ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

評価ごっこは、教員や子供を殺す。教職は、キツイ帰れない危険な3K仕事である。

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どんな仕事でも、苦しむぬくか、それなりの楽しみを見つけることができるかは、当人次第である。
教職も然りであって、とても教員に向きそうもないように思えた者が、現場での学習指導や生徒指導の、成功例がある。逆に、学業成績もよく、教員からの評価も高かった者が、いざ教員になってみると、さっぱりな例もある。むしろその方が多い。

今、教員は、なりやすい職業である。
教員採用試験に不合格だとすれば、面接その他の運もあるだろうが、そもそも、筆記試験にすら受からないような学力では、どうしようもない。あの程度のペーパーで合格点を得ることができないのなら、教職は、最初から止めておいたほうがいい。
医学部や理工学部公認会計士、司法試験その他の筆記試験に比べて、教員採用試験が、簡単手軽なことは誰でもわかるだろう。それすら突破できないで、何十人もの他人の子供の「師」になろうなんて、無礼である。

非常勤講師や臨時教員で、採用試験の準備をしている人がいることだろう。または、受験勉強に徹して、職に就かず、勉強している人がいるだろう。学部生は無論である。
経済面や精神的な状況が違うから、一概に言えないが、すでに受験経験がある人は、すっぱり職を辞して、受験に集中すべきである。
と、言いたいところだが、この十年を見ると、教員採用試験がかなり甘くなっている。何年間も、非常勤や常勤を務めていた人が、よく採用される。いつ勉強したんだろうかと不思議だが、要は、筆記試験の難易度が低くなっているのである。

採用試験は非公開だから、情実が入る余地がたくさんある。そもそも、採用基準、解答得点分布等、中身が公開されないのだから、闇また闇である。

しかし、学部生や、まだ二十代の人たちに老婆心から言うのだが、教員は、他の職業に比べて、断然、ローリスクハイリターンである。
経済的、社会的、趣味的、安楽的、安定的、要するに何でもいいが、ともかく、よい仕事なのである。
職業や将来について、真面目に悩んでる人には、ぜひ、おススメしたい。


以上を書いてから、現在、またも、事情が変わってきた。
もちろん、就職事情、教員採用状況なんて、年々刻々、変わって当然である。
それにしても、世間の変わり身の速さには、驚くのである。
教職は、特に小中学校のそれは、3Kの代表だそうである。
即ち、「きつい汚い危険」な職業であるというのである。
新3Kにも該当するらしい。「きつい帰れない給料が安い」である。
否定するには及ばない。

戦中戦後を通じて、教員は、結核を病む人が多かった。安月給で過労で、しかもろくなものを食べていない、食べることができないからだ、と言われた。
そのイメージはすぐに逆転し、今度は安定した「良い職業」となった。

ところが、この数年で、どうやら、貧乏教員のイメージが復活しそうなのである。
生きていけるだけの給与は得ても、仕事内容がきつい、定時に帰ることができない、人の子を預かる責任は超重大である。これでは気の休まる暇がない。
しかし問題はそこにあるのではない。

教員は、子供を教えるのであるから、それなりの責任は当然だろう。問題とすべきは、教員たちが、些末で不要で下らない評価ごっこで、心底、草臥れていることである。
学校現場にのさばる無駄な「評価制度」なのである。
この続きはまた。

 

「楽しい授業」は、NHK朝の連続ドラマのような俗悪番組と同類か。教科書と黒板と、そして優れた教員がいれば、それでいい。

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平成30年現在、多人数の教室は減った。かといって、学級定員が少なければいいってものでもない。
小学校で一学級の人数が、40人を越えても、落ち着いて静かに学習できる学級もあれば、たとえ26人でも騒がしく落ち着きのない学級もあった。
しかし、学級の児童数が20人以下になると、極端に騒がしい学級はなくなる。
それでも落ち着いていないとしたら、子供か親か教員のいずれかに、深刻な問題がある場合で、それはここでは論じない。
静かな学習時間は、大切である。喧噪の教室では、知的鍛錬ができない。

 

