ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

とんでもない中学校の運動会。親と子と教員の「甘い関係」。

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中学校(A校)の運動会(体育祭)に行った。

いやはやとんでもない運動会だった。テントは本部席と称する中央の一つだけ、運動場には大きな円らしきものが、ぐにゃぐにゃの白線で引いてある。
生徒達は甲高い放送部の女子生徒の声で、なんとなく集まったり走ったりしている。種目は障害物競走、かけっこ、騎馬戦のようなものである。そのだらしのなさと、規律のないこと、漫然たる雰囲気、まったくあきれて、ものが言えない。

練習した風にも思えず、ただ体育祭という行事をこなすために、日曜日の午後、運動場でぶらぶらしているだけである。これを保護者はなんと思って見ているのだろう。案の定、全校生徒の3割も保護者が来ていない。来ている親たちは、運動場を囲んで、所在なげに立って見ている。憤慨するでもない。慣れっこなのであろう。

隣町の中学校(B校)の運動会と何という差であろうか。
そこでは、多くのテントが立ち並び、各地区ごとに区分けされ、セパレートコースが美しく引かれており、種目も盛りだくさんで、練習の成果よろしい表現運動や組み体操があった。保護者も、全校生徒以上の人数が集まり、地域の参加もあって、やんやの応援である。

この違いはどこから来るのだろうか。

教員のやる気である。

A校の教員はやる気がない。保護者も、学校に厳しい注文をつけない。ただ漫然と通わせている。
A校の立地条件は、小高い丘の上にあって、学習活動が、まったく地域の目から隠れたところで行なわれている。
一方、B校は、中学校は団地の谷底にあり、校庭やグランドも、教室の授業も、地域の家々から見下ろせて、監視された状況にある。監視されやすいことが、特に良いわけではないが、学校の教員には、いい加減なことはできないという圧力にはなるだろう。

A校は、毎年、このようなふやけた運動会と聞く。
A校の教員のほとんどは教員組合の熱心な活動家だそうである。
組合活動が盛んな学校では、不思議と、教育がダメになる傾向がある。伝統文化の勉強も、日本人の誇りの育成も、学習規律の徹底も、大嫌いだからだろう。
生徒もやる気を起こさないはずである。

イェーリングの『権利のための闘争』の冒頭に、「法の目的は平和であり、それに達する手段は闘争である」という文句がある。これを、もじるなら「教育の目的は、学力の向上であり、それに達する手段は、(教員に対する)闘争である」というのは言い過ぎだろうか。
中学校のだらしのない体育祭も、ついでに乱れた授業風景も、親と教員と子供との、甘い共同作業の結果なのかもしれない。



 

出張の無駄。大学付属学校の人気と、つまらない研究会。

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日本には、大学が必要以上にありすぎる。各大学は、一つ一つ、商店であって、税金から膨大な金を配分されて、楽勝の日々である。こんな商売は、見たことがない。
それにしても、商店には人気不人気があるはずなのに、そのオマケである、大学付属の高校、中、小学校は、どこの商店でも、人気がある。
それというのも、私立大学の付属校は、A大学の付属ならば、原則として、A大学に入ることができる。早めの入学保証である。
国立大の付属校は、露骨に大学入学保証ができない代わりに、知名度がある。学費が安い。教員の実力が怪しくても、学級は勉強熱心な子供がほとんどだから、親は安心して、我が子を通学させた。

さて、国立大学付属校では、年に数回、研究会と称する「集い」を行う。小学部は、よくする。
都道府県には、それなりの予算があるから、研修出張という名目で、せっせと、教員が出かけていくが、あれは、いかがなものであろうか。

止めろとは、言わない。業種は違っても、研修出張は、企業・官公庁のほとんどでやっている。予算の消化、気分転換、裏の目的も大きいから、出張をなくすと、各方面に影響が出てしまう。

府議員等が、外交や視察という名目で、外国へ物見遊山に行くのも、一種の出張であるし、実務者レベルの交渉と称して、中堅職員があらかじめ遊びに行くのも、同じことである。蠅のようにくっついていく、マスコミの記者連中も仕事名目だが、遊びである。
とにかく、通常の仕事現場を離れて、どこかに出かけていけば、それは出張である。
何事も、無駄が必要ということだろう。

出張するのと、出張せずに現場にいたときと、どちらが快適かといえば、よほどのことでない限り、出張の方が楽である。出張が嫌だ、辛い、行きたくない、というのは、普段の職場が、異常に楽すぎるのではなかろうか。

