ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

教科書通りの逃げ口上。大学は、教員を食わせるための遊園地。入園料は親の涙。

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教科書には、ほとんど無難なことが書いてある。だからそのまま右から左に伝えても、まず間違いは起こらない。
義務教育期の小中学校の教員は、教科書通りに教えることが常識となっている。

高校では、事情が少し複雑になる。
高校では授業構造が短期間で変化することがある。
文科省にも高校にも、明確な経営戦略がない。各校ごとに、場当たり的に種々雑多な教育が行われている。
下手な物品販売会社のようなもので、事業拡大のための商品開発や、生き残りをかけた宣伝戦略で、頭が一杯である。しかも常に失敗する。

それにしても、高等学校学習指導要領の縛りはあるはずだ。
めちゃくちゃな大学の指導に比べると、よほど良心的である。

大学では教員の能力不足が顕著である。大学の建前上の目的である授業や研究が、円滑に機能していない。
学生がそれに輪をかけて不勉強なので、大学教員として必要とされる最低限の力がなくても、教員の「仕事」を続けることができるという、不思議な場所でもある。
不勉強な学生と、能力の怪しい教員との馴れ合い助け合いが、日本の大学の特色である。


さて、小中学校では、教科書通りに教えるのが普通である。
このことは、ある種の教員にとっては救いであり、他の教員にとっては苦痛となる。が、ともかくも、教科書は教科書である。大きな間違いはないはずである。
ところが、国語や歴史政治公民等の教科書は、事柄への判断停止、特定の国や政党への傾斜、歴史事項の恣意的選択、重要事項の逸脱等、目に余る事例が多い。そのまま教えることに、違和感がある。

教科書を補って教えたり、記述のおかしなところを指摘し、子供にも考えさせ、少しは無難客観真っ当なものにする必要がある。
学習指導要領の枠内で、適切な判断材料を与えて、討議によって判断力を鍛えていくのである。
このような授業を進めることが、すべての教員に可能だろうか。


不可能である。
教員が、知的にも体験的にも、教授力にも、子供との関係にも、すべて現実の裏打ちがなければ、難しい。
そんな要求は、教員に酷である。

「ただでさえ忙しい」教員に、いちいち注文をするな、ということになるのだろうか。

いいえいいえ、呑気な教員も、一応は、プロである。
これしきのことができないで、何が教員だろうか。
誰にでもできるわけではない仕事だからこそ、教員は先生と呼ばれるのである。

「仕事内容が難しい、時間もない、だから教科書の棒読み風情でいい」ことと、「認識し批判し解決する能力を身につけさせる授業が困難である」こととは、別問題である。

「学力を高める授業」は難しい。したがって、その授業を構成する教員の仕事は難しい。
私は、教員の仕事が、もっもっと困難で苦しい仕事になればよいと考えている。
でなければ、日本全国のすべての諸学校が、多くの大学や、高校のような有様になってしまうだろう。


大学教員たちは、授業担当時数が少ない。暇を持て余して、安逸を貪っている。
学生たちは、表向き「楽しい学生ごっこ」を演じつつ、妄想または漠然とした不安の中で日々を送っている。その場しのぎのスマホごっこで時間をつぶす。
しかし、学生の毎日は、真っ暗ではない。適当に楽しんでいることは、あなたもご存じだろう。

 

大学の授業らしきものは、高い料金に全然、見合っていない。大学教育の無駄無益無策には、怒りすら覚える。

大学教員を食わせるために開設している遊園地だから、それはそれでいい、と知人は言う。しかし、入園料施設料を払う親のことを思うと、涙を禁じえない。

これを極端と言うなら、大学に行って見てくるといい。百聞は一見に如かず、である。

 

 

〇 現代語訳とかで愚かしい本が近頃いくつも出ている。唾棄すべきである。福澤を原文で読まなくて、何が日本人だ。 

文明論之概略 (岩波文庫)

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英会話は無駄である。英語を選択制にして、日本語を徹底せよ。マライヤキャリー。

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東京でオリンピックの予定である。何かと騒がしい。
おもてなし英語とやらで、英会話ごっこのパレードである。

日本人の英語力は低いというが、統計など持ち出さなくたって、我が身を振り返れば、すぐわかる。
嫌々とはいえ、十年以上も学校で英語を学んできたはずなのに、会話はおろか、手紙はおろか、英語雑誌ひとつ、スラスラ読むことができない。
それもそのはずで、中途半端な水で薄めたような英語授業らしきものを、小出しに習ってきただけなので、すぐに忘れる。