住んでいる場所は、想像以上に人の心情に影響する。住環境が良ければ、子供は落ち着く。
学校にも当然言えることで、環境の良い場所にゆったりとした敷地、清潔な校舎なら、申し分ない。その逆は、想像してくれ。

住んでいる場所が違い、校舎が違い、周りの環境が違えば、教育効果も異なる。日当たりや水はけの良いところは、花木だってどんどん伸びるだろう。その逆も、当然である。
しかし、建前上、平等に扱っていることになっているから、学校や子供の住環境について云々するのはタブーである。見て見ぬ振りが、我が身のためである。
こんなところにも、みんな同じ、みんな一緒の、悪しき発想が出ている。

一時期、流行った「楽しい授業」もそうで、子供の笑い声が起こらなければ、良い授業ではないかのような空気があった。
不思議なことである。
中学校や高校では、まして大学では、「楽しい授業」なんて言わないのに、どういうわけか、小学校では、楽しく分かる授業、などという。
NHK連続テレビ小説じゃあるまいし、テキトーな場面設定でごまかして、都合次第で話を進めるのはよしたほうがいい。授業はエンタメではない。
子供自身が、何かを学んでいる実感をはっきりと持つことができなければ、そんな授業は、すぐに飽きられてしまう。

授業が楽しいわけがない。子供に問うてみるがいい。授業は「楽しいものではない」と、笑いながら答えるだろう。
実際、授業が「楽しい」ようでは困る。

テレビゲームをするような、漫画や、お笑い芸人を見るような、そんな授業であっては、断じていけない。

いい年をした大人なら、少し考えればわかるはずだ。
学校は、日本の学問伝統、人類の知的遺産を後進に伝授することである。いくばくかの厳しさがなければならない。
目的をもって学んだ経験のある人は、誰でも知っているだろう。忍耐や意欲の意味は、そこにある。

犬や馬ではあるまいに、子どもに媚びてへつらって、勉強していただくことが、授業ではない。
子供に苦労して学ばせろ、遊びと学習時間との間に、大きな溝があるべきだ、と古人は言った。
けだし、至言である。
勉強方法は、昔から、一つしかない。忍耐と繰り返しである。
年月長く辛抱強く途切れることなく学べ、それ以外に方法はない、と宣長が言っている(『うひ山踏み』)。


何にでも打算や商売が入る。目新しい物は常に新鮮風を装う。教具教材やプリントの類が、巷に山ほどあふれている。
しかし、学校には、教科書があり、教員がいて、雨風をしのげる場所がある。教科書、黒板、ノートもあるだろう。
その他に何が必要か。
優れた授業があればいい。
当たりの教員に巡り会えないからといって、機械(PC)では駄目である。
その意味でも、世の中は不公平である。それでいいのである。

 

 

 

教員は、対象年齢が上がるほど、楽勝である。ならば、大学教員と小学校教員の給料は、差をつけなければならない。

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大学院生の研究発表会で、大学院教員のM(仮名、年齢58歳)が、一人ひとりの発表の後に、しきりにこう言う。
「で、今日の成果としては・・・」。なんだか、忙しない奴だと思ったが、考えてみると、なかなか正直な男である。

と言うのも、大学や院の研究発表会のほとんどは、プレゼンテーションの練習場である。パワーポイントだかなんだかを自慢げに使って、おしゃべりをする。
肝心の内容は、文章にすれば数十行ですむような代物で、その数十行も内容空疎というか、雨の日は雨が降る、といった程度である。
馬鹿馬鹿しい。

Mは、もうこんな毎日に嫌気がさしていたのだろう。つまらない発表にも、少しでも何かを得たかったのだろう。
だから、会の度に、新しい知見を得ることができたのかどうかを、常に自問自答していたのである。

考えてみると、Mは、なかなか真面目な男だったわけである。
大学での、雑多な会が、発表者にとっては、嬉しい学芸会で、聞き手にとっては、時間潰し以外の何ものでもないことを誰よりも感じ取っていたのだろう。
大学教員の気楽な毎日にも、この程度の悩みは、あるのである。

