ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

とんでもない中学校の運動会。親と子と教員の「甘い関係」。

f:id:paruru236:20170216205733j:plain

中学校(A校)の運動会(体育祭)に行った。

いやはやとんでもない運動会だった。テントは本部席と称する中央の一つだけ、運動場には大きな円らしきものが、ぐにゃぐにゃの白線で引いてある。
生徒達は甲高い放送部の女子生徒の声で、なんとなく集まったり走ったりしている。種目は障害物競走、かけっこ、騎馬戦のようなものである。そのだらしのなさと、規律のないこと、漫然たる雰囲気、まったくあきれて、ものが言えない。

練習した風にも思えず、ただ体育祭という行事をこなすために、日曜日の午後、運動場でぶらぶらしているだけである。これを保護者はなんと思って見ているのだろう。案の定、全校生徒の3割も保護者が来ていない。来ている親たちは、運動場を囲んで、所在なげに立って見ている。憤慨するでもない。慣れっこなのであろう。

隣町の中学校(B校)の運動会と何という差であろうか。
そこでは、多くのテントが立ち並び、各地区ごとに区分けされ、セパレートコースが美しく引かれており、種目も盛りだくさんで、練習の成果よろしい表現運動や組み体操があった。保護者も、全校生徒以上の人数が集まり、地域の参加もあって、やんやの応援である。

この違いはどこから来るのだろうか。

教員のやる気である。

A校の教員はやる気がない。保護者も、学校に厳しい注文をつけない。ただ漫然と通わせている。
A校の立地条件は、小高い丘の上にあって、学習活動が、まったく地域の目から隠れたところで行なわれている。
一方、B校は、中学校は団地の谷底にあり、校庭やグランドも、教室の授業も、地域の家々から見下ろせて、監視された状況にある。監視されやすいことが、特に良いわけではないが、学校の教員には、いい加減なことはできないという圧力にはなるだろう。

A校は、毎年、このようなふやけた運動会と聞く。
A校の教員のほとんどは教員組合の熱心な活動家だそうである。
組合活動が盛んな学校では、不思議と、教育がダメになる傾向がある。伝統文化の勉強も、日本人の誇りの育成も、学習規律の徹底も、大嫌いだからだろう。
生徒もやる気を起こさないはずである。

イェーリングの『権利のための闘争』の冒頭に、「法の目的は平和であり、それに達する手段は闘争である」という文句がある。これを、もじるなら「教育の目的は、学力の向上であり、それに達する手段は、(教員に対する)闘争である」というのは言い過ぎだろうか。
中学校のだらしのない体育祭も、ついでに乱れた授業風景も、親と教員と子供との、甘い共同作業の結果なのかもしれない。