ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

音読を忘れた学校。音読指導は学習の基本であり、教員の必要条件だ。

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近頃、小学校現場で、音読をさせることが少ない。というより、皆無である。
これは、音読で育った世代が、現役学校教員として、完全に死に絶えたからである。
もはや朗々と子供が本を読む声が、学校の教室の窓から聞こえることはなくなった。今後もないだろう。

教育の基礎は、簡単に言えば、計算と漢字の読み書き、及び音読である。この三つができていないとすれば、学校教育の、特に義務教育である小中学校の存在価値はない。

 

かつて、学級の学習状態を知るには、子供に音読をさせれば、よかった。
どの子も、程よい声ではきはきと上手に音読する学級は、授業が落ち着いていて、子供の知的意欲、理解力などが充満している感があった。教員も子供も、授業に集中し、日々成長を感じることができたのである。
音読の下手な子ばかりの教室は、教員が駄目であることが多かった。子供も荒れていた。
音読は、教育活動すべてのバロメーターであった。

ここまで言っても、わからない輩はわからない。わかりたくない。音読の重要さを、身をもって知らない連中は、教育を語る資格がない。
ということは、語る資格のある人も、いなくなったということである。

と、極端な話をしても、益がないかもしれないが、音読を鍛えることが、あなたの学級をよりよくするための第一歩であることを伝えておく。

音読の訓練は、簡単である。子供に実際に読ませればいい。教員が、子供の音読のまずさをいちいち指摘し、範読し、繰り返させればいい。これはどんな学級でも、担任なら、一週間で指導できる。中学校国語科の授業でも、1学級に3時間あればできる。そこで習った、上手に音読する能力は、子供の一生の宝となる。音読は、子供にとって有益かつ唯一無二の学習なのである。
これしきも気づかないで、何が教員だろう。何を教えるというのだろう。

とはいえ、学校はあるが、教員はいない。国会議事堂はあるが、政治家を探そうとすると、難儀であるのと同じである。

 
音読指導は、指導する教員に教養がなければ、どうにもならない。
教員が、読書家で、知識量が豊富で、文章の読み書きが得意で、音読が上手で、芸術的な感性があり、俳句短歌落語の類もたしなみ、楽器ができて、音楽を聴くのが好きで、ついでに絵も描き、展覧会の常連で、本物の芸術作品を長年鑑賞しており、鳥獣草木に詳しく、世界を旅し、仏典も読み、得度し、修行し、云々。とまでは、いくらなんでも、無理な相談である。

音読の指導は、ある程度の指導力を持っている教員なら、できる。

音読指導すらできない教員は、職を辞したほうが日本のためのみならず、ご本人のためにも、幸せというものだろう。
現実は、そういうわけにいかないので、不幸せな人々が、満ち溢れているのである。合掌である。お布施である。祈るのである。

ここでも、結局、人が生きることは、運であることがわかる。
学校で、「教員」に出会えるかどうかは、子供の運である。親の福である。
再び、合掌せざるを得ない。

 

ついでに言っておくが、高校からでも遅くはないぞ。

 

 

 

 

筑駒文化祭。褒めて育てる。楽しい見世物、童形と時分の花。

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子供は褒めて伸ばすという。人は誰でも、褒められたい存在だから、まして素直な子供のころは、褒められたくて仕方がない。

安直な誉め言葉は、子供とはいえ、相手に見透かされる。
しかし、褒められた当人からしたら、見透かしても、やはり褒められたのだから、何割かは嬉しい。
褒めることは、褒める側にも、褒められた側にも、プラスに働く。みんなハッピーである。

たとえば、物事の批評は、褒めることが第一で、けなす必要はない。けなすより無視すればいい。無視が一番強烈な否定であって、わざわざ、まな板に置くまでもない。

誉め言葉は、とりわけ教育現場では大切で、ほとんどこの一手しかないくらいである。否定的な言動は厳に慎まなければならない。


先日、筑駒中高の文化祭について述べたが、褒めることを忘れていたので、少しく付け足す。

去年、演劇は、既成の原作を使って演じるよりは、むしろ子供自身で自由に脚本を書き、演出して、仕上げたほうがいいし、できるはずだと書いた。
在校生がそれを読んだかどうかは知らないが、今回の文化祭では、演劇系はほぼ自作のようだった。
ようだった、というのは、すべて見たわけではないし、スタッフに確認したわけでもないからだ。

