ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

「楽しい授業」は、大嘘である。退屈で苦しく厳しいことが、授業の手柄である。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

自分からすすんで勉強する子。それほどではないが、言われたら素直に勉強する子。
一方、ほうっておけば勉強しない子。勉強しろと叱りつけても勉強しない子。
子供は、様々である。

勉強への態度の違いが、将来を決める。
こう言うと、そんな馬鹿な、と思いたくなる。

それがそうでもない。あなたも本当は、よくご存知だろう。

生まれながらの門地性別容姿で、大きな差別をしない国は、世界広しといえども、日本だけである。不気味に平等な国が日本である。
では、いったいどこで違って来るのだろう。
勉強及びその成果である。
だから勉強したくなければ、それはそれでいい。そのような現在を選び、未来を選ぶのである。各々の人生である。

私たちは、幸福になりたい、幸福に暮らしたい、と願う。幸福が、人生の目的である。
しかし、幸福の実態は、なかなか難しい。
裕福であること、社会的な地位がある、容貌や健康に恵まれる、趣味に生きる、家族に囲まれて、安定した生活を送る、名誉が与えられる、衣食住が満たされている云々。これらは、「幸福な人生」の姿かもしれない。

幸せは百人百様だろう。どうせ他人である。
数えきれない偶然、些細な不断の判断、それらの合体が人生だから、いかにも、勉強のみではない。突き詰めれば運である。
しかしながら、やはり勉強は身を助ける。


「楽しい授業」というキャッチフレーズが、学校現場で流行った。今もこれからも、愚かにも流行るだろう。
寝言戯言である。
授業(勉強)が楽しいわけがない。まれに、楽しく感じることがあったのは、錯覚である。

勉強の楽しさは、確かにある。知識を増やし、できなかったことができるようになる、自分でも力がついてきたな、と実感できる喜びである。
だがこれは、退屈で忍耐強い学習の結果として、ようやく得ることができたのであって、最初から、楽しさを目指すならば、授業がお遊びになる。しかもその遊びは、学習という下心のある濁った遊びである。

子供には、安っぽい楽しみは、与えたくない。そんなものは、PCゲームやマンガやテレビバラエティ番組の役目である。
学校は退屈さと我慢とを学ぶ所である。それを通り抜けて、新しい地平が開かれることを、子供自身に体得させる場所である。

学校は、人類の文化遺産を子供に伝えるのが本務である。
楽しさよりもまず、きちんとした学習態度と勤勉とが必要であることを知らしめよ。それが教員の役目である。
厳しさと速度と抵抗感が、授業には必要だ。いかにも、勉強している、という実感を持たせるのがいい。

内容が難しかったら、子供は授業が嫌になるだろうか。
いいえいいえ。
子供は、学ぶことそれ自体が嬉しい。
これは大人の都合のよい解釈ではない。嘘だと思うなら、子供に問うて見るがいい。
知らないことを知ること、できなかった計算ができるようになったこと、漢字が読めるように、書けるようになったこと。これが喜びでなくして、何だろうか。

勉強大好きが、子供の本質であるなら、学校教員は、子供の持って生まれた学習意欲をうまく伸ばすことが本業である。
遊戯に似せたものでは、いけない。授業は、ある種の訓練である。

あなたにも覚えがあるだろう。「いつのまにか身についた」体験が。
それは麻雀の類のことである。それだって、何十日、何百日かの徹夜の成果だろう。
子供はもっと忙しい。教室でお遊戯する時間はないのである。