ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

いじめ男子を排除する。甘い顔でおもてなし、大概にしておけ。

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学校の問題は数あるが、いじめは大きな問題である、とされている。

他人からうけた行為を、いじめと感じ、それにめげてしまうか、避けて通れない経験と観念して受け流すか、対峙して対抗策をとるのか、等々の対応は、人それぞれである。もっとも、子どもの場合は、時々刻々変化する。いじめの行為者と被行為者との立場の転換も起こるだろう。

いじめを、悪と決めつけて、糾弾し、なくそうとするのならば、まず、いじめの概念を明らかにしなければならない。一種の罪刑法定主義である。いじめを撲滅しようとしても、いじめの概念が明確でなければ、そもそも無理である。

ある行為が、相手によっていじめととらえられり、逆に友情の発露ととらえられたりするのは、行為の内面に立ち入るという過ちを侵しているからで、当該行為の外形のみを、問えばいいのである。
簡単に言えば、道交法に言うところの速度制限違反であって、急いでいようと、スピード狂であろうと、アクセルを無意識に踏みすぎたのであろうと、速度域を超えていたらスピード違反になる。

いじめ問題を難しくしているのは、いじめの認識が確立されていないからである。
まず、実証的に、どういう行為がいじめなのか、いじめの定型を決めなければならない。
刑法流に言えば、いじめの構成要件を記述しなければならない。

手近な国語辞典(1987年版)では「いじめ」の項目はなく、「いじめる」がある。「1 弱い立場にある者にわざと苦痛を与えて、快感を味わう。2 限度を越えて、乱暴に物を扱う」とある。
これでは特定できない。
弱い立場とは何か。わざと、は故意の証明である。どのような行為が、相手に苦痛を与えることになるのだろうか。
その行為が相手に苦痛を与えていなくても、いじめの行為の定型に合致し、違法性と有責性とを備えていれば、いじめと認定すればいい。

とはいっても、どうも釈然としない。
これは結局、いじめは子どもたちの日常の挨拶のようなもので、法的裁定にそぐわない、と先人が考えたからではないか。

いじめは、嫌なものである。不快である。しかし、人の心に潜むいじめようとする感情は、以前もあったし、今もあるし、これからもあることだろう。

いじめを心理学的に説明したり、社会現象としてとらえたり、小難しく考えても無駄である。
プーチンですら、ある時、アメリカを長とする連合側からいじめられた。プーチンは全然めげずに、背中に核爆弾を背負って対抗した。びっくりして、アメリカ連合側は急に元気がなくなった。
大国間でもいじめ、いじめられるは、日常茶飯で、ロシアもアメリカも、大国として、小国をいじめていることも、大同小異である。

学校の、いじめを許すな、のかけ声は、ごもっともであるけれども、しかし、いじめは人の哀しい本性のようなもので、永遠になくすことはできない。
なくしたとしたら、外形だけで、だから外形が当てはまればいじめと断定し、法的措置を執ればいいのである。

都会の混んでいる電車内では、男性の立ち席の客は、痴漢呼ばわりされるのを恐れて、みんな両手を胸より高いところへ出している。まるで西部劇のフリーズである。
直立してズボンに手を突っ込んでいたり、鞄をだらりと下げて持っていたりしたら、周りの女性客から、いつ何時触られただの、痴漢だのと、叫ばれかねないのである。大声をあげられた時点でアウトであって、冤罪のパレードとなる。

ならば、いじめも、似たようなものである。いじめられた、傷ついた、もう学校に行きたくない、死んでやる等々、何を言い出すやらわかったものではない。
だから、いじめの定型を作れ。該当すればすべていじめ、該当しなければ、それは妄想である、と明快にすればいい。

 

教員の実力と中学生の学力低下。某中学校の授業参観。

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この中学校は、どこでもいい。たとえば、あなたの住んでいる近くの中学校を想像してみればいい。

中学生(男子)と高校生(女子)の子を持つ親から聞いた話である。


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どの中学校も、中学生という難しい時期の子供を扱うわけですから、学年団もそれなりに問題を抱えています。特に今年の中学2年生は学校での生活、学習ともに非常に乱れている状態だと聞きました。

