ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

私立名門高校に実益はあるのか。高い月謝を払う自分が大好き。制服も素敵よね。

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私立高校は、地域にもよるが、普通は、通学に時間がかかる。

多少遠くても、その学校に行きたくて受験して、首尾よく入ったのだから、子供は無理をしてでも通うのである。お疲れ様。

その点、公立高校は、区域ごとに学校を建てるのが建前だから、各地に満遍なくある。
とはいえ、学校の程度(教員、子供、授業の進度や深度、入学難易度、施設整備他)は、様々なので、一つとして同じ公立校はない。
しかし、大体の傾向がある。

公立では、生徒のレベルに連動して授業内容を変えるので、公立学校間で階層が生まれる。高い偏差値は自慢である。進学校のレッテルを欲しがる。有名校と呼ばれたいのである。
偏差値の高い公立校に行こうとすれば、偶然近くにそれがなければ、私学と同じように、長い通学時間を覚悟しなければならない。
ならば、私立高校も同じことで、通学の不便さも仕方がないではないか、と言われそうだが、両者は全然違う。

私立は金がかかる。
教員の質が良くない(ことが多い、と言っておく)。
最初は並か並以上の教員も、すぐに並以下となり、やがて著しく腐っていく。
競争も転勤もなく、生徒も粒ぞろいなので、授業で苦しむことがない。十年一日、下手な授業で事足りる。
同僚も、異動がない。一緒に楽をしているお仲間たちである。
互いの切磋琢磨がないならば、それはプロではない。趣味道楽以下である。
そもそも私立学校教員は素人が多い。教員免許は持ってはいるが、都道府県等の教員採用試験に合格した者ではない。いわば縁故で入った連中である。

それでいい、それが面白い、と、かえって感心する奇特な人もいるかもしれない。大方、同校の卒業生だろう。ついでに言えば、教員のほとんども卒業生であったりする。恥を外部に漏らさないためなのか。
そんな学校に、
喜んで、通っている子やその親にとっては、知らぬが仏である。

公立学校教員の、気合の入った、ぎりぎりまで追い詰められた、熱心にならざるを得ない、厳しい環境での毎日と比べるならば、私立学校の教員は、どう見ても、能天気な毎日で、「教員」としての能力は、二流か三流以下のように思われる。

それにしても、知名度が高い私立学校の、不思議でもあり興味深い点は、通っている子供よりもその親の方が、喜んでいる様が見られることである。私立高の制服を着た我が子を見るだけで、嬉しそうである。
わかりやすくするために、実例をあげてもいいが、なにかと差し障りがあるので、渋谷区や港区にある小中高大一貫の女子校や男子校や共学のそれ、その他も、ひっくるめて言うこととする。

いかにも有名どころの私学は特徴がある。
まず、月謝が高い。
よくもまあ、払うものだと感心するが、なに、親は、高額の月謝を払うことができる自分自身に酔っているのである。

次に、学校が古い。

古ければよいわけでもないが、学校の授業の良し悪しよりも、長く続いた学校であることの方が、ブランド力があるらしい。

制服が格好いい。

中にはへんてこなものもあるが、それすら、「可愛い」と言い出すのだから、ファンはありがたいものである。

我が子を私学に行かせるのは、親のエゴである。
私立学校は、すべからく親のエゴにつけこむことで経営が成り立っている。金銭と引き換えに、臭いプライドを手渡して、親から金を巻き上げる。

福沢が、学校を作ったのは、必ずしも利を得るためではない。立国のためには立志の人材が必要だ。官立に頼っていては間に合わない、と、焦って塾を作ったのである。
これを建学の精神という。当時は、その理由が、まあ通用した。

しかし現在ではどうだろう。私学の存在意義は何か。
おいしいビジネスなのか。夕暮れ産業のあがきだろうか。まだ需要があるのか。


あるのである。
親のエゴには、甘酸っぱいロマンのごときものがあるのである。わざわざ私学に通わせていることの「差別化」という意識は、微妙に満足させてくれる菓子なのだろう。

合掌。