学習には集中が必要である。短期間に、数少ない対象に没頭して、それで初めて、多少の素養がある場合のみ、ものになる。

例えば、社交ダンスである。
受講者を長期間、講座につなぎとめるために、主催者側が、わざと習得を困難にしているとしか思えない。
週一回わずか一時間足らずのレッスン中に、ワルツ・ルンバ・タンゴ・サルサ・チャチャチャなどを数分間に分けて押し込める。

習う方は何がなんだかわからない。かろうじてその中のいくつかのステップを、ほんの少し理解したような気になっても、次の週にはまったく忘れている。
またも最初から出直しである。こうして、受講者は何期分も月謝を払う羽目になるのだが、それでも、ダンスの腕が上がった人を知らない。

英語教育も同じことで、薄めた内容をだらだら続けているから、全然、身につかない。
「英会話の時間」だなんて、幼児のような片言を、十代の子供に言わせている。子供たちも、馬鹿にして、やる気なんかない。「ですいず ぶっく、ひいいず もんき」なんて、教員を指差して廊下で笑っている。

日本人の英会話礼賛も、いい加減にしたらどうだろう。
義務教育では、読解、作文を、集中して鍛えればいい。そうすれば、子供も少しはやる気が出る。少しはそれらしい「英語力」がつくだろう。
彼らは、愚かな「猿」ではない。

そういえば、かつてウタダヒカルとかいう歌い手がいた。日本語の語感を無視した意味不明な歌詞とメロディとで、少しく話題になった。
当時から、正しい日本語のアクセントではない、歌詞がよく聞き取れない、などと批評された。
久しぶりに聞いてみたが、マライヤ・キャリーの物真似のようではあるものの、思ったほど悪くない。
今の歌芸人は、日本語の歌詞や発音が、ますますひどいことになっているので、ウタダの方が、むしろ聞きやすいと感じるぐらいである。
英語のように、耳に依存する言葉と、日本語のように目に依存する言葉との違いを、歌芸人は、十分意識しなければならない。


さて、皆さんお気づきの通り、テレビやラジオに出る話し手の発音と言い回しとが、あまりに汚い。
英語どころではない。日本語の使い方を学ばなければならない。
発音が悪い、話の内容が曖昧模糊としている、一文一文が意味をなしていない。そのくせ、妙に以心伝心を期待するような阿(おもね)りがある。

テレビラジオは、国語の敵である。
即刻、視聴を止せ。テレビなんぞを見るより、日本語の名文を朗読し、古文に親しむ方が良いに決まっている。
テレビラジオ新聞その他は、どんなにインテリぶったところで、どうせ安物のエンターテイメントである。

娯楽が悪いとは言わない。大いに結構である。
だが、マスコミは、自分を娯楽だとは思っていない。
よりによって「真実」の「求道者」だとか、「民意の先導者」だとか、勝手に勘違いしている。愚かさもここまで来ると、怖い。

テレビ局ごときが、自分では「報道機関」だと、本気に考えている節がある。挙げ句の果てには「使命感」などと言い出す。
お笑いと他人の悪口とゴシップで、食しているくせに、国民を教化できる気でいる。
どこまで、傲慢で野蛮で卑劣な連中だろう。
ゆめゆめ、油断してはならない者どもである。

ある時、知人の子が学校から、「NIE」なんとかのチラシを持って帰った。新聞を読もう、の類の宣伝紙である。こんな拡販材料を、新聞社の宣伝人から受けとって、児童生徒に配る学校も学校である。
新聞は、ネットの普及で、先行きが暗い。購買層を今から確保しておこうという魂胆である。
「新聞を通しての教育」だって? 冗談じゃあない。何様のつもりだ。

願わくば、教員達が、英語に加えて、また新たな「のぼせ上がる対象」を、新聞を通しての学習、とやらに求めないことを願う。


と、書いたのも、以前である。
さすがに、今では、新聞紙の凋落は明らかで、世間知らずの学校も拒否するのではなかろうか。今度、問うてみよう。
英会話ブームも、日本では英語なんか必要なく毎日過すことができる。たとえ、必死に学んで英語を習得したにせよ、英会話らしきことができたにせよ、毎日使わなければ、どうせすぐに忘れるだろう。結局、時間の無駄である。

 