付属校の研究会は、付属学校が存在することを世間へアピールするためであるから、やりたがるのは、わからないでもない。
しかし、効果のほどは、はなはだ怪しい。あれは、付属校と都道府県教委とが、互いに了解する談合のようなものではないか。
公開授業に慣れている役者みたいな子供を使って、授業らしきものをして、あとで和気藹々おしゃべりし合う。これを「研究協議会」と称する。

これは、もうそろそろ止めないか。時間と金との無駄である。
うっちゃっておいて、付属学校そのものを、滅びるにまかせたほうが、世のためではないか。



 

 

社会科は不要な教科なのか。『はだしのゲン』閲覧制限撤回と、教委職員の度素人ぶり。

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ずいぶん前のことになるが、ある席で、次のような意見を聞いた。

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社会科なんて無駄な教科は、なくすに限る。

先の戦争に負けて以来、図々しくも、教科の一つに、居座っている。
いったい、社会科で、何を教えているのだろうか。
あれは学問ではない。時間つぶしの一種である。

中学生は、まだ子供だ。公民だの政経だの、馬鹿も休み休み言え。
おまけに洟垂れ小僧の小学生にまで、「社会科」だそうである。

社会科教科書の基礎基本は、「チャイナ大好き」、「コリア友達」、「反日」の三つである。嘘だと思うなら、小学校6年生の社会科教科書を覗いて見るがいい。中学校の歴史公民教科書を手に取るがいい。

先日も「中国原潜の日本領海侵犯は、意図的」だなんて、腰抜け新聞どもが、ようやく遠慮がちに書き出した。
そんなこと、当たり前だろう。
「技術的な操作ミスで、日本領海へ誤って入った」なんて、子供だましのような嘘を平気でつく。

外交は、嘘で固めたものだから、それは驚くに値しない。それにしても、お人好しの日本人は、嘘を信じる人もいる。

シナにとって、日本は、仮想敵国どころか、奴隷にしたい国の筆頭である。
征服しなければならない東夷である。
中華思想華夷秩序である。それすら分からないのなら、社会科なんて教えるな。

自分たちの国土および国民を破滅さえるために、せっせと敵(中国、北朝鮮、韓国)に金をくれてやってるのである。無惨である。

もしも社会科が役に立つのなら、日本の独立の必要性と、こんな有様になった原因とを、教えてるべきではないのか。
実際の授業は、その逆で、戦後の日本をバラ色、戦前は真っ暗、日本の兵隊は悪いことしました、では、社会科なんてないほうがましである。

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色々、意見があるものである。


さて、話は変わるが、『はだしのゲン』という汚らしいマンガがある。気分の悪くなる画風で、見るに耐えない。

日本の歴史文化への見識が著しく低い全国の小中高等学校は、原爆に関係している本なら、条件反射のように、飛びついてしまう。学校の図書室に、はだしのゲン全冊を何セットも買ってご満悦である。

小学校では、「図書の時間」に、子供に無理やり見せる。
あまりの絵のえげつなさに気分が悪くなって、保健室へ逃げ出す子もいる。
マンガなら何でもいいよ、と平気な子もいる。

こんなものを子供に読ませるのは犯罪である。まして学校図書館に常備するなんて、どうかしている。これは反日プロパガンダパンフレットにすぎない。

嘘だと思うのなら、機会があれば、見るといい。
その内容に唖然とするはずだ。

これを児童生徒に見せたがる連中は、スターリンごっこが好きなコミュニストや毛主席万歳の北京中共政府のシンパではないだろうか。朝日新聞やNHK他の利得マスコミは、今も変わらず、これからも、ゲンが大好きなのである。

NHKは、某市の教育委員会が、この「過激かつ下品な漫画」の閲覧制限要請を撤回した、と嬉しそうに報道した。

左翼の巣でもあるNHKは、ゲンの作者と似通っている。皇室への憎しみと、日本の伝統文化への蔑視である。

朝日やNHKを例に出すまでもない。ほとんどの公立学校は社会主義どっぷりの教員が多い。市教委の決定は、覆される可能性は最初からあった。つまり、事務局は勝てる可能性が小さかった。
「問題」をマスコミにリークすれば、結局、役所は保身に走る。これは役所人間の習性で、どうしようもない。しかもゲンはすでに日本国中の小中学校、高校で、図書室に完備されている「名著」である。