この中学校では、生徒が教員に暴言を吐いたり、休憩時間中、更衣室で菓子を食べたり 、チャイムの無視や暴言奇声はもちろんこと、授業に全然集中できない状態であると聞きます。生徒間のいじめや暴力行為も頻繁にあるということでした。授業が、生徒の学力保証になるどころか、単なる遊び時間の延長のまたは、もっとひどい暴力の場になっているようです。

先生方も苦労なさっているようですが、一部の生徒に過度に遠慮されているのか、強い指導が為されていないように思います。もちろん、授業が不成立なような状況に至るまでには、一部の問題的行動をとる生徒を放置したり、あるいはその指導が足りなかったということがあったかもしれません。

また、中学入学までの 前段階として、同じ校区内の小学校高学年での学習指導や学校規律が、きちんとなされていたのかどうかにも、関係があると思われます。

勉強をしたいと考えている生徒にとって、普通に勉強できるような場所にするために、教員も行政も保護者も、何らかの行動をしなければならないと思います。

近年の中学校における学力の低下は目を覆うばかりのものがあります。
学校側でも生徒の荒れに対処するに精一杯で、学力の向上に手が回らない状態のようです。これでは、今後の社会状況の変化に対応する知性的で創造力あふれる人間を育てることは、とうてい無理な状況のように思われます。従って多くの親は、苦しい経済状況の中でも、なんとか学習塾に通わせて、最低限の学力をつけさせようと必死でございます。

多くの親は、この状態を見越して、小学校段階から、公立中学校への進学を放棄し、なんとか私立の中学へ入れたいと希望する親が多くなってきました。家庭の経済的及び子供の学力という条件をクリアできるならば、私立中学に行かせたいという考えを持つ人が多いのが現状です。

しかしながら、現実には、受け入れの生徒数の問題があり、小学校卒業生の7割程度は公立中学校に通うこととなります。私立中学は不況にもかかわらず、公立中学に比べて、高い学費が必要ですので、誰にでも門戸が開いているわけではありません。

ですから、公立中学校では今一度、学習指導要領の原則に立ち返って、学力の向上の見える授業を行っていただきたく、授業妨害を行う一部生徒に対しては厳しい対応を願わざるを得ません。実りある毎日の教育活動を進めていただきたいと思います。

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以上の意見はともかくとして。

過日、公立中学校の授業を見る機会があった。中学3年生である。英語、数学、国語の授業を何クラスか参観した。

あいかわらず、中学教員の多くは授業が下手である。
授業の技術は、小学校の教員が一番優れていて、高校教員は素人である。

大学は論外で、大学教員のそれは、授業というよりは、独りよがりのつぶやきにすぎないことが大半である。まことに、おめでたい「職業のようなもの」である。

さて、某中学の授業では、教員は黒板に教科書と同様の図を書きなぐり、ときどき、生徒の方に振り返っては、教科書のページを棒読みする。
生徒を前に出させて、黒板に書かせたり生徒自身が考えた解法を説明させたりすることをしない。どういうわけだろうか。
うまく指導すれば、生徒の発表も可能であるはずなのに。

女性教員によくあるタイプだが、大声を張り上げる。何とか生徒達を授業に入り込ませたい気持ちはわかるが、声を大きくすればするほど、知性はどこかに飛んでいく。むしろ、声は小さいほうがいいのである。

授業構成は、教員が一方的に話しているだけのものがほとんどであった。それも「簡潔にして要領がよく、興味をひいておもしろい」のならば、まだ救いようがあるのだが、だらだらと冗漫で、暗く自信のない様子である。

お決まりのプリントを配り、生徒達は、漫然と書き込んだりして、手持ちぶたさである。しかも、例によって自己評価(よくできた・できた・もう少し。自分のことを自分で○をする)とかの欄がある。こんな偽善があるだろうか。

自己評価をする行為そのものが、授業の目的になってしまっている。

何より問題なのは、この「授業のようなもの」が授業であると、教員も子どもも信じ込んでいることだ。

中学生は、小学生の次の段階で、年齢的にも近いのだから、小学校教員の授業レベルの、せめて半分程度くらいは、中学校教員も効果のある授業をするべきである。

とはいえ、私は、一部(あるいはほとんど)の小学校教員が、授業に凝りすぎてしまうことを、苦々しく感じている。
何でも屋であることを要求されている小学校教員は、ただでさえ、殺人的に忙しい。

