ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

「楽しい授業」は、NHK朝の連続ドラマのような俗悪番組と同類か。教科書と黒板と、そして優れた教員がいれば、それでいい。

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平成30年現在、多人数の教室は減った。かといって、学級定員が少なければいいってものでもない。
小学校で一学級の人数が、40人を越えても、落ち着いて静かに学習できる学級もあれば、たとえ26人でも騒がしく落ち着きのない学級もあった。
しかし、学級の児童数が20人以下になると、極端に騒がしい学級はなくなる。
それでも落ち着いていないとしたら、子供か親か教員のいずれかに、深刻な問題がある場合で、それはここでは論じない。
静かな学習時間は、大切である。喧噪の教室では、知的鍛錬ができない。

 

住んでいる場所は、想像以上に人の心情に影響する。住環境が良ければ、子供は落ち着く。
学校にも当然言えることで、環境の良い場所にゆったりとした敷地、清潔な校舎なら、申し分ない。その逆は、想像してくれ。

住んでいる場所が違い、校舎が違い、周りの環境が違えば、教育効果も異なる。日当たりや水はけの良いところは、花木だってどんどん伸びるだろう。その逆も、当然である。
しかし、建前上、平等に扱っていることになっているから、学校や子供の住環境について云々するのはタブーである。見て見ぬ振りが、我が身のためである。
こんなところにも、みんな同じ、みんな一緒の、悪しき発想が出ている。

一時期、流行った「楽しい授業」もそうで、子供の笑い声が起こらなければ、良い授業ではないかのような空気があった。
不思議なことである。
中学校や高校では、まして大学では、「楽しい授業」なんて言わないのに、どういうわけか、小学校では、楽しく分かる授業、などという。
NHK連続テレビ小説じゃあるまいし、テキトーな場面設定でごまかして、都合次第で話を進めるのはよしたほうがいい。授業はエンタメではない。
子供自身が、何かを学んでいる実感をはっきりと持つことができなければ、そんな授業は、すぐに飽きられてしまう。

授業が楽しいわけがない。子供に問うてみるがいい。授業は「楽しいものではない」と、笑いながら答えるだろう。
実際、授業が「楽しい」ようでは困る。

テレビゲームをするような、漫画や、お笑い芸人を見るような、そんな授業であっては、断じていけない。

いい年をした大人なら、少し考えればわかるはずだ。
学校は、日本の学問伝統、人類の知的遺産を後進に伝授することである。いくばくかの厳しさがなければならない。
目的をもって学んだ経験のある人は、誰でも知っているだろう。忍耐や意欲の意味は、そこにある。

犬や馬ではあるまいに、子どもに媚びてへつらって、勉強していただくことが、授業ではない。
子供に苦労して学ばせろ、遊びと学習時間との間に、大きな溝があるべきだ、と古人は言った。
けだし、至言である。
勉強方法は、昔から、一つしかない。忍耐と繰り返しである。
年月長く辛抱強く途切れることなく学べ、それ以外に方法はない、と宣長が言っている(『うひ山踏み』)。


何にでも打算や商売が入る。目新しい物は常に新鮮風を装う。教具教材やプリントの類が、巷に山ほどあふれている。
しかし、学校には、教科書があり、教員がいて、雨風をしのげる場所がある。教科書、黒板、ノートもあるだろう。
その他に何が必要か。
優れた授業があればいい。
当たりの教員に巡り会えないからといって、機械(PC)では駄目である。
その意味でも、世の中は不公平である。それでいいのである。