〇  良書である。

閉された言語・日本語の世界【増補新版】 (新潮選書)

閉された言語・日本語の世界【増補新版】 (新潮選書)

 

 

 

〇  この頃は、皆さん若かった。ゆく川の流れ、である。

日本・日本語・日本人 (新潮選書)

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北方領土を、戦争しないで、取り戻せるのか。教育と政治と古典の暗唱と。

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戦争の結果とられた領土は、戦争しなければ取り戻すことができないのが道理である。
もし戻るのなら、それ以上の対価を、相手国に払ってのことである。
国家間の戦闘行為よりも、もっと大きなものを払うなんて、よほど法外である。すなはち、失った領土は戻らない。戻るわけがない。

某国会議員が、北方領土返還の会合で戦争云々の発言をしたそうであるが、内容自体は常識で、至極道理である。もっとも、当然なことを表裏なく言うのは素人で、政治のプロなら少しは考えなければならない。

話は変わるが、拉致被害者を戻せという発言も、自衛隊という国軍があるのだから、他国に頼む筋ではない。自衛隊は、日本国民の安全を確保し、外敵に対して戦うのが道理で、さっさと、取り戻しに行くのが、本来である。
アメリカ様にお願いするなんて、世界の軽蔑の対象になるしかない。

アメリカ人は、国民の人口以上に銃を持っている。国家を信用してないのである。自分たち国民ひとり一人が、自身のみならず家族を、地域を、国家をも、最終的に守るという気概がある。これがアメリカ人で、彼らからすると、日本人拉致事件をめぐる日本政府の行動や判断は、不思議以外の何ものでもないだろう。

嘘だと思うなら、おもてなし英語とやらで、身近にいる外国人に問うがいい。

 

さて、こういった類の話題は、ぱるるの教育批評には、ふさわしくない。
もちろん教育制度は国家統制の手段の面を持っている。しかし、教育に、政治が我が物顔でのさばると、ろくなことがない。
学校は、おとなしく学び学ばせれば、いいのである。

 

過日、向島百花園に遊んだ。入ってすぐ横の茶店で、ビールを頼み、茫然と古人を偲んだ。帰りには、酔った頭と重い足とを引き摺って、白髭神社露伴先生の住居跡公園を、のそのそと歩いた。鳩の街通りに、人通りはほとんどない。

私は授業で現代文では鴎外直哉敦を、古文では方丈徒然平家を頻繁に扱った。これらは日本語の文章の粋である。
しかし、露伴は教えていない。今回、五重塔を読み返してみて、つくづくリズムの力に圧倒された。偉いものである。

 

日本語のリズムといえば、荷風先生である。荷風の文章は朗吟するに足る。荷風を追慕し、新宿銀座向島浅草岡山を歩くのもよい。

どんな人にも、文章の手本がある。なければそれは偽物で、だから子供は、手本に、名文として確立した大人の文章を、古文を、真似して書くのである。すでに上記の現代文作家は、古典である。
真似して何が悪かろう。10歳までに平家の一節を諳んじさせることもしないで、何が国語の授業だろう。

インターネットは、文章を書く人を量産したが、良いことばかりではない。むしろ、日本語の文章リズムは下品になった。

 

 

 〇 岩波の荷風全集が一番だが、大部である。下記の上下だけでも、文章の美しさを満喫できる。

荷風随筆集 上 日和下駄 他十六篇 (岩波文庫 緑 41-7)

荷風随筆集 上 日和下駄 他十六篇 (岩波文庫 緑 41-7)

 
荷風随筆集 下 (岩波文庫 緑 41-8)

荷風随筆集 下 (岩波文庫 緑 41-8)

 

 

 

小論文指導の、簡単な方法とは何か。その続きである。

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小論文指導について、すでに書いたと思うが、その続きのようなものである。

対象年齢によって、変化はない。小学校5年生から大学院まで、テキトーに変化させて指導すればいいだろう。

簡明簡潔有効な小論文の指導方法は、次のごとし。
子供が書いた文章400字を、15秒で理解して、直すべきところを瞬時に判断して、妥当解を赤ペン及び口頭で指導する。すぐに書き直させる。
1回の指導は長くても30秒以内に終わらせる。
1授業時間の中で、何度も書き直しを繰り返させる。