「日本中の左翼教員を敵に回す気か。この木っ端役人どもが」と一括されたら、教育委員会事務局全員震え上がって、食事も喉を通らなくなる。 

勝つには、あらかじめいくつかの教委と連絡を取り合って、複数体制でするべきで、単発に決定しても、かえって敵側を利することになる。

どこまでも、素人である。

 

学校教育に群がるハイエナたち。ゆとり、総合的学習の大失策。

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小学校低学年の「生活科」だの、「総合的学習」だの、みょうちきりんな、「お遊び」の時間が、授業とされている。実に嘆かわしいことである。以前は、学校の外で、子供が自然と身につけたことばかりだ。

家庭では難しいから、学校で、半ば強制的にやらせるのだ、という理屈をつけたいのだろうが、ちょっと待ってくれ。学校は、家庭の代わりではない。
遊園地でもない、お子様探検隊でもない。
パンを作ったり、繁華街をうろうろしたり、校庭で芋を焼いたりするのが、授業だろうか。悪い冗談ではないか。
音読すらまともに訓練しないで、葉っぱを集めましょう、などと大真面目でやっている。教員も子も親も、無邪気に嬉しげである。

 

実生活では、身に付かないようなことを、強制的に『勉強』させることが、学校の本来の役目である。教えるプロとされている教員の仕事である。

教員の実力が頼りないことと、だから教科の中身を変えたり程度を下げたりすることとは、話が別である。

断言する。
総合学習とかいう「お遊び」は、日本の国力を下げることになるだろう。子供の知的レベルが哀れなほど下がって、親も子も我慢できなくなるだろう。そのとき、総合的学習だの「ゆとり」だのを喧伝した教育行政関係者や大学教員たちはなんと言って、弁解するだろうか。


以上は1991年ごろに書いたものだ。
どうだ、図星になっただろう。
今になって、「お遊び」による、「教育効果」のあまりの酷さに、行政もマスコミも親も(肝心の子供までもが)気づいて、悲鳴をあげだした。
もう遅い。

しかし、総合的学習の類は、なかなかにしぶとい。当時の関係者、寺脇某やおだて挙げたマスコミその他のメンツをつぶさないために、屁理屈で胡麻化そうとする。

ところで、こういう見方もできるのではなかろうか。
簡単に言うと、総合的学習は、小学校低学年では理科と社会とを包含している。高学年でも、中途半端に理科社会の内容が盛り込まれている。
だから、これはむしろ、将来的に理科と社会とを義務教育から、特に小学校教育からなくしてしまうための布石にもなる。
もし、そうだとすれば、実に大賛成である。

初等教育では、理科や社会は全然必要ない。百害あって一利なしとは言わないが、時間の無駄である。
プラトンは、「政治は大人の仕事である」と言った。子供に、社会科学の真似事をさせてみても、理解できるはずがない。人生経験がものを言う。
現在の「社会科」は、義務教育では、「歴史学習」につきるだろう。それは国語の中に含ませて、歴史の良書を選び、徹底的に読ませればいいだろう。薄っぺらで、しかも大学教員(あるいはその下請けのゼミの院生や学生)が書いた駄文では、駄目である。一流の文章家、歴史家の書いたものがよい。これらは読んで面白く、しかも道徳にもなる。

「理科」もまた、観察実験と言うが、これがお粗末至極である。
そんなことより、ファーブルでも、とことん読ませればよい。興味は子供が自ら醸成するだろう。疑問も生まれ、自ら探求するようになるだろう。
理科・社会をなくしてしまって、国語・数学を中心に学校教育を立て直す。義務教育の現代化であり、必要急務な「改革」と言えるだろう。


さて、
教育史上の巨悪と言ってもいい「総合的な学習」、「ゆとり教育」が、指導要領に収まる以前から、子供の「発表」のようなものは、あった。
とくにそれは、参観日の授業で、よく、見かけた。
子供が数人ずつグループに分れて、調べたレポート(のようなもの)や、画用紙になにやら書き込んだものを、発表する。または、身振り手振りを交えて発表する。
何をやっているんだか、さっぱりわからない。子供のやることだから微笑ましく可愛くもあるが、実はそれが教員のねらいである。
自分の下手くそな授業を見せずにすむ。

