ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

子供の我儘と親の甘え。本音を吐くと地雷原。教員の生き残る道。

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子供は我儘な存在である。家庭ですらそうなのに、赤の他人ばかりの学校で、我儘を通さないことがあるだろうか。

かつて学校は、子供を家庭から切り離し、冷たく厳しい規律で、子供を震え上がらせた。学校の価値は高まった。
それがどうだろう、今では、生ぬるい「やさしさ」を売る場所になっている。

しかし、昔のように鍛錬の場所に戻れというのではない。二度と、学校は、厳しさを取り戻すことができないだろう。むしろ、その方が無難である。
馬鹿な教員の一方的な規律の押しつけほど、有害無益なものはない。集団内での同調圧力は、歯止めがきかなくなる。


子供は、担任教員が、本気で学力向上を進める場合、直感的に、この教員は今までの教員とは違うな、と気付く。
最初は違和感を持つ場合でも、だんだん慕う気持ちへと変化する。
教員次第でもあるが、紆余曲折があったとしても、早晩、よい関係に落ち着くことが多い。
しかし、子供の親が、担任に対して否定的感情を持つとき、子供は教員への認識が混乱する。子供は、家庭では親の判断に従わざるを得ない立場である。親の言葉は神の声である。
これが、小学校高学年の難しいところで、個人の自由意思が確立されつつある時期であるにもかかわらず、母子一体感が抜けきらないので、最終的には母親の判断に影響されることが多い。

この点、中学生では、親の支配力が子供に及ばなくなるので、学校の教員も親も、子供に対しては、同程度の影響力を与える。言い換えれば、手に負えないのである。
親も教員も、子どもへの距離がほぼ等しくなる。小学校教員よりも中学教員は、親に対しての気苦労が少なくてすむ。またはほとんどない。その代わり、子供の扱いを間違うと、相当にひどいことになる。

 

親が、我が子に、不満や不安または否定的感情を持つことがある。
我が子の状態に満足できないとき、その全責任は、学校や担任教員にあると、親は考える。その方が、自分自身を救える。気持ちが不安定で、緊張を強いられる仕事に就いている母親に多い。子供は、女子であることが多い。
これは不思議な傾向といえるだろう。更年期障害の故か、同性母子関係の綾なのか。
このような場合、親は、面と向かって担任に苦情(らしきもの)を述べない。たまに言っても、遠まわしに言う。これに気づいて、できるだけ穏便な対処をするのが大人の教員である。
しかし、そう要領よくできるものではない。毎日の仕事が、洟垂れ小僧相手であるだけに、大人に対しても、つい本音を言ってしまう。親に対して反論したり、教え諭そうとする態度は、僭越というより、地雷原で踊るようなものである。

これは重々気をつけなければならない。教員が意見を正直に吐くと、後で手痛いしっぺ返しが来る。
親は、公立学校教員は、最終的に、自分たち親の言いなりになると信じて疑わない(実際、そのとおりでもある)。

親は教員を批判する。自分の子供への躾が不十分なことは棚に上げて、教員に伸びない原因を見つけようとする。

親の報復の例として、多く見られるのは匿名の電話や投書メールである。学校を管轄している教育事務所へ送る。事務職員(委員会指導主事と呼ばれる)は、あわてて学校長へ連絡する、学校長から教員へと、内容が伝わる。ずいぶん遠まわしだが、これが意外に効果がある。
親の教員への勘違いな要求は、親自身の不安の投影であることに、関係者は気づいているのか、気づかないふりをしているのか。


子供にいろいろあるように、教員にもいろいろある。
その子に合った教員はどこかにいる(かもしれない)。
何にでも手取り足取りの、親代わりのような教員もいる。親はすぐに甘えて、そんな教員が「いい先生」だと、言い出す。
しかし、教員は児童生徒の親ではない。なるべきでもないし、なれるはずがない。

しかし、日和見文科省と地方の子分らは、無定見である。票さえ集まればいいのだから、有権者である親を甘やかす。学校に、選挙民の機嫌を損なわないようにさせる。

 