教員は全身全霊、能力フル回転を要求されるが、それもまた(教員にとっては)嬉しいことである。
文章を妥当に添削推敲することのできる教員、中でも、入出力を即時に指導可能な教員は、非常に限られてくる。教員百人に一人、千人に一人である。
だから、教員には、当たり外れがあって当然で、これは仕方がないことである。

現実は、どうせ、ほとんどが外れだから、子供は自学自習するしかないのだろうか。 
たぶんそうだろう。
あなたが、教員だか、子供だか、もの好きな人だかは、想像できないが、まあ、学生または生徒だとしようか。つまりは学習中の子供と仮定する。
あなたが、優れた教員に当たる可能性は、ほとんどない。

だから、学校授業だけでは不安で、予備校だの塾だの通信教育だのの類で、小論文対策をしようとするのだろう。それで効果あるとしたら(たぶん、少しはある)、まずは目出度い。

 

自学自習は簡単である。次のごとし。

文章はリズムである。読んで心地よいのは、読み手の理解が文章の速度と一致しているか、またはほんの少し先を行く場合である。
小論文の合否判断をする採点者は、数枚を読むのではない。何百枚何千枚である。だから、読み手を立ち止まらせたり、内容理解を遅れさせたりするようでは、駄目である。
自分から、好きで読んでいるのではない。仕事で読んでいる。または義理で読んでいる。
こいつの文章は、設題に対して妥当かどうかだけを、判断するのである。
ならば、受験生は、採点者のレベルに合わせて、求めているものを、半開きの口に投げてやればいい。

「口に投げる材料や料理方法がわからない」と、君は言うのか。
そんなわけはない。設題というものがあるじゃないか。設題は、ほとんど正答と同義である。

これ以上は言えない。君の読書レベル作文レベルによって、自学自習の方法は微妙に変わるから。
すでに回答は述べた気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

剽窃、無断引用、盗用が得意な大学教員。良書は、公共図書館の書庫に眠っている。

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大学教員はインテリということになっている。しかし日本の大学教員は、教員としての能力がない、または著しく不足している。
それなら、研究者としては、通用するのか。理系はともかく、文系は言うも哀れ、語るも涙である。何ら新しい発想がなく、時間つぶしのごくつぶしである。

能力不足は、どこで補うのだろう。ごまかし以外にはない。または、目立たぬように生きるしかない。
多少の野心のある、勘違いな教員は、駄文を書いて、本をでっちあげて、自他ともに認められたい、認められるだろうと、自分を売り込むことに執心する。

いちいち実名を挙げるのは、面倒であるが、筑摩書房に「ちくま新書」という新書シリーズがある。すでに1300点以上出ている。その中で、大学教員の肩書を持つ著者のものに、内容空疎、いい加減で出来損ないの類が多すぎる。
たとえば、著者が地方の某大学長という肩書で、古くは渡部某が講談社新書でヒットさせた著作に類似した書名のものなど、書名と中身とが一致しない。所属校の宣伝と、自慢と愚痴とが満載で、あちこちからの引用と、断片的な思い付きとの合体である。これを人様に読んでいただこう、売りつけようなんて、失礼である。時間と金銭との損失で、怒りすら覚える。
岩波新書も似たようなものだといいたいが、ここまでひどくはない。筑摩編集部の見識を疑う。

研究業績を上げることができない大学教員は、職を辞すなり、学生の基礎的な学力向上に専念するなりで、給料分の一部でもカバーすればいいものを、売文で目立って、小遣い稼ぎや業績扱いをもくろむとは、見下げはてた根性である。

大学教員は、学内でぬくぬくしていて、現実の経験がない。文章を書こうにも、ネタがない。他人の物まねで、ごまかそうとする。
教育系学部の教員は、現場教員の言説を剽窃する。文学学部系の教員は、横のモノを縦に翻訳して、自分のオリジナルなふりをする。一知半解の引用で、読み手を煙に巻こうとする。わけのわからない「専門」をでっちあげる。今や、大学教員の数だけ、研究領域、専門分野がある。

日本のスカスカ大学をとりあえず卒業して、学歴ロンダリングのために、アメリカその他外国の大学へ「研究員」とやらで、「留学」する。そこで一年か二年遊んで、日本へ帰ったら、一つ二つ大学をうろついて、晴れて大学教授である。おめでとう。
そんな輩の中で、特に自意識過剰で目立ちたがり屋の者は、下手な作文を、出版社の担当編集員に直してもらいながら、なんとか、新書くらいの分量を埋める、または「語る」。自分でも意外の出来なので、気をよくして、本人は、「研究者」「作家」気取りである。笑止である。

