ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

大学の授業参観。すべての授業を、一般公開せよ。無能大学教員の駆逐。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

かつて読んだものの中に、忠臣蔵の刃傷沙汰の若殿を評して、うかうかと齢を経て云々とあった。
年齢は、うかうかと取るものである。それ以外に取りようがない。
また、沖の干潟を見て潮の満を知るのではない、我が足下を見れば、水は、すでにそこに迫っているではないか。年齢は、潮の満ちるがごとし。
まったく「うかうか」と年齢を重ねたものだと思うのである。笑うべく憐れむ可し。

 

さて、熱心に学んで、成績もよく、それなりの学校を出て、人の知る大企業とやらに就職し、そこそこ仕事をし、高給を得て、趣味レジャーともに充実している風の、だれそれの噂を聞く。
いったい、事実なのか、願望なのか、知人より伝え聞いたのである。

 

うかうかと齢をとり、全速力で時間は流れるが、若い頃は、それに気がつかない。未来は永遠だと思い、実際に定年または諦念までは、気の遠くなるような年月である。
しかし、その定刻になってしまうと、時間は速度を増す。
俗に、一日を5歳は時速5キロで歩む、20歳は20キロ、50歳は50キロで走る。速度が年齢に比例するという。やがて、一年の四季が、まるごと一日のうちに、終わるようになる。
人によるので、あろうけれども。

 

人によるといえば、子供のノートである。
ノート指導は徹底しなければならない。だからといって、小中学生の全員が同じようなノートを作れるかと言えば、そんなことはない。
むしろ、高校や大学の方が、似たり寄ったりのノートになる。
かつて某大学には、ノートをとらせることが何より楽しみな教員が多かった。教室の全員が同じ内容になるように仕向ける。小学1年生の入学当初は、そんな訓練も必要だが、二十歳の連中がこれでは困るのである。
板書をそのままノートに筆記させる。それ以外は許さない。コピーなり本の紹介で済ませればいいものを、ただただ筆記させるのである。大学教員の本領発揮、つまり手抜きである。
しかし、板書という行為すら、今の大学では稀になった。ひたすら、おしゃべりの時間つぶしに明け暮れる。恐るべきことである。

大学の授業は、外部の批判にさらされない。とってつけたようなファカルティディベロップメントとやらも、ブームが去った今、単語すら聞くこともない。例によって、あれも、超短期の流行語だった。大学教員が、自らの授業を、批判され検討し改善し反省する、なんてことはあり得ないのである。

学生に、授業評価をさせたところで、そもそも、批判する基準すらないのである。項目チェックも都合よくできている。子供にも、授業批評の目が育っていない。そもそも、最初から、ない。


ところで、大学図書館は、近年、落ち着いて学習する子供が増えてきた。
理由は簡単で、地域に開放したからである。登録すれば、誰でもが利用できるような大学図書館が増えた。
するとどうなるか、地域の目が図書館内部に届く。それどころか、キャンパスを常時、地域住民に監視されているようなものだから、大学運営が緊張する。


構内の食堂売店等を、地域に開放している大学は多い。登録制であっても、図書館利用可能な大学はまだ少ない。都内では数えるほどである。

普段の授業が、参観可能な大学は皆無である。申し訳程度に、年に数回の公開講座を開くこともあるが、事前申込制で、しかも、抽選では、利用者が限られる。数百の科目の中で、二つか三つ、それも年に数回で、大学教員の授業が向上するわけがない。
生涯、自分の授業を、学生以外の他人に見せることもなく、したがって、注意を受けることもなく、だらだらと自分流に我儘勝手な、無駄口を叩いて、口に糊するのが、大学教員である。

公開授業参観がなければ、教員の技量は決して上がりはしない。
大学こそが、公開授業参観を定期的に開くべきである。

というより、大学の授業は、全科目の全時間を、無料で公開することが望ましい。
それしか、大部分の無能大学教員を淘汰する方法が、ないのではないか。