小学生の場合、家庭で最低限の躾ができていない子供は、ごくまれに、良い教員に当たっても、十分に伸びない。なぜ、伸びないのか。親が駄目だからである。

親子がきちんとした生活習慣を保っていなければ、子供の野放図な行動に、教員は、対応できない。対応するべきでもない。
時間の無駄でもあるし、他の子供への迷惑でもある。

教員は、守備範囲を守らなければならない。それこそが教員の生き残る道である。
家庭に口出ししたり、頭を突っ込むのは、お粗末テレビドラマの中の教員役だけで、十分である。

以上、言っては見たものの、現状は変化しないだろう。詮方ない。恐々謹言。

 

 

不気味な、教員の言葉遣い。子供もペットも雑草も、神セブンである。

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近頃の公立学校教員の、児童生徒に対する言葉遣いは、異常である。

授業を参観してみるといい。聞くに堪えない思いがするだろう。

子供に教科書を読ませる。たった三行でも読み終えたら、すかさず教員が、「読んでくれてありがとう」。
子供が挙手したら「ありがとう。がんばって手を挙げてくれたね」。 

中学生が、授業中、突っ伏して、ふて寝をしている。教員は、さっそく駆け寄って、「何々君、ね、がんばろう」だって。
何を御丁寧に頼んでいるのだ。そんなガキは、椅子を蹴飛ばしてやれ。

生徒が、あくびをしたら、「あと少しで休憩時間だよ、がんばろうよ」だって。

児童生徒は、いったい何様なんだ。相手は神か、それとも痴呆なのか、放たれた猛獣か?

まるで、授業にお付き合いくださって、感謝いたしております、の世界である。子供への言葉遣いが、場違いの丁寧過ぎで、気持ちが悪い。

これでは、子供がつけあがる。ついでに、子供の背後にいる親も、つけあがる。
分際を知れ、分際を。

世間も悪い。多くの人にとっての世間とは、マスコミである。つまりはテレビラジオの類である。
「何々してくれた、何々してあげる」とペットの犬や、庭の雑草にまで、こんな言い方をする(NHKの趣味の園芸、とやらに多い)。雑草をぬいてあげる。犬に食事を作ってあげる。
子供が、宿題をしてくれた。おはようと言ってくれた。
雑草が今年は少ないままでいてくれた。
犬が朝食を食べてくれた。糞を家の前ではなく、隣の門前でしてくれた。

教育には、ある程度の権威が必要だ。
師も弟子も、教員も児童生徒も、同じ様な扱いでは、駄目である。子供の健全な成長を阻害することになるだろう。

それにしても、傲慢でわがままで不安定で、実りのない自負心ばかりが、蔓延している。
地域によって、学校によって、少しは違いがあるが、何かと、子供がしばしば泣く。
泣く子は、甘えん坊で、ずるい子供が多い。
泣けば、要求が通ると思っている。
二三歳の子供ではあるまいし、小学校高学年ともなると、人前で簡単に泣くんじゃない。
泣けば、すべてがうまくいくのか。

然り。うまくいくのである。要求は通るし、その場の雰囲気を一挙に自分中心に持って行けるのである。
子供が、この手を使わないわけがない。
あなたが教員だか、親だかは知らないが、「すぐに泣く子にご用心」とだけは言っておきたい。

教員も、泣く子に弱い。目の前で泣かれると、教師の精神的暴力とか噂を立てられて、訴訟にでもなったら、一巻の終わりである。

児童生徒が泣きだすと、必死でなだめる。傍から見ても、気味が悪い。猫なで声で、御機嫌とって、あれではまるで歌舞伎町の性風俗業勧誘の兄さんである。

どうせ、泣くくらいの子である、思う様泣かせてやるがいい。と、言いたいが、なかなかに難しいのである。

 

まだまだ続く「総合的学習の時間」の毒。調べ学習にポスターセッション。流行物は廃り物である

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小学校中学校高等学校の「総合的学習の時間」(小学校低学年は「生活科」と称す)は、ほとんど無意味なことが明らかになった今も、惰性で時間つぶしをさせている。

あんなものを、学校で取り扱う「学習」だと、本気で考えているとしたなら、不勉強を通り越して、笑止である。馬鹿も休み休み言え。
文科省に蠢く一部担当者の、保身と自己宣伝と利己主義との結果が、「総合的な学習の時間」であった。