他人の考えを盗んで、自分のモノのように書くことは、大学教員の得意芸であるが、他人にはわからなくとも、盗まれた当人には、わかりすぎるほどわかる。
オリジナルなのか、剽窃盗用の類なのかは、いずれバレル。それまで売ればいい、物量でごまかせばいいと考えるのは、商売人の発想で、もはや研究者でも、まして教育者でも何でもない。これを別名、日本の大学に巣食う教員の見本、能無しというのである。


ところで、筑摩もいい出版社だった。世界文学全集は、活字が小さいけれども、しっかりした装丁で、重宝したものである。河出のモノは、活字がもっと小さく、コンパクト過ぎて読みづらかった。いずれも翻訳が玉石混交なのは、仕方がない。

岩波は個人全集が多い。荷風鴎外は岩波である。装丁は上手い。
しかし、いまどき、全集を読む人はいるのだろうか。公共の図書館の書庫に眠ってはいまいか。

 

 〇 気に入った作家は、全集で。箱を捨てて書棚に並べればそれほど場所をとらない。

荷風全集〈第16巻〉つゆのあとさき・荷風随筆
 

 

 

内容のない講演会。授業で子供に発表させるときの諸注意。

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授業では、子供の発表が流行りである。小中学校で多い。
国語や社会科等では、題目はいくらでもある。
プリントを自作したり、模造紙に大きく図を描いて示したりする。発表のために、調べたり、資料を作ったりする時間が、一番楽しそうである。

子供に限らず、発表には、上手下手がある。
何かを相手に理解させるわけだから、策略がある。
最初に、題名、大体の内容、発表理由を言う。
主題、要約、研究理由である。これらは、相手のためでもあるが、発表者自身が混乱しないためでもある。自分で何をやっているのかわからない発表もあるから。
講演会で、講師の名前とともに演題が大きく書かれているのは理由がある。
題目がいつも目に見える形でないと、聴衆はすぐに混乱する。
大学教員や評論家の類の芸人連中ですら、そうであるから、教室での子供の発表は、題名を板書またはカード表示をさせておく。

あごをひいて、聞き手の目をみながら話す。一ヶ所を見つめすぎてもいけない。あらぬ疑いをかけられる。俯いてばかりだと、落ち着かないし、頼りなく感じる。

大きめの声で、ゆっくりと話す。ゆっくり過ぎると間延びするが、早口よりは、ましである。相手は、発表者よりは題目について知らないことが建前だから、噛んで含めるくらいがよい。
実物や、図表などの資料を示すと分かりやすくなる。資料の説明は、横に立ってすること。真前では、肝腎の聴衆には見えない。指示棒または光ポインタを使うとよいだろう。

二つのことを同時にすると、せわしい感じになる。話しながら資料を出したりするのは論外である。だまって取出し、何が始まるんだろうかと、ひきつけておいて、頃合いを見計らって、この表によりますと、などと話し始めるとよい。

発表の最後に、全体のまとめを話す。途中でも話の変わり目ごとに、小さなまとめをしていても、結論部分で、必ずだめ押しをすること。
聴衆は分かっているようで、分かっていないことが多い。話し手の期待する十分の一でも理解してくれたら御の字である。

聴衆は、途中を飛ばして結果だけを欲する傾向がある。まとめをすれば、自分も相手も自分自身に対して納得するのである。分かったような気になるのである。
そうかそうか、こんな話だったんだよな。よくわからなかったけれど、要するに、そういうことだったんだ。
ほとんどの講演会は、こんなものか、それ以下である。

教員、特に大学のそれが、芸人気取りで、テレビや講演会等で愚説を吐くことを、苦々しく思っている。
あれは公娼の顔見世巡業であり、著書と称する語り下ろし本のキャンペーンであり、三流芸人並みの稚拙な芝居のごときものである。
あんなものを、身銭を払って見に行くなんてどうかしている。

誰でもが、時の話題の類を、簡単にわかったような気分になりたい。口達者な芸人話者に壇上から口説かれて、ご満悦で会場を後にするのである。即席「知識人」、「意識高い系」の出来上がりである。
おめでとう。

 

 〇 案外に読みやすい。

論文作法─調査・研究・執筆の技術と手順─ (教養諸学シリーズ)

論文作法─調査・研究・執筆の技術と手順─ (教養諸学シリーズ)