ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

『シン・ゴジラ』は学校推薦映画である。家庭との連携って、簡単に言うなよ。

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知人来りて嘆いて言うには。

 

家庭には家庭の領分があり、学校には学校の領分がある。それをはっきりさせて、責任の範囲内のみ、責任を負うのが筋である。
以前流行った「家庭と学校とが連携する」旨は、聞こえは良いが、責任の所在を不明にし、互いの判断を鈍らせる。

戦後から、今日まで、何事も曖昧にしていた方が、双方にとって都合がよかった。
教育現場で、子供達に各種の政治的刷り込みをするためには、教員が、子供の家庭に入り込みやすい雰囲気を醸成する必要があった。これは、中国や朝鮮の対日作戦、ソ連共産党の基本的な作戦の一つだった。教員を洗脳すれば、子供を、その親をも、洗脳できる。こんな手管は、すでに共産主義の教科書に特大特筆してある。

だから、教員には、教職員組合を通じて、「家庭に入れ」という指導がなされた。これは社会主義革命お得意の「ヴ・ナロード(人民の中へ)」の焼き直しである。

生来がお人好しで、本も読んでいない教員達は、単純にこの作戦にひっかかった。思想洗脳の先兵、あるいは利用されやすい雑兵としての役目とも知らずに、下賤なヒーロイズムに突き動かされて、家庭に入り込もうとした。
それが形を変えつつ、今もしぶとく残っているのが、「家庭との連携」という題目である。

ところが、戦後何年かを経て、日本は瞬く間に、共産本家の中国やソ連よりも、はるかに豊かになってしまったので、教員が簡単に家庭に入り込めない。また、入り込もうとする教員も少なくなった。それに、子供の家庭も複雑なので、社会経験不足の教員たちには、荷が重い。
教員組合の衰退の兆しでもあった。教員への世間の尊敬もなくなった。こんなことでは、家庭に入り込めるわけがない。
それはそれで、日本のためには幸いであった。

テレビは、そんな教員の、か細い知識の最大の入手先である。
しかも、親も子もテレビを見ている。
共通の「楽しい話題」である。
テレビ局ごときが、分不相応に傲慢になるのも、無理はない。

一方、テレビ新聞を中心とするマスコミ家業に職を得る者には、社会主義革命の残党が多かった。どうせ学生運動の祟りでろくな就職先がない。しかし、マスコミだけは、どういうわけか、かつての運動家を大歓迎した。そうでない者も、すぐに染まって、朝鮮中国ソ連大好き、日本大嫌い、皇室を潰せ、というステレオタイプな空気に染まった。

かの隣国及び連合軍(国際連合)は、日本の強さは皇室にあるとみている。その皇室を陰に日向に、裏から攻撃すれば、日本が弱体し、自分たちの配下になると考える。これは国際政治では、当然すぎる作戦である。
とか、云々。


話は変わるが、映画『シン・ゴジラ』(庵野秀明監督)は、面白い政治映画である。エンタメの中に、皮肉な観点を含ませることは悪くはない。
アメリカの特撮映画は、米国万歳ヒーロイズムと他国民への蔑視と、大げさで浅薄な筋立てのものが多い。それに比べて、シンゴジラは少しは、マシだろう。

 

日本の小学校教員は、世界一である。しかし、教育効果が上がらないのはなぜか。

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日本の初等教育に携わる教員の水準の高さは、誰がなんと言おうと世界一である。その熱心なこと、真面目なこと、繊細な配慮等々、他の追随を許さない。
これは喜ばしいことだろうか。
残念ながら、必ずしもそうではない。

小学校学級担任教員が優秀であっても、かくも教育効果が低いのは、何故なのか。いったい誰の仕業なのか。
この疑問に頭を悩ますのである。

古いフランス映画に、老教員と11人の子供たちとの交流を描いたものがあったように記憶する。
風光明媚な田舎の、モネ風の景色の中で、散歩したり読んだり歌ったり、なんとも、のどかなものである。
あれは教育と言えるのだろうか。おそらく、あれでも立派な学校教育だと言いたいのだろう。

だとしたら、一年中、一日中、毎時間中、どたばたしている日本の先生方のやっていることも教育なのであろうか。もちろん、あれは学校教育であろう。だが、忙しさは自慢できることなのかどうか。
案外、無駄なことで、忙しくしているのではないか。

公教育は、以前に比べて、少しは「まともになった」と言える面もある。
しかし、肝心要の行政、文部科学省が失敗失策の常連である。
学習指導要領の中身もお粗末である。これでは、現場が苦しむだろう。