最初から、軽薄な思い付きに過ぎず、早晩失敗が明らかになることくらい、予想ができそうなものである。
しかし、当時、多くの関係者は、なんだか「革新で良いこと」のように考えた。特に、軽率で不勉強が売り物のマスコミ各社は大歓迎した。
あまりに不明である。

しかし、今となっては、どうにもならない。その責任はいったい誰がとるのだろうか。文科省で、主に動いたらしい寺脇某は、今何をやっているのだろう。

当然ながら、「総合的学習の時間」が現行指導要領にある限り、時間割に入れなければならぬ。その時間は、何かをしたふりをしなくてはならぬ。
それなりの工夫をするのである。ご苦労である。


小中学校で、今も見ることのできる「ポスターセッション」に「調べ学習」。
あれは学習なんかでは、断じてない。お仕着せの「感想」ごっこである。
教員も子供も、自分のやっていることの意味も意義もわからないままに、右往左往している。
子供が可哀想過ぎるのである。
学問の土台とも言えないものを、多くの時間を費やして、ふらふらしている有様は悲惨ですらある。

「今度の授業は、ポスターセッションです」と、元気におっしゃる。
カタカナを使えば、それらしく見えるだろうと、浅はかな了見である。
大方、どこかの大学教員がもったいをつけて紹介し、現場の教員達が飛びついたのだろう。
学習の訓練とは、似て非なるもので、子供にあらかじめ調べさせてきた内容(これが「調べ学習」だそうな)を勝手に話させて、それを少人数の子どもに聞かせて、お決まりの質問だの意見らしきものを言わせるという、「ままごと」以下のていたらくである。
これは、断じて授業なんかではない。

体育館で、大勢集めて、なんとかかんとか、説明らしきことをした後、ばらばらと歩き回り、紙芝居のようなことをする。
「てにをは」も満足に書けない子供に、テレビレポーターの真似事をさせる。無茶も大概にしろ。

これ以上書くのも、虚しいから、もう止めるが、そもそもがポスターセッションは、院生達の頼りない研究の発表の場として、大学構内の廊下で始まったものである。

壇上での学会発表と違って、聞き手との距離が近く、質問も応答もどんどんできるし、自由度が高いことは長所である。しかしながら、さほど内容のある研究発表の場ではないことは、なんとなくお分かりだろう。
院生以上なら、それなりの意味はあるかもしれない。
しかし小学生にやらせるなんて、泥沼の上に高層ビルを建てるようなものである。目新しければ良いってものではない。

実は、これには理由がある。
教員が、自分の授業を他人に見せるとき、自分でパフォーマンスはしたくない(自分で踊ると実力が明らかになってしまう)。むしろ、子供の発表という形にして、自分は表に出たくない。その点、調べ学習だのポスターセッションだのは、まことに都合がよろしい。
何日だか何週間だか準備して、子供に役者よろしく、練習させて、さて、本番は子供が演技すれば、なんとなく公開授業が一丁上がりとなる。
教員の皆が皆とは言わないが、このような心理が働いて、調べ学習やポスターセッションが、流行ったのである。
中身は「なーんだ、こんなこと」であるのに、名前だけはカタカナ風スマホ言葉の、「アクティブラーニング」も、ご同様である。

 

英語は書きやすく、日本語は書きにくい言語である。ダーティハリーの報告書と研究会。

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某教員が言うことには。

研究発表とは、なんとつまらないものであろうか。
何のために、何を、どのようにしたら、どうなった。これだけのことを、かいつまんで言えばよいものを、言わない。
研究というほどの研究ではないからだろう、発表者も聴衆もそれを承知で、熱心である。または、熱心なフリをする。
研究発表には、日本語の持つ曖昧さが、都合よく加味されているようだ。


唐突だが、アメリカの警察映画で、事件が起こるたびに、「報告書」という単語が頻出する。警官が、詳細な報告書を書いている。第三者への文章を書くことが、署内の日常茶飯であるらしい。さほどの負担でもないらしい。
先日も、FBI職員の活劇ものを見た。女主人公は、毎晩、自分の部屋で、その日の出来事、問題点、推理等を書き留める。徐々に事件の全貌が現れる、といったほどの筋であるが、上役が主人公に「報告書を出せ」と催促する場面が、何度か出てくる。
どうして、あのように気楽にどんどん文章を書くことができるのか不思議だ、と知人は言う。