毎時間の授業を、繊細に精緻に、「完成度」を求める準備作業ばかりに、日々のエネルギーのほとんどを使っては、なんのことやら、である。

準備に費やした時間の割には、授業の効果少なく、自己満足に過ぎない。あれでは、毎日へとへとになってしまうだろう。

小学校教員は、授業方法にいたずらに凝ることなく、淡々と授業を進めるようにすればいいのではないか。知的迫力のある授業は、授業の明確な目的と、知識と自信とを教員が持ってさえいれば、できるはずである。

それはともかく、中学校に話を戻そう。
中学の授業レベルは年々落ちてきている。もちろん、学習の基準となる「学習指導要領」が、ご存じのように、あきれかえるほど、レベルダウンしているので、一方的に中学教員のせいばかりとはいえない。
だからといって、授業の工夫もしない、教員が知的レベルを高める努力もしないようでは、ますます泥沼にはまって行く。
今、全国の多くの公立中学校で行われている授業では、並の中学生なら、その単調さと、知的な格闘のない平板な時間つぶしに、きっと嫌になることだろう。

教材も教える方法も、数年前と比較しても、程度が下がっている。だから、子供がついてこない。知的興奮がないからである。

子供の授業態度が年々悪くなり、指導そのものが難しくなってきていることは認めよう。しかしそれは、授業がお粗末であってよいことにはならない。授業を、教員の意識で変えていけば、倦怠の塊のような中学生でも、いくらかは蘇生するはずだ。

 

 

運動会や体育祭の哀しさ。無料演芸会、地域サービスもいい加減にしておけ。

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 小中学校は長い間、3学期制で、4月9月1月が新学期の始まりであった。現在は、2学期制が多く、この場合は10月が境目である。

 

新学期が始まると早々に、学校は、常にも増して大忙しである。

指導計画、教材準備、すべて万端なはずなのに、なぜバタバタするのだろう。

すぐに運動会があるのである。都合よろしく、5月にする学校が増えた時期もあったが、9月または10月開催に戻る学校が多い。

運動会という、変な行事が当たり前のように居座って、もう何年になるのだろう。いい加減に終わりにしたらどうか。
あれは地域の人々を慰撫するための、無料の演芸会である。サービスである。
子供を、暑い日中に運動場に晒して、勉強を放棄させ、こき使って、意味不明の踊りに類似した集団演技をさせて、地域の住民に護摩をする。
指導する教員も、ご苦労だが、何より子供が迷惑する。

運動会は百害あって一利ない代物である。
もう止める、と職員会議で決定すればいい。そんな学校は、学校自由選択制の下で、大人気となって、子供や親が殺到するだろう。
嘘だと思うなら、お宅の学校で、まずやってみたら如何。

日本の公教育が、惰性で甘えてきたこと、周りの評判に怯え、振り回されてきたことが、よくわかるはずである。


中学校では、体育祭の練習が、うまくいかない。あんまりうまくいかないので、教員による指導を最初から放擲して、子供を利用することを思いついた。
中学生に運営を任せるふりである。生徒主導だそうである。主体的だの自主的だの、意味不明の奇麗事を並べ立てて、教員は、実際の指導からちゃっかり手をひいて、一挙両得を目論んだ。
要するに放任である。ほったらかしなのだから、ろくなことにはならない。

特にひどいのが、演技種目で、練習に不熱心どころか、はなから、練習なんかしやしない。
徒競走だけなら、半ば、やけっぱちで走る子供達も、演技となると、「馬鹿馬鹿しくって」やる気にならない。

 

小学校の運動会で、散々、演技と称する猿真似を無理強いに、やらされてきたのである。もしも、それが楽しくてやりがいを感じていたのなら、中学生になっても、喜んでするだろう。
そうしないのは、小学校の運動会が、楽しくなく、やりがいもなく、不愉快なだけの思い出しかないからである。
それでも小学生である。教員に大っぴらに逆らうこともなく、従順に操られてきた。
中学生ともなると、そうはいかない。あんなことするもんか、となる。

 