結局、3本見たのだが、その中で、3CHRの「50RT」について言う。

風刺っぽい、ありがちな内容だが、うまくまとめていた。
特筆すべきは、鈴木秘書役で、演技なのか素なのか、わからないほど、キャラの面白さがにじみ出た。陽菜役も自然な演技でよろしい。他の演技者も、ほどよい抜け感と、手作り感があった。この分では、来年も来るか、と期待させる。

ところで、筑駒文化祭に先立って、某進学女子中高の文化祭に行ったのだが、中学演劇部と高校演劇部との格差にがっかりしたのだ。
圧倒的に中学生がいい。
理由を考えるに、男女問わず中学生は 、世阿弥流に言えば、時分の花が盛りである。童形が残っているので、何をしても可愛らしい、幽玄である。
一方、高校生、特に女子高生はもはや大人である。しかし、20歳過ぎの女性の落ち着きというか、安定はない。しかも演技力は子供並みである。外見と実力とのギャップが大きすぎる。
高校生と違って、中学生は、なんといっても姿がいい。そこそこの演技で、形になる。


映画演劇絵画彫刻、その他諸々は、人に見せるのである。つまりは「芸術」は見世物である。見世物には花がなくてはならない。その花は、素人の場合、外見に尽きる。


さて、話を戻すと、進学率が高いだの、三大行事だのと、身内または贔屓がどんなに騒いでも、結局、見世物である。見に来ていただいた人々に、楽しんでもらわなければ、何にもならない。
子供たちが文化祭に取り組むことによって、成長したという。それはそうだろうが、来訪者あっての、達成感である。多くの参観者がなければ、学校行事としても失敗なのである。

この辺りを、よく考えて、他の行事とは、違う意識を持たなければならない。
人を楽しませることが、どんなに難しいかわかるだろう。落語家は自分では笑わない。
筑駒文化祭は知名度がある。学校も子供たちも、PRに余念がない。大きく露出するのなら、それに見合った内容を示さなければならない。

とはいえ、ご想像の通り、出来栄えはともかく、中高の文化祭は面白いものである。

 

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キャラの立つ布陣。

 

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豪華なパンフレット

 

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熱演。

 

 

 

若い女性教員の悲哀。低学年は女性、高学年は男性の担任がいい。

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某人、つくづく述べたことには。

ーーーーー
女性教員だから、男性教員だからと、云々すると、性差別だとジェンダー論者から叱られそうである。
しかしながら、夏は暑く、梅雨時には雨が降るというように、至極当然の話をしたい。
もちろん、大体においての雑駁な話なので、例外は常にある。

小中学校での女性教員は厳しい立場だ。誰にとって厳しいかといえば、教員自身のほかに、肝心の子供や保護者にとっても、厳しいのである。辛いのである、苦しいのである。

子供の学校生活は、担任教員と密接な関係を持つ。
中学校では教科担任制だから、一人の生徒に多くの教員が関わるので、幸運なことに、担任の影響は、弱まる。
小学校は学級担任制で、ほとんどの教科を一人の教員が教えるから、担任の影響が大きい。大きすぎる。

担任教員が女性、特に若い女性だと、どんな変化が子供に出てくるだろうか。
落ち着かない、不安定、怠惰、退学、喧噪、不熱心、指示が通らない、子供自身が授業を心底楽しんでいないような感じがある。

これらは、以前からも、今も、指摘されている。特に高学年の5年生6年生に顕著である。

これは、表立っては言えないし、言っても詮無いことなので、タブーである。しかし、子供や親の落胆は隠せない。その反射として、教員自身が不安を感じて悩んで、ますます泥沼に入ることがある。

男性教員と女性教員との違いをどのように縮めるか、または逆転するか。性差を、感情豊かな指導上の利点として、子供に好影響を与えるには、どうすればいいのか。

教員個人の資質や努力や、または職業的慣れで解決するしかない。と答えるのも、一つではある。

男性教員にも色々ある。安定した若い女性教員のクラスもあれば、不安定な男性教員のクラスもある。
問題は、教員の個性や教授技術以外にもある。
どうも、難しい。人と人とのつながりには、相性がある。