日本の教育に奇妙に蔓延していた社会主義の影響が、ようやく薄まった。今度は日本国民本来の教育を大切にするのではないか、と期待をさせて背負い投げ、とはこのことである。

誰の陰謀かは知らないが、「ゆとり教育」「総合的学習」等々の戯言を押し立てて、一挙に教育水準を転落させて、教育立国、技術立国としての日本を転覆しようとする作戦が、いまだに続いている。
寺脇某ごときが、その一味だとは言わない。
区々たる一個人が画策してできることではない。裏に、外国の何者かが、蠢いているのかもしれない。
敗戦後の憲法以下諸法規と教育制度とが、疲弊したこともあるだろう。時代もある。時の流れである。転落を防ぐには、抵抗力が必要だが、テレビと新聞漬けの脳細胞には、すでに手遅れである。

覆水盆に返らず。このダメージから回復するには、何年かかることだろう。考えるだけでも、ぞっとする。

こうなったら、逆手をとって、貴殿または私の学校学級だけでも、ちゃんと教えてもらいたい、教えたい。
薄っぺらで怪しげな教科書の、通り一遍で、それでいいなんて考えてはダメである。
あんなものは、無駄なく教えれば、ひと月で、長くても数か月で終了できることなど、いくら何でもご存じだろう。一年もかけて、いったい何をやっているのだろう。

教科書なんか、さっさとすませて、プリントをどっさり刷って、子供の学力を上げることだ。反日で日和見の社会科教科書(T書籍だけではない)、外国語万歳の国語教科書(M村だけではない)の類を、後生大事に、もたもたと開くばかりでは、困る。
学習塾に任せて、知らんぷりでも困る。塾の月謝を、誰もが払えるわけではない。時間の無駄のごとき「インスタント塾」もあることだろう。

「そんな余裕はない、毎年、学期末でも、教科書が予定通り終わらない」と、先生、あなたはおっしゃるか。
残念ながら教員としての能力が不足しているのではないか。

とまでは、言わないが、察してくれ。

 

乱暴な言葉で威圧しても、子供をコントロールできるわけがない。教員の持ち味を生かした授業の工夫が必要である。

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学校教育が年々難しいものになっている。
学力をつけようにも、成果がなかなか上がらない。
ひとりの教員の力で、学級全体を制御することが、難しくなってきた。学校生活が、教員も子供も、苦しい。
教員の教授能力や子供の学習能力の低下であろうか。
学校教育制度の筋の曖昧さが隠しきれなくなったのか。
先の見えないままに、右往左往している。

行政は、教員一人ひとりの力を馬鹿にしている節がある。「学校全体で取り組め」と、ことあるごとに繰り返すが、複数集まったからといって、何ができるわけではない。しかし、責任の分散はできる。学校の多数の教員の総和で、ようやく物事が少し進むことになる。現状では仕方のないことかもしれない。

たとえば学級担任と専科教員の問題である。
学級では安定して授業を受けていても、特定教科を他の教員が担当する場合、担当教員によって子供の態度は変わる。子供は人を見ることに、抜け目がない。
専科の授業での子供の態度が特に悪く、しかし、学級担任の授業では、態度が良い、としよう。専科教員が担任に対して、要望や不満をぶつけてくる。人間同士であるから、好き嫌いや技術の巧拙があるのは、当然といえば当然であるが、誰でも自分を守ろうとする。
家庭で子供の躾ができていない、学校で学校規律を守らせることができていない。
それはそうだが、当該専科教員の力量不足のこともある。
専科教員も担任教員も、「適切な指導」の技量を、常に高めていかないと、授業そのものが苦しいものになる。
 
ついでに。
若い教員が、休憩時間に、体力にまかせて、汗みどろになって、子供と遊んでいる姿は、見ていて、なかなかよいものである。
しかし、年齢とともに時間的にも体力的にも、そうもいかなくなる。だから、教員を続けていれば、ある種の諦めが必要になる時が来る。
加齢からくる体力の衰えばかりではない。容姿容貌性別等、色々な諸条件が加わって、教員と子供との関係は、変化する。

中学校の女性教員に、まれに高校女性教員にも、妙に男勝りというか、言葉が男言葉で力んだ調子で話す人が時々いる。
今時の中学生である。手強い。相手が相手なので、甘く見られないための予防線なのであろうが、下手なやり方である。ますます教員自身の立場を危ういものにする。
女性は女性の、男性は男性の、また若い人は若いなりに、そうでない人はそれなりに自分の特徴を出してやっていけばよいし、それしかない。