中学生が、教員の指図通りに行動しないのは、問題ではあるが、その根は、小学校の運動会という無理無体な「やらせ行事」の、「児童虐待」に原因がある。

どうしても体育祭だの運動会だのを、したければ、「なんとか踊り」「組体操」等をすべてやめて、「かけっこ」だけにすればいいのである。練習なんて、不要である。
その場限りの、愚劣なダンスの類の振り付けを必死で覚えさせられて、挙句が、子供だましの「やらせ」なのだから、小学生とはいえ、はらわたが煮えくり返ったことだろう。
二度と猿真似演技なんかしたくない、これが正直な気持ちなのだろう。

何度でも言う。
運動会を止めるべし。害のみあって、利のない代物である。

それでもなおかつ、こだわるのなら、地域なり財団なりの責任で、社会教育またはイベントとして、するがいいだろう。

 

 

高校の授業料が無料なら、大学も授業料タダが筋である。大学教員の精選と意欲ある学生。

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教育には、金がかかる。
高校の授業料が無料またはそれに類似したものになって、久しい。

憲法にも、教育の機会均等の名目で「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければ」ならない、とある。だったら、義務教育ではないが、高校も無料でいいだろう、という安直な発想である。
外国人に日本国民の血税をくれてやるより、日本の子供のために金を使ったほうがいいに決まっている。
どうせタダにするのなら、高校のみならず、大学もそうしろ、と言いたいところだが、話は別なのである。大学の「授業」は、税金補填までして無料にする価値があるかどうか。

大学は、およそ教育現場とは思えない遊園地である。
大学経営者や大学教職員は、高給を得ている。親や学生が高い学費に苦しんでいることなど、どこ吹く風で、相変わらず暴利を貪っている。

私立高校も、公立校なみに、月謝がほとんどただ同様になってきた。やがてはすべての高校は、タダとなる。
これが大学に波及しないのは、親は、大学には金を献上してもよいと思っているからである。怪しい情熱だが、まだ、大学ブランドを何となく「素敵」に感じているのだろう。哀れである。

 

学校教育は、すべて一律に無償であることが望ましい。
しかし、その権利は、義務教育期間までで、それが過ぎれば、厳しい試験に合格した者だけに高等教育を受けさせるのが、本来の姿である。でなければ、一億総愚民の再生産である。スマホ中毒と相乗効果して、条件反射奴隷の拡散が続き、誰かの思うつぼである。

 

大学や大学院の授業を、より洗練させなければならない。

実力のある教員を選抜採用して、意欲と能力とのある子供に、無償の大学教育の機会を与えるべきである。
タダにはリスクが伴う。教員も子供も、教授能力や学習成績如何でどんどん馘首、落第、退学させれば、筋が通る。

大学に行くばかりが能ではない。義務教育を終えれば、各種専門学校、徒弟制度、現場で働く、その他種々の進路がある。さっさと手に職を得るのも一法である。
本人の幸せにもなり、外国から怪しげな移民と称する工作分子を入れるより、よほどお国のためになる。

近代日本は歪に生きてきた。それをここに詳述する根気がない。詳しくは、ご自分で調べてくれ。

教育をタダにできるのは、国民の税金を投入するからである。ならば、国家国民のためになる人材が育たなければ、なんにもならない。今のままでは、無能な教員の餌代にしか、ならないではないか。

 

 

教員同士を競わせても無駄である。子供や教員のレベル、能力不足は仕方がない。

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二流三流の中学や高校では、と書くと、怒り出す人がいるだろうが、その実、誰でも、学校には、一流から末流まであることは知っている。

同じ二流三流であっても、教員にとって、勤務校や担当教科によって、天国と地獄との差異がある。
天国は、のんびりゆっくりやれる教科または学校である。
地獄は、どういう理由か定かではないが、同一学年の同一教科を複数の教員が指導する学校である。のみならず、学年をまたがせる。

ここまで言っても、関係者以外は理解しにくいだろうから、説明を加える。

 

教員ヤマダ(仮名)は、高校2年の国語科担当である。
さて、高2は6クラスある。ヤマダは2年の3組4組の現国及び、1年の1組2組の古文、そして高3の6組の漢文を教える。