そういえば、昔、「Dirty Harry」とかの刑事ものでも、キャラハン刑事は、やたらと拳銃をぶっぱすかりではない、報告書も書いている。
英語は、「文章を書くことが楽な言語」なのだろうか。

日本語は、単語に多くの荷物を背負わせる。英語は、軽装である。文脈による想像はあるが、それさえ明確にすれば、林檎なら、林檎で充満する。ひとつの篭に蜜柑や葡萄や西瓜を詰めこむとが少ない。
英文の単語は狭まりやすく、日本語のそれは曖昧に広がりやすい。

漢字かな混じり文で、文章を書くことは難しい。表意文字の含意が、明快な文体の邪魔をするのである。

敗戦直後、志賀直哉は、日本語をやめて、国語をフランス語にしたらよかろう、と書いた。あれなども負け戦のショックや、耄碌の言ではない。長年、文章で苦労してきたその挙げ句の発言であったのだろう。
日本語を他の言語に変えようなんて、できるわけがない。しかし、日本語の抱える難しい問題は、今も解決していない。

漢字の持つ意味の幅が広いことは、単語を選ぶ苦労を少なくする。曖昧でも許される。
まんざら悪いことでもないだろうが、事柄を表現するのに、「ことば」への甘えが出てくる。しかも、日本は島国の単一民族国家である。日本中、どこに行っても日本語が通じる。簡単に通じるから、言葉を厳密に扱わなくなる。
同じ日本人だ、そこのところ、わかってくれよ、というわけである。
言葉によって、そして言葉によってのみ、考えや気持ちを伝え合うしかない国々と、大きな違いである。

英語は、「世界共通語」であると断言する人が増えてきた。
繰り返すが、英語は、単語に内包する意味が、浅く単純である。
漢字の持つ、多様さと奥行の深さは、今後も、決して日本語を世界共通語にしないだろう。
それは、日本人にとって、喜ばしいことなのか、悲しむべきことなのか。

 

 

2020年度「大学入学共通テスト」、英語スピーキング入試の大失敗。文科省は子供を苦しめるのがお好き。

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文部科学省の間抜けさ加減は、ほとんど冗談の域に達している。
文科省職員が省の利益を画策しているのか、文科省退職後の、再就職先の確保を目指しているのか。そのあたりは、想像してくれ。

2020年度の大学入試から、「大学入学共通テスト」とやらが始まる。
ようやくコナレてきたかに見える「大学入試センター試験」はポイである。「入試改革」だそうである。

今回の大失策の目玉は、民間の英語試験を強制的に受けさせるようにしたことである。

少し考えればわかることだが、民間英語業者は複数ある。利益追求競争の商業企業である。受験生や、在校生が、こぞって、受験するようになる。
業者は大喜びである。すでに、現在の異常な英語ブームで大儲けしているのに、今後利益は天井知らずである。文科省様様だろう。
当然、文科省職員の再就職の前途は大ハッピーである。
その逆に、高校生諸君は、不幸のどん底に叩き込まれている。いや、受験する子供だけではない、その保護者も、学校教員たちも、いつものことながら、文科省の「御英断」には、ほとほと苦しめられるのである。

 

外国語は、必要に迫られないと、少しばかり学んだくらいでは、身につけることはできない。日本在住の日本人には、英語など、全然必要ない。むしろ邪魔である。
日本人の子供に、日本の学校で、英語を無理矢理に学ばせて、それで何をしようと言うのだろう。無駄の極致である。

必要性のある者、何か特定の目的があって学ぶ意味と意欲を持つ者、そういう子供は、選択させるなりして、自由に学ばせればいいだろう。しかし大部分の子供にとって、英語は、不毛不自然無益、時間の無駄どころか、精神衛生上、悪い代物である。
考えても見るがいい、「植民地マスター様」のためでもあるまいが、日本に暮らす日本人が、どうして外国の言葉を強制的に押し付けられなければならないのか。
片言のスピーキング入試で、いったいだれが得をし、だれが裏で高笑いをしているのか。