であるのに関わらず、表向き平穏無事に過ぎているかのような学校生活は、結局のところ、子供自身の可塑性が大きく、子供が「観念」をしたことによって、担保されている。
担任の授業を毎時間、強制的に受けなければならない。常に不平不満を抱えていては、子供当人が持たない。子供は伸びようとする若芽、または雑草のようなものだから、環境の不具合不公平を、自分の頭から取り去ろうとする。または自然と乗り越える。
それはそれで生き物の知恵だが、いずれ、どこかに破綻が出る。

俯瞰して観察すると、破綻は歴然である。しかし、これは何度も言うようだが、タブーである。

小学校低学年の1年生2年生は女性がいい。特に問題行動をとる子供の多い、新入学1年生の学級を、ベテランの女性教員が担任すると、あら不思議、いい子ちゃんばかりになる。
家庭で味わえない母性愛が充足されるからか、その他の理由があるのかは、ケースによる。

一方、小学校高学年5年生6年生は男性がいい。若くてもベテランでも、それは教員の実力による。ともかく、男性教員の担任学級が、子供たちは安定する。逆に若い女性教員が高学年を担任すると、不安定なことが多い。
以上は体験的な事実を言っている。

学年の子供の半分は女性である。だから女性教員が必要というのは、現代のジェンダー感覚からしたら妙なことである。
男性ばかりの学年団で、一向にかまわない。現に、低学年の学年団は多く女性ばかりではないか。だったら、高学年は男性教員ばかりでいいのである。

ーーーーー

と、以上のような話である。
さて、女性だろうが男性だろうが、教員の実力と、直接の関係がない。教員の精神的安定感と教養と授業技量が問題なのだ。
そのどれが欠けても、不安定になる。

不安定になりやすいのは、いったいどのような要因か。性、年齢、のみならず、多くの偶然と要因とが左右する。やはり、人それぞれと言うしかない。

運である。

 

 

 

教員の「面当て自殺」、マスコミ人のペルソナのごとき。

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ある人が言うには。

 

同期生が、大臣として入閣した。そんなことが何度か続いた。
「あんなやつが」と吐き捨てるように、君は言うけれども、まあ、そんなに怒るな。
かつての高校の級友は、今の本人ではない。
環境が人間を作る。弱い精神にとって、これは事実であるし、ほとんどの人は、弱い。

誰にでも、歩いてきた道がある。だとしたら、嫌な奴だった男にも、入閣に至るまでの、それなりの毎日があったのだろう。少しは認めてやれ。環境に染まった、または、うまく泳いだのである。

 

教員もまた、環境に影響されやすい。
中でも、専門教科に逃げ込むことができない小学校教員は、まるで根無し草のように、その場その場で、頼りなく浮き沈みする。熟成が難しく、常に不安を抱えているように見える。

毎日、未熟な子供と親と同僚とに囲まれて、超特急の授業と雑務に追い立てられて、冷や汗の毎日を過ごす。
これで人間が、いじけて悪くならなければ、精神の強い人である。
しかし、相応に強い人物は、そもそも教員なんかしていない。
教員がだんだん元気がなくなっているのも、無理もないことと思われる。

すべての職業人には、特有のペルソナがある。
その表面は、どんどん崩れてきている。

本音の時代なのだろう。
宗教に代表される心の安定装置は、人に充足感を与えるとともに、教理の枠内で行動を命令する。壺に籠っていれば安心安全が手に入ると信じ込ませる。
目先のことだけ見て生活すればすべてよし、の態度である。

自殺した勤め人(教員を含む)をつらつら考えるに、端から見れば、さほどでない出来事が、本人にとっては、大きなダメージだったことが推測できる。
組織体で、本人がよかれと考えてしたことが、結果的に失敗に終わって、(客観的に失敗でなくとも、本人が失敗であると自覚するとき)、その責任を被らされたことが、自殺の契機となっている場合が多い。
自分の判断で行動したときは、失敗しても、自殺することは、少ない。

現実に自殺に至るのは、他人への「面当て自殺」がほとんどである。
面当てとは、まさに憎く思う人の前で、わざと意地悪いことをして困らせることである。あてつけである

「面当て自殺」の多くは、本人の職責や立場上、本人の意志に反するけれども、やむを得ないで、ある行動をして、その結果が不本意なときに、起こりやすいのである。

「自分で自分の行動に責任をとれ」なんて、幼児にも分かる道理である。食べ過ぎたら腹が痛む。自分の判断による失敗は、自殺をするほど悩まない。
人間は、もともと図々しい存在である。

