ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

「楽しい授業」は、大嘘である。退屈で苦しく厳しいことが、授業の手柄である。

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自分からすすんで勉強する子。それほどではないが、言われたら素直に勉強する子。
一方、ほうっておけば勉強しない子。勉強しろと叱りつけても勉強しない子。
子供は、様々である。

勉強への態度の違いが、将来を決める。
こう言うと、そんな馬鹿な、と思いたくなる。

それがそうでもない。あなたも本当は、よくご存知だろう。

生まれながらの門地性別容姿で、大きな差別をしない国は、世界広しといえども、日本だけである。不気味に平等な国が日本である。
では、いったいどこで違って来るのだろう。
勉強及びその成果である。
だから勉強したくなければ、それはそれでいい。そのような現在を選び、未来を選ぶのである。各々の人生である。

私たちは、幸福になりたい、幸福に暮らしたい、と願う。幸福が、人生の目的である。
しかし、幸福の実態は、なかなか難しい。
裕福であること、社会的な地位がある、容貌や健康に恵まれる、趣味に生きる、家族に囲まれて、安定した生活を送る、名誉が与えられる、衣食住が満たされている云々。これらは、「幸福な人生」の姿かもしれない。

幸せは百人百様だろう。どうせ他人である。
数えきれない偶然、些細な不断の判断、それらの合体が人生だから、いかにも、勉強のみではない。突き詰めれば運である。
しかしながら、やはり勉強は身を助ける。


「楽しい授業」というキャッチフレーズが、学校現場で流行った。今もこれからも、愚かにも流行るだろう。
寝言戯言である。
授業(勉強)が楽しいわけがない。まれに、楽しく感じることがあったのは、錯覚である。

勉強の楽しさは、確かにある。知識を増やし、できなかったことができるようになる、自分でも力がついてきたな、と実感できる喜びである。
だがこれは、退屈で忍耐強い学習の結果として、ようやく得ることができたのであって、最初から、楽しさを目指すならば、授業がお遊びになる。しかもその遊びは、学習という下心のある濁った遊びである。

子供には、安っぽい楽しみは、与えたくない。そんなものは、PCゲームやマンガやテレビバラエティ番組の役目である。
学校は退屈さと我慢とを学ぶ所である。それを通り抜けて、新しい地平が開かれることを、子供自身に体得させる場所である。

学校は、人類の文化遺産を子供に伝えるのが本務である。
楽しさよりもまず、きちんとした学習態度と勤勉とが必要であることを知らしめよ。それが教員の役目である。
厳しさと速度と抵抗感が、授業には必要だ。いかにも、勉強している、という実感を持たせるのがいい。

内容が難しかったら、子供は授業が嫌になるだろうか。
いいえいいえ。
子供は、学ぶことそれ自体が嬉しい。
これは大人の都合のよい解釈ではない。嘘だと思うなら、子供に問うて見るがいい。
知らないことを知ること、できなかった計算ができるようになったこと、漢字が読めるように、書けるようになったこと。これが喜びでなくして、何だろうか。

勉強大好きが、子供の本質であるなら、学校教員は、子供の持って生まれた学習意欲をうまく伸ばすことが本業である。
遊戯に似せたものでは、いけない。授業は、ある種の訓練である。

あなたにも覚えがあるだろう。「いつのまにか身についた」体験が。
それは麻雀の類のことである。それだって、何十日、何百日かの徹夜の成果だろう。
子供はもっと忙しい。教室でお遊戯する時間はないのである。

 

 

肝っ玉先生に、ご注意。男先生、女先生のそれぞれの魅力がある、たぶん。

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教員も年配になると、それなりの貫禄がついてくる。

新卒で先生と呼ばれて、年上の親から刺すような目で授業参観されたのが、今は昔。
保護者は自分より年下になった。長年の経験上、子供の扱いが上手になった、多少の知識も増えた、とあらぬ自信を持つようになる。

これが、大きな落とし穴だ。
一般に、年配で口の達者な女性の学級担任の場合、一見すると学級運営がうまくいっているようだが、遠からぬ日に(まれに小学校卒業後に)必ずと言っていいほど、極端に男子が荒れるようになる。

がんじがらめにうるさく押さえつけられていたものが、中学入学とともに、自然に噴出するのである。

女性の「肝っ玉先生」は、いらいらと子供の細かいこところまで目配りをして、一々指摘することが、ある意味自慢でもあるが、その効果の程は怪しいものである。むしろ、逆効果のことが多い。

男性教員の場合、どこか抜けているような点があるが、それがかえって、児童生徒には、ほっとする息抜きになる。その上で、抑えるべきところはちゃんと抑えることができていれば、とてもよろしい。

