ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

書店にあふれる新刊書。良書は図書館で眠っている。本の選択眼が必要。 

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近くの大型書店によく立ち寄るが、相も変わらず駄本、ごみ本の山である。よくもまあ、こんなものを棚に並べて人様に売りつけるものだと感心する。書店関係者もそれを知って、辺本承知で置いているのだろう。短期でも売れさえすれば儲けものである。
テレビなどで芸人同様に顔が売れた「知識人」の、なんだか肩に力の入った書名の本がある。同じく知識人とやらが「お二人」で、あれこれ対談する風の本がある。見れば茶店のおしゃべりの類に過ぎないくせに、タイトルだけはご立派である。
何年後に残る仕事はこれこれだの、未来を予測するだの、あれはこうなる、こうなるべき、一歩先を行くなんとか等々、競馬の予想ではあるまいに聞き苦しい、見苦しい。大きなお世話だ。
または、嫌われる勇気だの、他人を動かす一言だの、ストレス解消だの、よくもまあ、考え付くものである。
その隣では、歴史もの戦争もの、わかったような口を利く政治経済歴史評論家研究者もどきの、ぶしつけに跋扈することよ。
くだくだしいから、もうよすが、書店の売れ筋または売れ筋にしたい本どもを眺めるほど、興味深いものはない。
人は他人に説教をしたがるものだが、それ以上に、他人から説教されたがる性質がある。でなければ、あれほど下らない印刷物を、わざわざ金を払って時間をつぶしてまでも、買って読むわけはないだろう。
何かしら教えてもらいたいのである。導いてもらいたいのである。
自分で考えようとせず、他人の言説で納得したいのである。悩んでいるのか、迷っているのである。

 

社会に出て自分の稼いだ金で本を買うようになると、簡易で目新しく手っ取り早い「先生」を求めて、本屋をうろつく。駄本の山は、書店で媚びを売って手招きしている。
テレビの怪しい「教養番組」や、ネットに溢れる「教えるシリーズ」も、ネギカモを待ち構えている。

人生他人の師となるなかれというが、他人の先生になりたがるのは人の常である。それ以上に、私たちは、「先生あのね」が大好きで、いつも何事かを誰かから教えてもらいたい、他人の頭で考えたい、他人の言説をオウム返しに言いたい。

ならば、せめて臭気芬々たる書店を去って、図書館に行け。良書はその奥に眠っている。
テレビ新聞マスコミの類を捨てて、ネットの渦から慎重に情報らしきものを得て、そののち図書館に行け、そして古典とみなされるべき本を読んだ後、もしも身辺に置くことを強く望むなら、ようやく身銭を切って買うがいい。

書店でいきなり本を買うのは、愚かなことであると、知人が言った。
私は知人に賛成するものである。現に、買うべき本など、ただの一冊もない。
あるとすれば、それはすでに持っている。持っていなければ、図書館にある。そこにもなければ、それは不要の本である。

 

何年もの間、鴎外の作品を教材にして指導をした。その詳細はいずれ紹介しようと思うが、子供たちは、その文体ですぐに文章が書けるようになった。学力テストでも、もちろん、当学級が群を抜いた。一つを徹底することによって、国語力はもちろん、他教科の学習効率までも一挙に高めることができる。
要は、教材と指導法である。

何を選びどう読むか。選択眼と読解力をどこでつけるか、つけることができるのか。

区々たる愚かな出版事情のことではない。