ところが、他人の判断によって、自分の行動を左右された場合は、一時は我慢していても、ついには内なる自分が、爆発する。
その爆発を、自殺という形で出すことが、一番、周りの人々や世間にインパクトがある。それを本人は知っているからこそ、自殺するのである。
校長が、学校内で自殺するなどはその典型で、児童生徒や教職員のことなんか、全然かまっていない。自殺する場所は他にあるはずであろうに。つまり、彼らが憎かったということである。

だが、学校教員が学校内で自殺することは、やはり許されてはならないことである。
なぜ、教育委員会事務所ではだめなのか。文科省内の便所では? 都庁や県庁市役所の玄関では? 自宅では? 裏山では? 繁華街の路上では?
だが、答えは出ている。

学校も、一企業、一施設である。切羽詰まると、何でもありである。
そのことを、誰でもが、すでに知っているのかもしれない。
時間が、様々な事柄を、結局は水のように流してしまうことを、成長途上の子供は自然に理解している。それが生き物の知恵なのだろう。

 

 

筑駒のミスコンは、終わりか。筑駒文化祭。生煮えのカレーと驕り。

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縁あって今年も筑波大学付属駒場中・高等学校の文化祭を覗いてみた。
去年、少し甘すぎたので、今年は辛口で書く。

 

パンフ「暁」は、去年度に比べて、わかりやすくするために整理した痕跡はあるが、しかし、まだ身内向けすぎて、新しい訪問者には不親切だ。気取ってフォントを小さくしても無駄。判読しにくいだけである。

 

高3食品班に言っておく。
あの程度の味で、人様に召し上がって頂こう、まして金銭を受け取ろうなんて、傲慢を通り越して、非常識である。
カレーのごときは、ご飯を焦がしたとかで、提供が遅れた上に、ようやく出てきたコレがもう、悲惨の一言である。水っぽい黄色のゲル状に生煮えのジャガイモ他野菜らしきものが浮かんでいる。コメはもちろんまずい。

 

以下、見た中ではという限定付きで。

ジャグリング。
演技を、2回通して見た上での感想だ。腕が落ちているぞ。やリ直しが過ぎる。もう一回挑戦、に甘えた感あり。練習じゃないんだ、文化祭本番だ、一発で決めるべき。

 

演劇。

練習不足だ。完成度の低さが隠せない。どうせ中高生である。それほどのものを求めてはいない。熱心に演じる子供を、大人は、微笑ましく見るのである。しかし、モノには限度というものがある。
去年よりも、水準がかなり落ちた。原因は知らぬが、関係者は猛省せよ。

 

ミス筑駒 
目玉だとされているが、今後、凋落するだろうことを予感させた。
こういうエンタメは出演者の資質がすべてである、ある水準以上でなくては、どうにもならない。
ここ数年のネット上の「ミス筑駒」人気に、よりかかりすぎである。出演者の美人度や可愛さが売りなのだから、レベル以上の女装男子、男の娘であることが必要だろう。それでようやく、寸劇等受け答えの所動作に、笑いと時分の花的エロスとが加わるのである。
男性が女装するだけなら、企業の忘年会ならともかくも、中高校文化祭のイベントには、不足である。

出演者も実行委員も、落ち着いて、大きな鏡を前に、小一時間、反省せよ。
所詮見世物なのだから、筑駒生ブランドで、ごまかすのは無理がある。外見が水準を越さなければ、「きついなあ」という正直な声が諸所から出るようになる。

 

褒めるべきは地理科の展示、「私たちの身のまわりの環境地図作品展」である。じっくりと全作品を見て、楽しむことができた。今回の筑駒中高文祭では最高の出来だった。
しかしこの展示作品は、北海道から借りてきたものである。一番の展示が借り物であるということを指摘しておきたい。

 

総じて、やっつけ仕事感のある文化祭だった。一生懸命であったろう子供たちには酷な評かもしれないが、それが世間だ。いつまでも甘えさせてくれるわけがない。

とはいえ、中学生や高校生が、文化祭に取り組むことは、非常に望ましい。いっそう頑張ってほしいと思う。

 

