ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

教員の「面当て自殺」、マスコミ人のペルソナのごとき。

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ある人が言うには。

 

同期生が、大臣として入閣した。そんなことが何度か続いた。
「あんなやつが」と吐き捨てるように、君は言うけれども、まあ、そんなに怒るな。
かつての高校の級友は、今の本人ではない。
環境が人間を作る。弱い精神にとって、これは事実であるし、ほとんどの人は、弱い。

誰にでも、歩いてきた道がある。だとしたら、嫌な奴だった男にも、入閣に至るまでの、それなりの毎日があったのだろう。少しは認めてやれ。環境に染まった、または、うまく泳いだのである。

 

教員もまた、環境に影響されやすい。
中でも、専門教科に逃げ込むことができない小学校教員は、まるで根無し草のように、その場その場で、頼りなく浮き沈みする。熟成が難しく、常に不安を抱えているように見える。

毎日、未熟な子供と親と同僚とに囲まれて、超特急の授業と雑務に追い立てられて、冷や汗の毎日を過ごす。
これで人間が、いじけて悪くならなければ、精神の強い人である。
しかし、相応に強い人物は、そもそも教員なんかしていない。
教員がだんだん元気がなくなっているのも、無理もないことと思われる。

すべての職業人には、特有のペルソナがある。
その表面は、どんどん崩れてきている。

本音の時代なのだろう。
宗教に代表される心の安定装置は、人に充足感を与えるとともに、教理の枠内で行動を命令する。壺に籠っていれば安心安全が手に入ると信じ込ませる。
目先のことだけ見て生活すればすべてよし、の態度である。

自殺した勤め人(教員を含む)をつらつら考えるに、端から見れば、さほどでない出来事が、本人にとっては、大きなダメージだったことが推測できる。
組織体で、本人がよかれと考えてしたことが、結果的に失敗に終わって、(客観的に失敗でなくとも、本人が失敗であると自覚するとき)、その責任を被らされたことが、自殺の契機となっている場合が多い。
自分の判断で行動したときは、失敗しても、自殺することは、少ない。

現実に自殺に至るのは、他人への「面当て自殺」がほとんどである。
面当てとは、まさに憎く思う人の前で、わざと意地悪いことをして困らせることである。あてつけである

「面当て自殺」の多くは、本人の職責や立場上、本人の意志に反するけれども、やむを得ないで、ある行動をして、その結果が不本意なときに、起こりやすいのである。

「自分で自分の行動に責任をとれ」なんて、幼児にも分かる道理である。食べ過ぎたら腹が痛む。自分の判断による失敗は、自殺をするほど悩まない。
人間は、もともと図々しい存在である。

ところが、他人の判断によって、自分の行動を左右された場合は、一時は我慢していても、ついには内なる自分が、爆発する。
その爆発を、自殺という形で出すことが、一番、周りの人々や世間にインパクトがある。それを本人は知っているからこそ、自殺するのである。
校長が、学校内で自殺するなどはその典型で、児童生徒や教職員のことなんか、全然かまっていない。自殺する場所は他にあるはずであろうに。つまり、彼らが憎かったということである。

だが、学校教員が学校内で自殺することは、やはり許されてはならないことである。
なぜ、教育委員会事務所ではだめなのか。文科省内の便所では? 都庁や県庁市役所の玄関では? 自宅では? 裏山では? 繁華街の路上では?
だが、答えは出ている。

学校も、一企業、一施設である。切羽詰まると、何でもありである。
そのことを、誰でもが、すでに知っているのかもしれない。
時間が、様々な事柄を、結局は水のように流してしまうことを、成長途上の子供は自然に理解している。それが生き物の知恵なのだろう。