教育批評は、授業批評でもある。
多くの授業を見てきた。
授業後の検討会等で、色々と気付きを述べた。
いつどこで、何を言ったのか、ほとんど覚えていない。
メモの類も散逸した。たまたま残っていた数枚の雑記をもとに、記憶をたどりながら、書いていこう。
不確かなところもあるだろう。
なお、同類の内容を「授業批評」として、何回かに分けて出す。各々の稿が、まとまりをもたないことが多い。短文の羅列で理解しにくいかもしれない。
しかし、授業をする立場(教員)にも、受ける立場(児童生徒学生など。ここでは、すべて『子供』と記す)にも、何かしらのヒントになるとは思う。
授業研究では、実際に授業する教員を、指導者と呼ぶ。
授業するのも、検討・研究する方も教員ばかりだから、紛らわしいのである。学部や院での発表は学生、院生でいいが、あれは本人の発表会である。
児童生徒を相手にして、公開の研究授業をすることは、授業全体が研究対象となる。
指導者と子供との、知的練磨がポイントである。教員が教員たる所以は、教養を含む職業技術に優れているからである。厳しい指摘が、教員の成長になる。
では、始めよう。
発問が難しすぎる。
指導者の発言に対して、繰り返し、説明を求める子供がいた。高学年の場合は、指導者の説明は、できれば一度で済ませたい。板書する方法もある。
音読。本の持ち方に方向性が必要。個々にばらばらにさせないほうがいい。
輪読で、一文ごとに(「。」で)止めて、次に変わるのは、当該学年には、幼すぎる。子供の意識を上げるためなら、ひとつの方法ではあるだろうが、いずれ変えるべき。
指導者の範読があったほうがいい。一斉読みの訓練も、必要だ。
内容を、6場面を分けさせることは、いきなりは無理である。
「6つの場面 を、まとまりごとに 区切る」、この指示言で理解できるのか? まず最初の2~3くらいまでは、一緒にする。やり方を実際に見せることで、理解しにくい子供に効果がある。
段落の定義をはっきりさせていない。確認が必要。
子供がばらばらと発言することを、どうコントロールするのか。子供の説明を指導者が簡潔に繰り返したことは、良。逆説の接続詞での文章の切り方の指導が必要。
「今のみんなの話を聞いて、どう思つた」これも良い。一度、投げ返すと、そこに余裕が生まれる。 そこで変わるのではなくて、次に変わるというメッセージ。「どう」という発問は、問題を含んでいるが、今日は触れないでおく。
「3」のパラグラフを理解させることが大切。段落の区切り方、子供が分けたら、その理由を聞くこともよい。五と六とは場面がまったく変わっている・・特に時間の変化。
子供の「うけねらい」の発言を、どの程度許し、抑えるかは微妙な問題だ。頭から否定はできないし、かといって、放任ではいけない。難しいことだが、指導者の発言が始まると、すぐに黙って聞くという習慣を身につけさせたい(他の子供の発言時も)。
簡単な見出し・・・見出しの定義を、子供は理解しているのか。見出しのつけ方についても、例示することが必要だ。
作業の指示言の明確化。段落の確認。やや子供がばらばらに発言しすぎ。
授業終わりの時間には、すぐに終わること。休憩との分かれ目の明確化。メリハリをつける。