大学ついでに、高校の話もしておこう。
高校教員の仕事は、小学校や中学校の教員に比べると楽である。
しかしこれも、人によりけり、当人次第であることは、あなたの職場と同様である。どんな仕事でも、見合った能力がなければ、苦しいものだ。

かつて、大学教員らの会合で、教員連のあまりの能力不足にあきれ果てて、面と向かって愚痴を言ったら、横の某教授がつぶやくには、「そういいなさんな、論文書けなくて苦労しているんだから」

それを聞いて、私が(腹の底で)どれほど怒り狂ったか、想像してくれ。
誰も論文と称する下手な作文を書いてくれと頼んでない。そもそも、まともな論文を書くこともできないで、何が大学教員、何が研究者だろう。
「すぐに大学から消え失せろ」と気持ちだけで、口にしなかったのは、場を壊したくなかったからである。

それはともかく、高校教員も、一応、高等教育の分類だから、不真面目で不勉強で、できない坊主の男女を集めたような二流以下の高校でも、授業はそれなりに進めなければならない。
それどころか、私立や一部の公立では、生徒たちに、なんとか少しでも勉強させて、どこでもいいから「大学もどき」に、進学していただかなくてはならない。

どうせ、進学先なんてたかが知れている所ばかりである。それでも、進学できなければ、私立高校は、来年から、お客(新入生)が来なくなって潰れてしまう。公立高校は、委員会筋や校長会やら同期の連中から嫌味を言われて肩身が狭い。何より、教員自身が辛いだろう。
そんなわけで、下手な授業しかできなくても、生徒に、テストが解けるだけの学力らしいものをつけようと、各々の教員なりに、がんばっているのである。

高校教員でも、体育、音楽、美術、家庭科の類の教科を教えるのは楽勝で、毎日が天国である。
国語や英語の教科担当は地獄である。数学は、すこぶる楽勝だ。あなたが、数学の教員なら、知っているとおり。数学は主要科目の中で最も安穏である。
国語科は仕事量が半端ない。最も負担の多い科目だ。

英語科は実力以上に評価してもらえる。ごまかしがきくし、いまだに人気がある。
その他の科目は、どれも楽勝過ぎるので、本人に志がなければ、やがて腐る。ほとんどの教員は、喜んで腐っていく。

こうしてみると、大学院も大学も高校も、教員の仕事は、対象の子供の年齢が上がれば上がるほど、楽ちんであることがお分かりだろう。

ならば、お気楽な大学「教員」には、それに見合った給料を、負担の多い大変な仕事である小学校教員には、より多くの給与を与えることが、妥当である。

 

 

 

先生には尊敬と感謝。マスコミや政治屋とは扱いが違う。

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旅客来たりて嘆いて曰く。

子供が、親の期待通りまたは予定通りに育たなかった、あるいは、思うように伸びなかった。
だからといって、その原因または責任を、学校や教員に押し付けて良いものかどうか。
そんなこと、並の神経の持ち主なら、すぐにわかりそうなものなのに、それがわからない。

親だからである。
親と子とは一心同体のようなものである。親はわが子が見えないのである。したがって、自分の子供を、正面から見ることができない。

学校には、落ち着きがなく、いい加減で、宿題もやらず、集中力がなく、態度が悪く、何をやらせても中途半端で、友達にも迷惑をかけ、意地悪で、性悪で、ずるくて、怠惰な子供が必ずいる。
しかし、親はそれを認めない、認めたくない。
他人のせいにする。学校の、教員の、ご近所の、社会の、国家の、ついには、夏の暑さや冬の寒さのためだ、とでも言いかねない。

しかしである。
貴殿の息子や娘は、貴殿の実の子供である。一応、貴殿がここまで育て上げた。
その子が、学校に通って、ぐんぐん伸びると思うのか?
もちろん、伸びる、それはそうだ。教室でどんどん教われば、少しは伸びないわけがない。
でも、それでは不十分だと言うのか。
見上げた図々しさである。

親や子の図々しさが、これほどあからさまになったのも、教員に必要な権威がないからである。
地方の、まあまあ進学率の高い高校の教員が、中身以上の評価をされてしまうのも、困ったものだが、一般に小中学校の教員の「権威」は低すぎる。というか、ほとんどない。