近ごろは、教育に詳しい親が多い。教科内容や指導法について、親の方が、教員以上の知識があるかもしれない。となると、教員は、参観授業で教えることができない。自分の実力を見破られてしまう。
そこで、あらかじめ何度もリハーサルをさせて、子供に発表(のようなもの)をさせる。お芝居である。
総合的学習が、指導要領に入ったことが、嬉しくてしょうがない。発表会と称する「やらせ」で、すべてオーライである。

無意味な遊びで、子供に学力がつくわけがない。あれは、テレビのバレエティショウの下手な(しかし、けなげにもまじめな)物真似である。

公立は、だから、いけない。私立がいいわけでもない。
愛想を尽かして、私立に入れたいと考える親もいる。しかし、私立小学校は、数が少ない。第一、授業料が高い。教員のレベルも怪しい。
日本の公教育なんて、今やこんなていたらくである。


三人のお子さんが小学校在籍中の方のお話を、紹介する。

~~~ ~~~ ~~~

授業参観に思うこと。

「プレゼンしよう」
毎度毎度、子供達の「プレゼン:普段の生活の発表」には、いい加減飽き飽きなのです。
(私達が子供の頃の授業参観は、先生の「普通の授業」をしている姿と子供達の反応を見てもらっていたような気がします。机間巡視をされる先生に、注意されたらどうしよう・・とか、手を揚げて発表しても間違えたらどうしよう・・などと、心地よいドキドキ感があったように思い出されます。)
私達「親」は、先生が普段、どのように子供達を指導してくださっているのか、本当は、それが観たいのに「子供達が、プレゼンします」(私には、プレゼンと言う言葉の響きに酔っているような気がしてならないのですが。ただの「発表会」・・と思うのです。しかしながら「発表会」ではないそうです。
(中略・・・)
縄跳びの技術を見せてくれたり、「お父さん、お母さん生んでくれてありがとう」なんて言葉を言ってくれたりするのは、普段自宅でも観察できますし、声を揃えて無表情で言われても、なんの嬉しさも込み上げてこないのは、私がおかしいのでしょうか?
確かに、低学年の子供達は、それはそれでかわいいのですが・・。
そんな、お仕着せの練習をした子供達の姿を見せて、先生方は、なんとも思わないのでしょうか?幼稚園児にも劣るような内容で・・。

ゆとりの教育で、主要教科の学習時間がなかなか充実出来ないと嘆いていらっしゃるような先生もいるのでしょうが、この「わけのわからないプレゼン」の練習も、かなりの授業時間を割いて、やっておられることと思います。(子供達が「今日もまた授業参観の練習だよ・・・やだなぁ・・と言うので、なんとなく、そう感じました。その練習の間、先生は何やってるの?と聞いたら、「知らない、どっか行ってるんじゃない?」です。)

~~~ ~~~ ~~~

学校教育の目的は、知識・技術の伝達以外にはない。それ以上または以下のことができると思うのは、教員の傲慢である。
教員は、自分が持っている程のことしか教えることができない。
文科省やマスコミの類が利を求めて妄想した、ゆとり、総合学習、生きる力などの宣伝文句は、すべてインチキである。

もう一度言う。
教育は、知識と技術の伝達である。その他は、枝葉であり、害の大きい毒である。よく覚えておくがいい。
私があれこれ書くのは、実に、この一点が言いたいためなのだ。
学校教育から、夢想妄想を取り除き、知識技術の伝達を徹底させること。教員の必要不可欠の仕事内容はそこにある。

本の学校教育を、幼稚園から大学院までと定義するなら、この目的に沿った制度と施設と教員団が必要だ。

しかし現状はどうだろう。絶望するしかない。
無能な教員、異常な入試制度、あきれ果てた文科省製の「学習指導要領」、害悪の塊のマスコミ利権集団、安楽会社の国会議員等々、教育を利の手段としか見ていない。彼らは、単純明快なはずの教育目的を曖昧模糊としたごっこ遊びに仕立てあげて、金の生る木のままにしておきたいのである。

 

坂本龍馬はテロリストなのか。教育は変わらない、変えてはいけない。

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子供が変わった。社会も変わった。
と、誰も彼もが、口を揃えていう。

たとえそうだとしても、だから学校も変わるべきだ、というのは、ずいぶん変な話である。
少々では変わらないのが、変えてはならないのが、文化伝統である。
学校も一種の文化である。
それが無闇に変わってどうする。

過日、地方都市で教育長をしていた男が、旅のついでに、某市の中学校の授業を参観した。そして授業後、感想として、こう言った。
「私が授業を受けていた50年前と、やってることは同じですな」
それを聞いて、関係者一同、反省すること、しきりだったとか。