可哀そうなのは、高校生であり、中学生であり、小学生である。英語英語、と意味もなく追い立てられて、その挙句が、聞き取ることすらできないのである。
人は生まれてすぐに母親の声を聞く、言葉を聞く、日本語を自然に学ぶのである。だから、私たちの母国語は日本語なのである。
語学を商売にするのでない限り、外国語会話など、一朝一夕にできるものではない。英語を聞いて理解する必要もない生活の中で、どうして、外国語ができるようになるだろうか。

 

語学は聞き取りがすべてである。
相手が何を言っているかわかること、次に、何が書いてあるかをわかることが、言語理解の常道であるのに、こともあろうに、スピーキングだそうである。バカも休み休み言え。
聞きとることすら、できるわけがないのに、いったい何を話すというのだろう。
マスター様、次のご命令をくださいませ、とでも言うのだろうか。

 

 

 

子供が見えている。現場の経験のない哀しさ。大学教員の生き方。

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「子供が見えているか」という言葉が、学校現場で一時期流行ったことがある。
教員は、実力はなくても言葉だけを先行させたがる。だから先輩面で、何か言わねばならないときに、こんな常套句が便利だったのだろう。
映画やテレビ画面ではあるまいに、何が見えるというのだろう。何を見るべきなのか、言ってる本人にも、もちろんわかってはいなかった。

好意的に解釈すれば、眼前の児童生徒の実態を把握しているのか、という問いであろうが、何かを見ることができればいいものではない。子供の何かを、わかることができるというのは不遜でもある。

「わかること」は自分の体験上、自分が同意できること、腑に落ちること、馴染むことである。
大学教員には、永遠に小中高等学校の現場はわかることができない。したがって、わからないことを、教育学部では、わかったつもりで教えている。

教育は経験がものをいう。未経験者は黙るほかない。
高校教員と小学校のそれとはまた違う。中学校の現場も独特である。
教育について、特に学校教育については、当該学校種の教員経験がない者は、何を言っても駄目である。噂話であり、無駄話であり、大嘘である。それでも、何とかごまかしが通用するらしいのは、自分自身が、昔は児童生徒であり、小中高等学校生活を曲りなりも送ってきたから、そこから類推するのであろう。哀れであり、姑息である。

教育学部の大学教員は、現場のことを知りたくてたまらない。哀しいかな、自分で小中学生を教える実力も勇気もない。そんなことをしたら、「馬鹿」が白日の下にさらされて、明日から構内を歩くことができなくなる。飯の食い上げである。
そこで、大学付属学校を時々覗いて、何かを得たいが、所詮傍観者である。言っていること書いていることに迫力がない。空論である。

無用であり有害でもある大学教育学部を廃止すればいいのであるが、そこはそれ、人情や打算で、この世は動く。あれもこれも、関係者にとっては、今のところ職業で、食うため生きるためである。大目に見てやれ。

さて、では大学教員は現実の教育について、どうやったら、知ったかぶりができるだろうか。また、実際に、知った風な生意気な口を叩くことができているのだろう。

それはね、ネタは教え子から取ってくる。
教育学部の学生は、卒業時には、企業の就職は難しくても、一応、教育学部卒の教育学士である。なんとか、教員になった者もいることはいる。その連中から、仕入れるのである。
他には、各学校はご丁寧にも、研究会と称するパーティを年に数回するが、恐れ多くも「指導講師」という名目で大学教員をお呼びするのである。一言の「ご指導」をいただくのである。馬鹿馬鹿しさも、ここに極まる。
大学教員にしてみれば、嬉しくてたまらない。大きな顔で、小中高の学校現場に忍び込める。仕事ネタを仕入れることができる。消えかかったプライドの火を、今少し燃やすことができる。

各学校の研究会が、結局は、現場教員に負担をかけるだけのイベントになっていることは以前話したが、教育事務所職員(教育庁教育委員会とやらの指導部や指導課の職員)や地元大学教員に、自己満足の活躍の場を与えるためのセレモニーであることも、知っておくがいいだろう。

現場教員に向かって、その経験も無い者が、子供が見えているか、などと宣うのは、百年早いのである。