男性教員が担任する学級は、再生不能なほど、学級の子供が荒れる事は滅多にない。教員が、余裕を持って対応しているからで、本気で叱ったにしても、どこか距離感がある。
ところが、女性の年配教員の場合、その距離感を持てない。持ちたくない。ほとんど生理的なものかもしれない。

これでは、子供は息が詰まる。というより、内心では、教員に激しく反発するようになる。その感情は、心の中に沈潜し、復讐の機会を虎視眈々と狙っている。

 

教職は、未熟で生身の子供相手の仕事なだけに、教育効果という点で、「男女平等」はあり得ない。

性差は乗り越えることのできない壁である。男性も女性も、その欠点を補いつつ、各々の長所らしきものを伸ばしていくしかない。
小学校の、学級担任は一年ごとに変わる方がいい、と前にも話した気がする。一年どころか、半年でいい、いや、1学期ごとでもいいのではないか。

ベテランからフレッシュまで、男女を問わず、種々雑多な教員に接したほうがよいのである。少なくとも、運不運の不利や害悪は薄まることだろう。

 

ところで、中学生が大荒れに荒れた時期があった。今でも、似たようなものだが、程度は軽くなった。

あの頃、自称他称の有識者なる連中が、中学生がこんなに荒れるのは、中学校が教科担任制だからで、小学校のように学級担任制なら、荒れないだろう、と真顔で論じていた。
馬鹿な。冗談を言うな。
そんな発想自体が、学校を躾サークルと勘違いするもとなのだ。

学級担任に、なにもかも押し付けて、いい塩梅に楽をしようとするのである。

学校は多数の子供を集めて、プロの教員が教科内容を教えるところである。それ以上でも以下でもない。小学校が学級担任制なのは、その方が安上がりだからである。授業の面からみれば、教科担任制が優れているに決まっている。

親が、我が子をコントロールできないからといって、躾までを教員にさせようなんて、太い了見である。そうまでしてもらいたかったら、給金を今の3倍やれ。教員に甘えるのは、それからにしろ。

 

 

 

 

高校偏差値ランキング、「特進コース」「選抜クラス」、偏差値操作でご満悦である。

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私立高校は、「悪い評判」を恐れて、少しでも良いイメージになるように、あの手この手で、画策する。
真面目に、教員の技量を上げ、営業努力して、本校生徒のレベルを上げようとするのなら、まだ救いがある。
ところが、現実は、安直な偏差値操作である。

A校は、B校より数ポイント高い、今年のC校はD校に抜かれただのと、肝心の授業下手や理事会のお粗末さを忘れて、一喜一憂する。

しかし、私立学校の偏差値ほどいい加減なものはない。
「特進」と呼ばれる特別進学クラスをでっちあげて、まあまあできるらしい生徒を買ってくる。中高一貫校は小学6年生を買う。高校からでも中途入学できる一貫校は、公立中学校から出来のいい子供を買ってくる。
買うというのは、字義通りであって、受験料や授業料をタダにしたり、その他の便宜を図る。この連中に、名のみに過ぎないのに、いわゆる有名大学に合格してもらって、当校の評判を上げようという魂胆である。

なるほど、特進の子供は、来てやってるんだという顔をしている。ほかの一般入試で入ってきた生徒と違って、授業料を出していないくせに、態度が人一倍大きい。
ただでなけりゃ、こんな学校に来るわけないじゃん、とばかり顎を突き出す。

二流三流の私立高校や、やがて転落する可能性のある「名門校」は、さぞかし辛いことだろう。こうまでして、「インチキ」をして、特進クラスの偏差値を上げて、全国高校偏差値ランキングに、学校名を載せてもらいたくて仕方がない。
偏差値の横の小さな欄を、よくよく見ると、普通科ではない。
探求科、国際科学科、医科進クラス、理数科、その他、なんだか、わけわからない名目の類である。その生徒数たるや、全校生徒のほんの一握りである。馬鹿馬鹿しい。

筑駒、茶水、灘、開成が、そんなまねをするか。下って、都立でも西や日比谷が特進コースなんてつくるわけがない。

偏差値で自慢したいのなら、全校生徒全員の偏差値で、堂々と勝負したらどうか。
紛らわしい真似はよせ。

『シン・ゴジラ』は学校推薦映画である。家庭との連携って、簡単に言うなよ。

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知人来りて嘆いて言うには。

 

家庭には家庭の領分があり、学校には学校の領分がある。それをはっきりさせて、責任の範囲内のみ、責任を負うのが筋である。
以前流行った「家庭と学校とが連携する」旨は、聞こえは良いが、責任の所在を不明にし、互いの判断を鈍らせる。