小中学校の教員は、それなりの権威を持つどころか、地域の大人や、子供や親から、「監視され、判定され、評価され」る対象である。文科省以下、賑々しく喧伝している。

馬鹿にするにも、ほどがある。
教育は、人間の一生を決めることが多い。
人生の分岐点とまではいわないが、大事のひとつであるには違いない。
学校教育の中心は、教員である。教師であり、先生である。
恐れ多くて、親子は、教員の自宅の方角に足を向けて眠れないのではないか。

教員の中には、馬鹿もいることだろう。しかし、政治屋やマスコミ人ほどには、馬鹿は多くない。
仮にも「教員」である。たとえ馬鹿だとしても、普通の馬鹿ではない。意味のある馬鹿である。
だから、どんな教員に対しても、子供や親や世間は、幾ばくかの敬意と感謝とを、持たなければならないである。

そんな馬鹿な、と言いたいだろう。
言うがいい。

しかし、敬意と感謝とを持たないで、学校や教員へ応接しても、その結果はあまり良いことにならないだろう。

現実には、教員は弱い。「虫けら」ほどにも、弱い存在である。蜘蛛のようにはいつくばって、保護者や子供にまで、土下座をする。
親子は、教員をへこませて、鼻高々であある。不平不満の溜飲を下げたことだろう。

だが、それが教育だろうか。

感謝の念と敬意とをもって、教員へ接することが、結局は子供の得になる。子供を幸せにする近道である。そして、あなたもハッピーになることだろう。

小学校から大学院まで、教員の能力がどんどん下がる。大学や大学院はアメリカに行くのが吉。

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日本では、小学校、中学校、高校、大学、大学院と、子供の年齢が上がるたびに、教育レベルが、下がっていく。
教員の質が、小学校教員から大学院教員に向けて、どんどん悪くなる。不真面目で、いい加減な仕事ぶりになってくる。
教員個人だけが悪いというわけではない。社会全体の認識や制度が、それを後押ししている。

日本の小学校は、おしなべて、教員の能力が高く、並外れた熱心さで、子供たちを教えている。
スイスやイギリスやシンガポールにある、ほんの一握りの富裕層の子供が通う、私立小学校のことではない。
日本では、公立の小学校の教員の質が世界一なのである。丁寧で地道な教育活動は、社会的評価や待遇を思うとき、涙なくして語ることができない。
中学高校と上がるにしたがって、残念な教員が増えてくるのではあるが、それにしても、高等学校までは、やはり、世界一真面目で熱心な教員が多いといえるだろう。

ところが、一転して、日本の大学は、驚くほど悲惨である。教員の質が悪すぎる。
大学教員の無能無知無策は、言うまでもない。あれは時間潰しであり、無益であり、子供のだらしなさを増大させ、家庭や子供本人の時間と資金とを無駄にする点でも、有害である。

だったら、日本の大学に行かなければいいのか。左様、行かなければ、よろしい。

しかし、何事も、なりゆき、仕組みというものがある。
構造として既にあるものは、ない昔に戻ることができない。
無駄も有用、清き川に魚はいないと言う。諸悪の根源である日本の大学及び大学教員も、既に存在している以上、一挙に、消し去ることができない。

どうしよう、どうするか。
海外の大学に行くしかないだろう。すくなくとも、大学院は海外に行け。
金なんてかからない、返済不要の奨学金が山ほどある。それを得て、行くがいい。
得ることができないのならば、日本にいるしかない。

そして、そもそも遊園地の別名である「日本の大学」には、入らないことである。


以上は、知人の言である。
海外の大学というが、おそらくアメリカの大学のことだろう。多額の奨学金が出る。
海外の大学で奨学金を得るには、英語力がいる。基礎学力がいる。それはどこで身につければいいのだろう。

