリンピックとやらには、すぐに盛り上がる。

あのですねえ、教育とは、政治なんですよ。
学校教育は、良きにせよ悪きにせよ、その社会体制を維持するために、次の世代を洗脳することなんです。
文化伝統の持続とは、国家意識を育てることなんです。否定しても無駄。そうでないと、国家・民族は成り立ちません。世界中、どこでもそうです。
見て見ぬふりをしたいのは、日本国民だけです。というより、そう仕向けられているのか知りませんが、仕向けられて、素直に応じるのなら、どちらにしても同じことです。

ですからね、親も教員も、もっともっと、政治的になった方がいいんです。
ここで言う、政治的とは、旗を持って「原発反対」なんて、大通りを練り歩くことではありません。「日本という独立国家を、強く意識する」と言うことなのです。

チャイナは、世界制覇をたくらんでいます。こんなことは世界中の常識です。制覇というと、ハリウッド映画っぽくなりますが、要は、大中華圏の達成で、国が大きく人も多ければ、そのくらいのことは自然に思いつきます。そうでないと、国家が成り立ちません、民族が存続しません。そして、人は存続することを本能に持つものです。男が死ぬとき、体温が瞬間に上がり、逸物が屹立するというじゃありませんか。種を残そうという本能です。

チャイナは、コリアは手中に収めました。台湾もいずれ征服します。次は日本です。
それがいつ実現するかはともかく、こんなことを意識するか、それとも忘れたふりをするか、それが教育では、大切なんです。
授業でそう言えというのではありません。教員自身、保護者自身が、心の底に覚悟を持てということです。

言っても、無駄ですかね。奴隷状態にならないと、得心がいかないのか? それもまた、やむを得ないということでしょうか。

何やかや言っても、日本は平和で太平楽です。雪の朝に、町のそこかしこで、凍死している人を見ません。橋の下に乞食がいません。
飢えて、生ごみ回収の日に、ゴミ袋を漁っている人を見ません。
毎晩盛り場では、勤め帰りの人々が大笑いをしています。貧乏学生の癖に、最先端のファッションで歩いています。職業安定所に、高級外車で乗り付ける人がいます。

それは悪いことではないです。むしろ善です。日本人の勤勉さが生んだ、不思議ワールドです。

しかし、日本以外では全然違う。弱肉強食です。子供の時から、学業成績と収入とが一致すると考えています。
ハーバードの某教員ですが、彼女が11歳の時に交通事故で頭を打った。そのあとの知能検査で、数値が下がった。心底、悩んだそうです。頭が悪くなったのではないかと、将来金持ちにもなれない、掃除人になるしかないかと。
アメリカ人の11歳の優等生は、すでにそんなことを考えています。嫌なものです。でもそれが、アメリカです。


話は変わりますが、日本の子どもは、小学生のときから、近隣諸国に日本は悪いことをしてきた、迷惑をかけた。だからお詫びとともに、末永く仲良くしなければいけない、と教えられています。
「三つ子の魂百まで」で、この刷り込みは、その後の日本人の母国への意識と外交感覚とを、ずーと支配してきました。

チャイナが核ミサイルの照準を、ぴったり日本へ合わせている。北朝鮮もそうしている。だったら、日本も対抗措置をとるべきであるのに、その発想がない。
長年、チャイナに日本国民の血税をくれてやっているのに、それをやる方も、受け取る中国人の方も、当然だと考えています。
 
日本の安全保障を侵害するような問題が起こる度に、平和の平和の大合唱です。千代紙で鶴を折ったり、あるいは、ディズニーの「世界は一つ」なんてアニメソングを声を揃えて歌わせている。

「お目出度い」を通り越して、間抜けです。

あれもこれも、「ご立派」な学校教育の成果でしょうか。
日本の教育を、小学校から大学まで、根元から、変えなければ、ますます「お目出度い大人」が、今後も、拡大再生産されるでしょう。
日本国土が、チャイナかロシアか、その他の国によって、蹂躙され、他国の奴隷であることが、誰の目にも明らかになる状況まで、続くことでしょう。

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以上のような話が、以前は、たまに聞くことができた。
しかし、平成30年春現在、場末の居酒屋ですら、聞くことができなくなった。
その代わり、相撲取りがどうしただの、雪の中で飛んだり滑ったりだのの話が、専らである。