ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

長すぎる学校生活。授業の押し売りは、のっぺりと従順な国民の量産に最適だろうか。

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体育や美術などの実技系の授業によくみられることだが、実際に子供が活動することが授業の眼目であるはずなのに、なかなか子供の動きがみられない。子供を動かさない、子供の動きを封じてしまっている授業がよくある。
指導者が、授業の体裁を取り繕うために、だらだらと説明過剰になるからである。

研究授業で、体育館に子供を集めて、開始早々、延々と話をする。何を言うかと思えば、心構えだの集まり方が悪いだの、こちらの方を向いて話を聞けだの、小言のオンパレードである。
横に、跳び箱を用意をしているのに、「さあ、今日は何の勉強かな、そうです、跳び箱です」なんて、やっている。子供はうんざりして下を向いている。
開始のベルから、15分後、今度は準備体操ときた。あんなものは、授業開始前に、係の子供にやらせておけ。特に必要なら、部位を指定して筋肉をほぐし、体幹を整えてやればいい。
さて、次には、模範演技、実技を入るといった例の流れになる。
いったいこれのどこが研究に値するものだか、さっぱりわからない。

小中学校の体育科研究授業と称するものは、ほとんど時間の無駄である。研究授業は、練習方法や心構えの披露の場ではない。
体育の授業として、どんな指導が子供の実態の改善及び向上に役立つかの、実験的な試みの発表の場でなければならない。
とおりっぺんどころか、無駄な説教と時間潰しとで、子供の体育嫌いを増やすものになっているのは、教員らが、「教科体育」の把握ができていないからである。
それならそれでもよい。
せめて時間いっぱい燃焼させるような工夫が必要で、子供が楽しく活動し、気持ちも身体も満足感を持って、その時間を過ごすことができたなら、まあ成功した授業であると言える。
どうも、そのあたりが見えていない。
指導者にも、そのまた先輩教員、指導主事、大学学部教員らにも、見えていないのである。子供の満足よりも、自分の見栄と思い込みとで、「なにものか」であるかのように見せたい。「えにすいんぐ」ではなく「さむすいんぐ」だと言いたいのだろう。
小賢しい心配は無用だ。体育は体育である。以上でも以下でもない。
素直に「体育の授業」をすればいいことである。

以前、某有名私立高校の美術の授業で、指導教員は、研究室で自分の絵を描き、生徒らは隣の実習室で課題の絵を描いていたことを、話した。あれは最悪の「授業」であるが、しかし、無理に方向付けをして、子供の活動を縛らなかっただけ、まだましかもしれない。

子供の活動を、どの程度、方向付けをするかは、教科によって、扱う学習内容によって、変わる。
いい歳をした大学院生でも、これをやれ、と頭ごなしに指導者から言われることもある。
結局は、指導者の当該教科の構造把握に尽きる。

要は、ちゃんと時間と金を費やしただけの授業をやれということで、学校に通ってくる子供の人生を無駄にしてはならない。
幼稚園から大学院等までの学校教育は、所与のように思う人もあるが、そもそも当然ではない。かなり歪なことである。
義務教育として国家が定めた学習期間を過ぎたら、さっさと個人の判断にゆだねるべきである。
国家は自己保存を求めるから、それに適した社会構造があり、その方向に沿って、国民を誘導する。
不自然に長い教育期間があるのは、労働人口の制限や学校施設に働く人の既得権を守るためでもある。
しかし、人口統計を見れば、将来が推測できる。最悪の事態を避けるための方策が明らかであるのに、それをしないのは、やはり今のわが身が、我が身だけが、可愛いからである。
「おもてなし」などと騒いで、今を楽しむことができさえすればいいのだろう。

いつまで純情かつ従順な国民を、操作し続けることができるだろうか。
意味不明の授業と長期間の学校教育とが、それを後押ししていることは間違いないと思われる。