このように複数の教科と学年を担当させるのは、教員同士を互いに牽制させ、競わせて、へとへとにしようという魂胆である。
もとより、生徒の大部分は勉強なんかしやしない。それでも、学習の強化月間、国公立大へ1人でも、とかなんとか、学校中が、予備校のごとき熱にうなされる。
もちろんこれは、作為的である。いつの頃からそうなったのかは知らないが、そうなった。

 

不均衡不公平不効率な、このやり方を、長年、変えるものがいない。校長は無論、このままがよろしい。教員に余裕を持たせて、学校管理批判などされてはたまらない。すべからく、毎日の授業で忙殺させて余裕を奪っておくに限る。

個人に過大の負担を与えて、全体の辻褄というか虚飾を保とうとするのは、旧日本軍と同じことで、遠からず瓦解することになるだろう。

 

全国の教員の能力は実際のところ、大したことはない。というより、能力不足の者がほとんどである。これは教科によっても違うし、地域年度によっても変動するので、数値化はしないけれども、経験的事実である。
しかし、もともと、学問を他人を教えることは、誰にでもできることではない。学問は自学自習が根本で、自ら問いを立てることのできない、または立てようともしない者どもに向かって、学問を教え込むのである。並の能力で、できることではない。

 

学校教育は、無理の上に建てた掘立小屋である。

とはいえ、慨嘆しても仕方がないので、修繕方法を見つけるのである。

同一学年の同じ教科を一人の教員に担当させる。
当該学校の子供や教員レベルに合わせた授業をし、無理な進学先を設定しない。
国数英などの受験科目の教科担当は、時間数校務等で、他教科教員よりも優遇し、実力期末学年試験等の採点は、体育美術音楽理科社会系のごときテスト作成安直教科の教員にさせる。そのため、テスト作りを工夫し、簡易な答案形式とする。ただし、記述回答は、担当教員がする。

 

というようなことは、笑い話のようだが、わかる人にはわかるだろう。

 

 

 

一種の名文。子供に暗唱させたり、要約練習させるにはもってこいである。

うひ山ふみ/鈴屋答問録 (岩波文庫 黄 219-1)

うひ山ふみ/鈴屋答問録 (岩波文庫 黄 219-1)

 

 

 

 

他人から説教される快感。金が解決するわが子の教育、は素敵だ。

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つくづく、私たちは、お説教が大好きである。説教するのが好きで、説教されるのも、大好きなのである。

テレビ新聞雑誌、ついには、お手軽の極みである動画共有サイトに至るまで、他人に説教する連中でいっぱいである。

 

自分が一番詳しいはずの、わが子の教育にまで、多くの他人から、説教されたくてたまらない。
他人は、そこに損得を見て、商売を画策する。

教育に金が絡むと、ろくなことにならない。

私は、教育を商売にすることを憎むものである。
ある種の親は、子供に対して、不安で、自信がなく、定見がなく、見識を得ようともせず、ただただ、迷い漂い浮いて沈むことがある。十代の子を持つ母親に多い。
母親たちは、赤の他人の、三流テレビのニュースショウもどきの「ご意見」「無駄話」を、聞かせていただき、ご指導を承りたいのである。
または、流行作家気取りの三流大学教員の無駄話を読みたいのである。


あなたの子供だ、あなた以上にわかっている者が存在するわけがない。

金銭を払ってまで、自分の子供の事々を相談をするなんて、どうかしている。

教育を標的にして、商売する者どもが多すぎる。無限に近い購買予備軍がいるだろうビッグビジネスだからといって、節操がなさすぎる。
教育の主役は親である。親以外は、学校教員だけである。その他が関わるときは、異常事態発生のときである。医者、警察の類で、彼らが教育現場に顔を突っ込んでくるときは、尋常ではないときである。

であるのに、恒常的に、カウンセリングもどきのお説教を聞きたがる。
それほど、異常なのか、あなたの子供は。
だったら、入院させるがいいだろう。

 

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ついでに言えば、動画共有サイトで、頻繁に見かける大げさなタイトルは不快である。

世界が驚く〇〇の、世界が涙した〇〇、美しすぎる〇〇とか、タイトルを見るだけで気分が悪くなる。

万万が一、実際に美しいとしても、美しさに、過ぎることなんてないから安心せよ。過大な表現は避けるがいい。それこそ、卑しすぎる。