ありがたいことに、素晴らしい場所がある。

日本の公立学校、小中高校である。世界一の先生と制度とがある。授業料が無料である。勉強するのに、邪魔をしない。しないどころか、応援してくれる。
貴様、勉強なんかしやがってと、脅されたり刺されたりしない。高校の教室で授業中に銃で撃たれたりしない。
教員たちは、一生懸命に教えてくれる。世間も、子供が学ぶのを苦々しく感じたりしない。爆弾を自習室に投げ込んだりしない。

日本の小中高等学校は、世界一の楽園である。これほど恵まれた場所で、自分から進んで熱心に勉強をしないのならば、大学教育と縁がないのである。
縁あれば、学ぶがいいだろう、だれも咎めはしない。そして、大学や大学院は、アメリカの奨学金を得て、アメリカで学ぶがいい。グローバル教育とやらで、一挙両得である。

 

書店にあふれる新刊書。良書は図書館で眠っている。本の選択眼が必要。 

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近くの大型書店によく立ち寄るが、相も変わらず駄本、ごみ本の山である。よくもまあ、こんなものを棚に並べて人様に売りつけるものだと感心する。書店関係者もそれを知って、辺本承知で置いているのだろう。短期でも売れさえすれば儲けものである。
テレビなどで芸人同様に顔が売れた「知識人」の、なんだか肩に力の入った書名の本がある。同じく知識人とやらが「お二人」で、あれこれ対談する風の本がある。見れば茶店のおしゃべりの類に過ぎないくせに、タイトルだけはご立派である。
何年後に残る仕事はこれこれだの、未来を予測するだの、あれはこうなる、こうなるべき、一歩先を行くなんとか等々、競馬の予想ではあるまいに聞き苦しい、見苦しい。大きなお世話だ。
または、嫌われる勇気だの、他人を動かす一言だの、ストレス解消だの、よくもまあ、考え付くものである。
その隣では、歴史もの戦争もの、わかったような口を利く政治経済歴史評論家研究者もどきの、ぶしつけに跋扈することよ。
くだくだしいから、もうよすが、書店の売れ筋または売れ筋にしたい本どもを眺めるほど、興味深いものはない。
人は他人に説教をしたがるものだが、それ以上に、他人から説教されたがる性質がある。でなければ、あれほど下らない印刷物を、わざわざ金を払って時間をつぶしてまでも、買って読むわけはないだろう。
何かしら教えてもらいたいのである。導いてもらいたいのである。
自分で考えようとせず、他人の言説で納得したいのである。悩んでいるのか、迷っているのである。

 

社会に出て自分の稼いだ金で本を買うようになると、簡易で目新しく手っ取り早い「先生」を求めて、本屋をうろつく。駄本の山は、書店で媚びを売って手招きしている。
テレビの怪しい「教養番組」や、ネットに溢れる「教えるシリーズ」も、ネギカモを待ち構えている。

人生他人の師となるなかれというが、他人の先生になりたがるのは人の常である。それ以上に、私たちは、「先生あのね」が大好きで、いつも何事かを誰かから教えてもらいたい、他人の頭で考えたい、他人の言説をオウム返しに言いたい。

ならば、せめて臭気芬々たる書店を去って、図書館に行け。良書はその奥に眠っている。
テレビ新聞マスコミの類を捨てて、ネットの渦から慎重に情報らしきものを得て、そののち図書館に行け、そして古典とみなされるべき本を読んだ後、もしも身辺に置くことを強く望むなら、ようやく身銭を切って買うがいい。

書店でいきなり本を買うのは、愚かなことであると、知人が言った。
私は知人に賛成するものである。現に、買うべき本など、ただの一冊もない。
あるとすれば、それはすでに持っている。持っていなければ、図書館にある。そこにもなければ、それは不要の本である。

 

何年もの間、鴎外の作品を教材にして指導をした。その詳細はいずれ紹介しようと思うが、子供たちは、その文体ですぐに文章が書けるようになった。学力テストでも、もちろん、当学級が群を抜いた。一つを徹底することによって、国語力はもちろん、他教科の学習効率までも一挙に高めることができる。
要は、教材と指導法である。

何を選びどう読むか。選択眼と読解力をどこでつけるか、つけることができるのか。

区々たる愚かな出版事情のことではない。