馬鹿だな。反省なんか必要ない。
50年前と同じで、問題ない。
何年たっても、児童生徒学生と教員との関係、学校の存在、教え学ぶ行為、それは変わりはない。

元教育長の言ったことは、年寄りの戯言と、笑っていればいいのである。気にするな。

教育関係者は、常に自信不足で、しかも不安である。
教育行政に関係する人々、教育事務所(教育委員会)の職員は、寄って立つ場所がない。実践がないからである。

たとえ教員経験があって、それなりの知識を多少持っていたとしても、やっぱり腰が定まらない。

彼らばかりではない。
先の大戦で負けて以来、進駐軍や1946年憲法共産主義、為にするマスコミの洗脳、その時々で、国民の意識は揺れに揺れて、敗戦後のGHQ支配が呪縛となってしまった。宗主国アメリカに、政界マスコミ官僚組織その他一同、まったく頭が上がらない。
後遺症は、これまでも今も、これからも悪い状態で残り続ける。

以上のように言うと、不勉強で、しかも「歴史認識」とやらが苦手な大方の教員は、顔を顰めるだろうが、教員たるもの、少しは自分の頭で、考えた方がいい。
採点と授業の準備で追われているばかりでは、世間がますます狭くなる。
ここで言う世間とは、私たちを取り巻くテレビラジオ新聞雑誌、同僚その他の言説のことではない。
現実の社会に日々起こる物事を、根本から自分で考える態度のことである。

昭和の時代、司馬某という新聞記者上がりの作家が売れて、売れすぎて、国民の常識にまでなった。ある種の危険な扇動者でもあった。
どんな常識かといえば、日清や日露の戦争までの日本人は偉かった。明治維新は立派だった。吉田松陰坂本龍馬等々は維新の英雄である、とかの決めつけである。
しかし、考え方によっては、坂本龍馬らは、英国に唆された若手のテロリスト達だったという見方もある。
明治維新がそんなに偉いことなのか。鎖国と呼ばれている状態が、日本にとって悪かったのだろうか。徳川の治世は日本の幸福な時代ではなかったろうか。

何事も、多面的に考えなければ、結論は出ない。長い年月を書物とともに体験しなければならない。

誰かの口真似で信じ込むことは危険である。新聞テレビ雑誌は他人の考えである。自分に都合よい言説を押し売りする。国民はそれを喜んで買うのである。
だから、古人は、新聞は国を滅ぼす。一度ならず二度三度と滅ぼすだろう、と言ったのである。

明治の人が日本人なら、江戸も鎌倉も、平安時代も日本人である。
日本には日本の教育がある。みだりに変えるのは心なき業である。

 

 

〇 原典が一番わかりやすい。紹介本などは時間の無駄である。

フランス革命の省察

フランス革命の省察

 

 

 

 

 

教員を匿名メールで潰すには。教員の謝罪は、親の喜び。

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教員に対して、子供の親が、
「あれはどうなんでしょう」
「何々については、どうかと思いますが」
「うちの子の言うことなんですが、先生は何々だそうで」などと、要求とも催促とも不満とも受け取れるようなことを言う場合がある。教員にとっては些細な問題でも、親にとっては大問題である。
鋭敏な教員なら、親の本音を見抜いて対処する。

どう対処するのか。
言い分を認めて、謝ることである。形だけでも謝っておけばいいものを、つい反論する。
これがよくない

親と議論してもはじまらない。親は、教員が「謝る」ことを期待している。
我が子の担任が、自分に対して、頭を下げたという事実が、大切なのである。そこにカタルシスが生まれ、優越感が生まれ、喜びが生まれる。意識下の「甘え」が充足されることで、精神の高揚が生まれる。

「謝罪」は、お調子者の政治屋や、マスコミ人、バラエティニュースショウの司会者等だけの特権ではないのである。

こんな身近にも、謝罪要求はある。
そうしてみると、私達の風土は、つくづく、人が人に対して謝ることを欲している。自分が謝ることも、他人が謝るのを見ることも、大好きなのである。


ところで、教員から謝罪を引き出すのは、簡単である。

電子メールで、あることないこと非難すればいい。宛先はもちろん、所轄の教育委員会である。いまどき、どんな地方でも、教育委員会はホームページを持っている。
都道府県にも、ことごとくホームページがある。知事や市長の顔を自慢そうに載せて、「ご意見はこちら」なんてやってる。