教員の持ち味を生かすという点では、年齢性別に限らないことはもちろんである。自分の得意とするところで、自分流の方法を工夫して、授業を進めていけばいい。
女性は女性の優しさとか母性というような点から、アプローチすることも吉であろう。
また、若い男性教員なら、子供と常に一緒に動いてやったり、年齢が近いための共通感覚を生かしたりして、やっていけばよいのである。

 

 

 

 

 

夏休みの学習課題。無理難題を押し付けられた子供が、哀れである。

 

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学校は、「よい授業」というキャッチフレーズが好きである。世間も、学校で教員が、よい授業を進めているだろうと思っている。
しかし、実際に期待通りに行われているところは少ない。物事が理想以下なのは普通にあることで、驚くに値しない。

よい授業でなければ、それは悪い授業で、効果がないどころか、害悪しかないはずなのに、教員も子供も平気である。当たり前のように学校に通って、夕方まで時間を潰すのは、そうするしかないからで、慣れっこになっているのである。

悪い授業でも、多少は学習の成果らしきものがあるのは、なぜだろう。
人間が生来持っている知識欲に助けられているからだろう。この作用がなければ、ぼんくら先生は、飯を食っていくことができない。

 

よい授業であるためには、次の三つが必要だ。
教材と教員と児童生徒学生である。
言いかえれば、学習課題と教授技量と学習者の能力である。

課題が、そもそも教員のレベルを超えていたら、教えることができない。子供のレベルを超えていてもダメである。子供の能力に適した課題があり、それを教えることが可能な教養知識技能のある教員がいる場合に、よい授業が成立する。

にもかかわらず、いわゆる進学校では、学習課題に、無理難題を押し付ける。教員自身が解けないような問題を平気で出す。

公立高校は、学校間の競争がある。生徒が国公立大学に多く進学できたら、学校職員は、特に校長は自慢である。公立有名進学校で退職できたなら、県下の二流どころの私立高校の校長に再就職できるかもしれない。うまくすれば、退職後10年、まずは安泰である。

 

公立校教員は、各方面から、能力以上の過剰な期待を背負わされて、もはや満身創痍である。
教員はすでに頑張っている。他から何も言われなくても、熱心に生徒を鍛えている。自分から夢中になるのである。
何のことはない。教員自身が、進学校に勤めていることが嬉しくて仕方がない。

商業高校や工業高校の教員は同じ公立でも格が落ちる。公立普通高校でも、進学校の教員と底辺校の教員では、位が違う。誰も表では言わないのに、本人たちがそう思っている。
生徒の成績に一喜一憂する。難関とされている国立大学に数人でも受かろうものなら、狂喜する。

と言えば、何だか良いことのようだが、そうでもない。もともと、教員にさほどの能力もないのに、生徒の潜在力も無視して、大学にねじ込もうなんて無理な相談である。生徒の中には、間違って当該高校に入ってきたような者もいる。

夏休みの課題に、身の丈に合わない大量のプリントや問題集を押し付けられた生徒こそ、再び哀れである。

  

 

 

楽な職場でも、人間関係で潰れる人が多い。自分で自分を追い詰める人々。

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某高校教員が曰く。

放課後、研究室に女子生徒がやってきて、将来高校教員になりたいが、国語教諭か家庭科教諭のどちらかで迷っている、と言う。
さあ、どう答えたものか。

国語教員はやめておけ。やることなすこと分量が多すぎる。些末で面倒で無駄な作業が連日連夜続く。人並みの睡眠はできんぞ。国語教員同士の無意味な競争心から、互いの足の引っ張り合いや、陰口陰謀落とし込み、その他もろもろ、ろくなことはない。

それはもう、家庭科教員です。学習内容がお遊びのようなもの、そのくせ、生活に密着とかなんとか、妙に気取ることも可能。仕事量が半端なく「少ない」。各校一名配置が普通だから、広大な家庭科教室家庭科準備室研究室等、わがまま放題使い放題。手料理だって、自分の服だって、教材研究の名目で、勤務時間中に作り放題。ついでに味見と称して、食べちゃったり。

と、ここまで言ったかどうかは知らないが、女子生徒は納得したのだろうか。
現在、某大学の家庭科教員養成課程で学んでいる。めでたし。

 

さて、話を変える。
小中高大の教員は、個人プレーができる大学教員は別として、あなたの勤務先と同じように、人間関係で潰れるのである。
特に役所のそれはひどい。役所といえ、たくさんあるから、とりあえず、市役所を例にとろうか。

なるほど市役所の仕事は楽である。嘘だと思うなら、日がな一日、役所の各窓口や、役所ビル各階に分散する種々の課を、それとなく覗いてごらん。
その暇なこと、ゆったり感、散漫感、傲慢感、倦怠感等々を感じることができるだろう。