さて、テント下のテーブルで、まずいカレーを飲み込んでいると、そばで小学校低学年をもつ数人の母親たちが話をしている。塾や勉強の話がもっぱらだが、受験の3年前から、こうして文化祭に足を運んで、我が子の入学に夢をはせるのである。またもや、涙である。

 

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環境地図作品展から

 

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ミス筑駒

 

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テントでまずいカレーを食す

 

中学生、同級生を撲殺して川へ突っ込む。加害者と被害者の逆転

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もう大方はお忘れだろうが、いじめられていた中学生が、自分をいじめた中学生を撲殺した上に、川の中に叩き込んだという事件があった。
完全に絶命しているのにもかかわらず、石を何度も頭に振り下ろし、顔を下にして川に突っ込んだ。
よほど相手が怖かったのだろう。生き返ってきたら、また、いじめられる。念には念を、入れた。

普段から、軽い喧嘩をしていないから、こうなる。想像力の欠如である。程度というものが分からない。やりはじめたら、とことんやってしまう。

ところで、一時、流行った、子供にとって都合のよい逃げ口上に、「切れる」というのがあった(キレル、とも書く)。
これを他人が言うのならまだしも、本人が真顔で言うのだから、笑わせる。
「~~なんて、言われたものだから、切れちゃって」などと使う。

馬鹿を言うな。紙の紐ではあるまいに、何が「切れる」だ。
自分には妙に甘えるくせに、自己の行動が他人へどういう効果を及ぼすかについての斟酌が、まるでない。想像力の欠如である。

かくなる原因のひとつは、テレビやゲームにある。

なぜそうなのか、すぐに思い浮かばないのなら、それもまた、想像力の欠如だと言えば、貴殿は怒るだろうか。

日本人は、子供を本来的に善とみている。
子供は可愛い、無邪気である、天真爛漫とまではいかないが、ともかく、邪悪な存在とは思わない。そして実際に、ほとんどの場合、子供は善意なのであろう。

学校教員は、子供を純真な天使と思いたがる。
教員が、子供に悪意を持って接することは、まずあり得ない。万が一、あったとしても、ごくごく例外である。
ならば、善と善とが邂逅したのである。まことにめでたい。

しかし、現実は、そう簡単ではない。

問題行動を起こす子供が、学級に一人や二人いても、それは構わない。子供が複数集まれば、様々な子がいる。当然である。
だが、問題行動の量と質によって、危険な結果になってしまう。
非常な暴力で、同級の子供に物理的心理的な損害を与える場合は、一年に一度のことだからといって、看過できない。
危険な行為が一月に一度、毎週、毎日、毎時間であるとすれば、どうするのだろうか。

子供には可塑性があるからとか、指導によって今後を見守ろうとかでは、全然間に合わない。
問題行動をとる子供には、他の子供の安全のために、即刻、対処しなければならない。
学校職員だけではなく、児童相談所、学校カウンセラー、地域の大人等と連携して、当該児童生徒学生を停学等となし、学級に近づけてはならない。

教員は、学級の全員に責任を持つ。
安全で円滑な教育活動を著しく妨げる要因は、厳しく排除しなければならない。それが、学級担当、教科担当を預かる者の権利であり、責務でもある。

以上の点が、日本の学校教育、特に義務教育期である小中学校では曖昧である。事態を冷静かつ的確に判断することを、避けている。
教員の指導力や地域の教育力や子供の家庭環境等に、原因の大半を押し付ける。問題行動をとる子供は、むしろ被害者なのだから、我々大人が、子供の気持ちを理解し味方になって、見守るべきだ、という結論になりやすい。

子供の暴力行為を性善説で割り切って、当人の性格や成育歴や家族の要因を、見て見ぬ振りをする。
簡単に言えば、親と家庭環境とを、無視し続ける。
悪いのは学校であり、教員であり、学級の子供たちだ、ということにする。
いつの間にか、加害者が被害者となって、問題行動の常習犯は、無垢な天使になってしまっている。
問題をややこしくする前に、綺麗ごとを優先して、頭を先に下げた方が無難だという、教育関係者の大好きな「保身ごっこ」の出番である。