戦後から、今日まで、何事も曖昧にしていた方が、双方にとって都合がよかった。
教育現場で、子供達に各種の政治的刷り込みをするためには、教員が、子供の家庭に入り込みやすい雰囲気を醸成する必要があった。これは、中国や朝鮮の対日作戦、ソ連共産党の基本的な作戦の一つだった。教員を洗脳すれば、子供を、その親をも、洗脳できる。こんな手管は、すでに共産主義の教科書に特大特筆してある。

だから、教員には、教職員組合を通じて、「家庭に入れ」という指導がなされた。これは社会主義革命お得意の「ヴ・ナロード(人民の中へ)」の焼き直しである。

生来がお人好しで、本も読んでいない教員達は、単純にこの作戦にひっかかった。思想洗脳の先兵、あるいは利用されやすい雑兵としての役目とも知らずに、下賤なヒーロイズムに突き動かされて、家庭に入り込もうとした。
それが形を変えつつ、今もしぶとく残っているのが、「家庭との連携」という題目である。

ところが、戦後何年かを経て、日本は瞬く間に、共産本家の中国やソ連よりも、はるかに豊かになってしまったので、教員が簡単に家庭に入り込めない。また、入り込もうとする教員も少なくなった。それに、子供の家庭も複雑なので、社会経験不足の教員たちには、荷が重い。
教員組合の衰退の兆しでもあった。教員への世間の尊敬もなくなった。こんなことでは、家庭に入り込めるわけがない。
それはそれで、日本のためには幸いであった。

テレビは、そんな教員の、か細い知識の最大の入手先である。
しかも、親も子もテレビを見ている。
共通の「楽しい話題」である。
テレビ局ごときが、分不相応に傲慢になるのも、無理はない。

一方、テレビ新聞を中心とするマスコミ家業に職を得る者には、社会主義革命の残党が多かった。どうせ学生運動の祟りでろくな就職先がない。しかし、マスコミだけは、どういうわけか、かつての運動家を大歓迎した。そうでない者も、すぐに染まって、朝鮮中国ソ連大好き、日本大嫌い、皇室を潰せ、というステレオタイプな空気に染まった。

かの隣国及び連合軍(国際連合)は、日本の強さは皇室にあるとみている。その皇室を陰に日向に、裏から攻撃すれば、日本が弱体し、自分たちの配下になると考える。これは国際政治では、当然すぎる作戦である。
とか、云々。


話は変わるが、映画『シン・ゴジラ』(庵野秀明監督)は、面白い政治映画である。エンタメの中に、皮肉な観点を含ませることは悪くはない。
アメリカの特撮映画は、米国万歳ヒーロイズムと他国民への蔑視と、大げさで浅薄な筋立てのものが多い。それに比べて、シンゴジラは少しは、マシだろう。

 

日本の小学校教員は、世界一である。しかし、教育効果が上がらないのはなぜか。

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日本の初等教育に携わる教員の水準の高さは、誰がなんと言おうと世界一である。その熱心なこと、真面目なこと、繊細な配慮等々、他の追随を許さない。
これは喜ばしいことだろうか。
残念ながら、必ずしもそうではない。

小学校学級担任教員が優秀であっても、かくも教育効果が低いのは、何故なのか。いったい誰の仕業なのか。
この疑問に頭を悩ますのである。

古いフランス映画に、老教員と11人の子供たちとの交流を描いたものがあったように記憶する。
風光明媚な田舎の、モネ風の景色の中で、散歩したり読んだり歌ったり、なんとも、のどかなものである。
あれは教育と言えるのだろうか。おそらく、あれでも立派な学校教育だと言いたいのだろう。

だとしたら、一年中、一日中、毎時間中、どたばたしている日本の先生方のやっていることも教育なのであろうか。もちろん、あれは学校教育であろう。だが、忙しさは自慢できることなのかどうか。
案外、無駄なことで、忙しくしているのではないか。

公教育は、以前に比べて、少しは「まともになった」と言える面もある。
しかし、肝心要の行政、文部科学省が失敗失策の常連である。
学習指導要領の中身もお粗末である。これでは、現場が苦しむだろう。

日本の教育に奇妙に蔓延していた社会主義の影響が、ようやく薄まった。今度は日本国民本来の教育を大切にするのではないか、と期待をさせて背負い投げ、とはこのことである。