中央の省庁も、また同じ。ここに詳しく書く必要もないが、外務省や文科省の某課でも似たようなもので、机の上に足を投げ出してノートパソコンをいじる奴や、態度だけは大きいが目が落ち着かない連中が多かった、と某知人は言う。

とにかく、市役所は仕事が楽である。あなたが現に市役所勤めなら、否定できないだろう。
しかしである、楽な職場であるにもかかわらず、役所の勤め人が、精神疾患になったり、病休、早期退職が多いのは、どういうわけだろう。

 

それはね、仕事が安定して楽ちんだと、人間関係で意地悪したり、すねたり、勝手に落ち込んだりするしか、やることがないから。
と、ここまで言うと、冗談でしょうと世間は思うだろうが、市役所職員は、そうは思わないだろう。その通りです、と呟くだろう。

実に実に、人というものは怖いものである。心は闇である。
心理カウンセラーもどき、怪しげな心理プログラム、力動精神医学から派生した多くの団体、生き方幸福論人間関係論、あれこれが流行って売れて、今もぐちゃぐちゃ存在するのは、そして一部では大儲けできているのは、人の心が一番難しく、つまりは人間関係で、天国か地獄かが、決まるからである。

こんなことを、何度も書くのは、役所勤めの知人のうち、すでに二名が自殺しているからである。人間関係で追い詰められたのである。
人は、意欲すれば、自分で自分自身を、変えることができるかもしれない。けれども、相手に対する態度を変えることは、二の次三の次である。誰もが、自分のことでいっぱいである。

他人の自分への態度を変えることができないのならば、自分の方が、変わるしかない。

笑い飛ばせば、いいのである。君の苦しみで、地球は崩壊しない。

 

大学教育学部教員の無能。夏季休業中の教員研修、ついでに大学祭。

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旅人来りて、嘆いて曰く。

 

つくづく日本の大学教育は無駄である。大学教員と称する与太者に、ただ飯を食わせるだけではなかろうか。

例えば、新宿戸塚の大学である。学部によってはそこそこ競争がある。入ったはいいが、教員は、学生を放任して、知らんぷりである。中でも、教育学部教員の無能な点は、特筆に値する。どうせ高校体育少年の巣、または、安直に早稲田に入るための学部かしらん。

某テレビ局の男アナが言うことには、中学生の頃から、ともかくテレビアナになりたかった。そのための手段として早稲田に入るのが得策と思い、一番簡単な教育学部に一浪の末、入って、ようやく、フ〇テレビに就職できた云々。

なるほど早稲田は芸人の街である。嘘だと思うなら、早稲田祭に言ってごらん。一日中楽しめる。缶ビール片手に、北門から入って少し臭いにおいのする例の道を通り抜け、大隈像当たりまでぶらつくとよい。秋葉原ドンキAKB劇場やら新宿二丁目猥雑な雰囲気やら、EXILEもどきごっこその他やらで、終日暇が潰せるだろう。
学祭日程が重なることの多い学習院上智とをついでに覘くなら、暗くなるまで飽きることがないだろう。

とか、云々。

 

さて、話は変わる。
夏季休業中、各高校は、教員研修なるものをする。お遊びのようなものだが、企業も官公庁も、どうせ研修なんてお遊び以下だから、高校のそれを、特にあげつらう気持ちはない。むしろ小中高校の夏期休業中の研修会なんて、立派なものである。
役所のそれは、年中あるから、評する気になれない。あなたが役所人間またはその経験者なら、その程度は知っているだろう。間違いなく学校以下、議員以上である。

教育学部系の大学教員の不明不勉強無能経験不足を深く悲しむものである。明〇図書や小〇館他の、教育関連書籍を商売する業者を、深く憐れむものである。
意味のない、むしろ害のある浅はかなトレンドを作り出し、でっち上げ、それを商売にするとは、なんと罪なことだろうか。
ことは、子供と親と現場教員に関係する。その迷惑なこと、言うに及ばないだろう。
文科省職員の見通しのなさと自己アピールと利益追及は、困ったものであるが、どうせ人間はその程度である。
現在の人気のキャッチコピーはアクティブラーニングであるが、そろそろ賞味期限が近づいた。次は主体的対話的問題解決学習だそうである。的的である。
馬鹿馬鹿しくって話にならない。

研修の無駄ぶりはまた言う。大学教育学部教員の愚かしさ、及び、無能ぶりも、また言う。一度にあわてて言うほどのことではない。