そこに匿名のメールを送りつける。
どこそこの学校の某教員は、何々でけしからん、だの、うちの子供の心が傷ついた、だの、授業が活発でない、だの、教員がこんなことを言った、こんなことをやっている、等々、非難する種は、いくらでもある。
およそどんな事柄も、立場や気分や見方によって、何とでも言える。

気の毒なのは現場教員である。よかれと思って熱心にやっても、逆恨みされる。
教員は、親のご機嫌を取るのはもちろんのこと、児童生徒のご機嫌を損なわないように戦々恐々の毎日である。


各地の教育委員会都道府県が、保護者の意見を聞くために、掲示板を開いている。
そこにある意見は、ほとんどの場合、対象である学校や教員への中傷である。以前は教員組合潰しのために、個別の教員批判を、行政自治体は歓迎した。組合が潰れたも同様の現在では、案の定、自治体の掲示板は過疎ってしまった。

掲示板の実態は、書き手自身の問題の投影に過ぎないことが多かった。
自分自身が不平不満不安を抱えていて、それを学校、特に教員にぶつけることで、いくばくかの平安を得るのである。

その証拠は、伸び伸びと勉強している子供の親は、現状に満足し、教員や学校に対して、感謝とまではいかなくても、少なくとも肯定の感情を持つ。
子供の状態が、親の期待や理想と著しく離れていたら、そんなはずはない、それは自分以外のどこかに、原因があるはずだ、と親は考える。
昔の親は、謙虚に我が身を反省した。
今はしない。
しないどころか架空の犯人を見つけることに躍起となる。とりあえず、教員を犯人にする。

通報は実に効果的である。教員や学校や教育事務所を震え上がらせることができる。
教育は、困難な時代になった。そしてますます効果が上がらなくなった。
自業自得である。

小中学生の間は、家庭が大切なことはもちろんだが、中でも母親の役目が非常に大きい。
子供が精神的に不安定な場合、そのほとんどの原因は母親にある。ごくまれに、祖母にある。
父親が仕事や家庭生活で精神的に乱れていたとしようか。それでも、母親が安定していれば、子供は大きく崩れない。その逆に父親が安定していても、母親が不安定ならば、崩れることが多い。
子供にとって母親の役目は絶対的で、最後のよりどころである。母親の精神的な動揺は、子供にすぐに反映される。

いわゆる不登校も、その原因のほとんどは怠業(なまける)なのだが、不思議なことに、母親は、怠業の事実を認めたがらない。
おそらく不登校の真の原因の多くが、自分にあることを直感的に気づいているからだろう。なにかと理由付けをして、子供と向き合おうとせずに、外部に原因を捜そうとする。

ご存知のように、マスコミは金を払ってくれる者の味方である。
新聞は購買者に、テレビは視聴者に、媚びを売るのが商売だから、親や子供におもねって、おもしろおかしい適当な情報を流す。
ますます親子は増長する。不幸なことである。

多くの中学校では、指導要領改変が、これまでの指導要領に比べて質量ともに大幅に低下(あるいは量のみ増加)しているのにもかかわらず、ますます授業が成立しにくくなっている。
行政は、常に現場の邪魔をする。指導要領改変が吉と出たことは、一度もない。これからもないだろう。

中学校での授業不成立の大きな原因は、一部の子供の態度が非常に悪いことだ。まじめに学習しようとする多くの生徒の邪魔をする。
その一方、教員は、態度の悪い、問題ばかり起こす生徒にかかりっきりになる。落ち着いた授業をすることができない。
そうでなくても、授業から厳しさがなくなっている昨今、我儘な子供は、やりたい放題である。

教員は、子供を恐れ、その背後の親を、恐れなければならない。
教育委員会、教育事務所の職員も、納税者兼選挙民である親には、全然頭が上がらない。
頭が上がらないというポーズをとらなければ、「公僕」であるという建前上、自分の仕事や将来らしきものに支障が出る。その代わり、陰で、ちゃっかり意地悪をする。

子供も親も、怖いものや遠慮しなければならないものがなくなった。
だからこそ、母親の覚悟が大切だ。
子供と一緒に、幼稚なレベルで、学校を非難し、甘えた不平家の立場をとるのか、それとも、子供に、守るべき節度を躾けることができるのかで、子供の成長を大きく左右する。
以上は、当然のことではあるが。