誰の陰謀かは知らないが、「ゆとり教育」「総合的学習」等々の戯言を押し立てて、一挙に教育水準を転落させて、教育立国、技術立国としての日本を転覆しようとする作戦が、いまだに続いている。
寺脇某ごときが、その一味だとは言わない。
区々たる一個人が画策してできることではない。裏に、外国の何者かが、蠢いているのかもしれない。
敗戦後の憲法以下諸法規と教育制度とが、疲弊したこともあるだろう。時代もある。時の流れである。転落を防ぐには、抵抗力が必要だが、テレビと新聞漬けの脳細胞には、すでに手遅れである。

覆水盆に返らず。このダメージから回復するには、何年かかることだろう。考えるだけでも、ぞっとする。

こうなったら、逆手をとって、貴殿または私の学校学級だけでも、ちゃんと教えてもらいたい、教えたい。
薄っぺらで怪しげな教科書の、通り一遍で、それでいいなんて考えてはダメである。
あんなものは、無駄なく教えれば、ひと月で、長くても数か月で終了できることなど、いくら何でもご存じだろう。一年もかけて、いったい何をやっているのだろう。

教科書なんか、さっさとすませて、プリントをどっさり刷って、子供の学力を上げることだ。反日で日和見の社会科教科書(T書籍だけではない)、外国語万歳の国語教科書(M村だけではない)の類を、後生大事に、もたもたと開くばかりでは、困る。
学習塾に任せて、知らんぷりでも困る。塾の月謝を、誰もが払えるわけではない。時間の無駄のごとき「インスタント塾」もあることだろう。

「そんな余裕はない、毎年、学期末でも、教科書が予定通り終わらない」と、先生、あなたはおっしゃるか。
残念ながら教員としての能力が不足しているのではないか。

とまでは、言わないが、察してくれ。

 

乱暴な言葉で威圧しても、子供をコントロールできるわけがない。教員の持ち味を生かした授業の工夫が必要である。

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学校教育が年々難しいものになっている。
学力をつけようにも、成果がなかなか上がらない。
ひとりの教員の力で、学級全体を制御することが、難しくなってきた。学校生活が、教員も子供も、苦しい。
教員の教授能力や子供の学習能力の低下であろうか。
学校教育制度の筋の曖昧さが隠しきれなくなったのか。
先の見えないままに、右往左往している。

行政は、教員一人ひとりの力を馬鹿にしている節がある。「学校全体で取り組め」と、ことあるごとに繰り返すが、複数集まったからといって、何ができるわけではない。しかし、責任の分散はできる。学校の多数の教員の総和で、ようやく物事が少し進むことになる。現状では仕方のないことかもしれない。

たとえば学級担任と専科教員の問題である。
学級では安定して授業を受けていても、特定教科を他の教員が担当する場合、担当教員によって子供の態度は変わる。子供は人を見ることに、抜け目がない。
専科の授業での子供の態度が特に悪く、しかし、学級担任の授業では、態度が良い、としよう。専科教員が担任に対して、要望や不満をぶつけてくる。人間同士であるから、好き嫌いや技術の巧拙があるのは、当然といえば当然であるが、誰でも自分を守ろうとする。
家庭で子供の躾ができていない、学校で学校規律を守らせることができていない。
それはそうだが、当該専科教員の力量不足のこともある。
専科教員も担任教員も、「適切な指導」の技量を、常に高めていかないと、授業そのものが苦しいものになる。
 
ついでに。
若い教員が、休憩時間に、体力にまかせて、汗みどろになって、子供と遊んでいる姿は、見ていて、なかなかよいものである。
しかし、年齢とともに時間的にも体力的にも、そうもいかなくなる。だから、教員を続けていれば、ある種の諦めが必要になる時が来る。
加齢からくる体力の衰えばかりではない。容姿容貌性別等、色々な諸条件が加わって、教員と子供との関係は、変化する。

中学校の女性教員に、まれに高校女性教員にも、妙に男勝りというか、言葉が男言葉で力んだ調子で話す人が時々いる。
今時の中学生である。手強い。相手が相手なので、甘く見られないための予防線なのであろうが、下手なやり方である。ますます教員自身の立場を危ういものにする。
女性は女性の、男性は男性の、また若い人は若いなりに、そうでない人はそれなりに自分の特徴を出してやっていけばよいし、それしかない。

教員の持ち味を生かすという点では、年齢性別に限らないことはもちろんである。自分の得意とするところで、自分流の方法を工夫して、授業を進めていけばいい。
女性は女性の優しさとか母性というような点から、アプローチすることも吉であろう。
また、若い男性教員なら、子供と常に一緒に動いてやったり、年齢が近いための共通感覚を生かしたりして、やっていけばよいのである。