ぱるるの教育批評

教育、受験、学校その他あれこれ

担任の当たり外れは、子供の進路を左右する、と。 授業参観は、子供の発表会ではない。教員の腕を見せろ。

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子供は学校で学んで、学力が向上する。これは当然のようだが当然ではない。教員によって、子供の伸びが、ずいぶん違う。

知人の二人の子供(4年生と6年生)を例とする。

4年生の担任は、確固とした指導観を持っているようだ。子供たちに遠慮会釈なく学力向上のための方策を示し、ときとして強引とも思えるやり方ではあるが、実際に子供の学力が伸びている。
先日はパソコンの授業で、文章入力をあっという間に全児童に教え込んだ。漢字、朗読、作文、計算力と、いずれも目覚ましい進歩である。授業で、子供扱いをしない。学問をする人格ととらえている。

一方、6年生の担任は、連絡ノートに何かと励ましやら説教やらの短文をくだくだしく書くのは熱心である。肝心の授業が一向に進んでいない。
あと数日で夏休みが始まるという時期であっても、学習計画の半ばも進んでいない。学級の子供は、さほど知的に刺激を受けているとも思われない。この教員は、「仲良く、思いやり」などと空論を言うのが好きである。黒板の上には「みんないっしょに」とかの張り紙がある。
いつも「帰りの会」が長引き、説教と反省との繰り返しである。組合の熱心な活動家である。教室は、いつも騒然として、まとまりがない。


ところで、私は教職員組合を批判はしない。学習指導要領を元にして(それ以上に)、子供の学力を向上させる授業を進めるのならば、文句はない。
日教組だろうと全教だろうと、勝手にするがいい。

だが現実はどうか。人権だの平和だのに力瘤が入っている教員は、ご立派な言葉を吐くが、題目ばかりで、子供に、事実として学力をつけていない。それを指摘すると、「学級で学習の一番遅れがちな子供に合わせている」と、答えが返ってくる。
しかしこれは変ではないか。一番後れがちな子供に合わせていたら、学級全体が停滞する。しかも、その「遅れがちな子供」が、さほど熱心に勉強に取り組んでいるようには見えない。だらしないだけのようである。これでは話にならない。
要するに怠け者の味方なのである。怠け者に基準を置くと、実は教員が一番楽なのである。怪しげな「子供の実態」云々を、同和教育とリンクさせて、大声で叫んでいさえすれば、教員の怠惰や、実力不足を、塗布できる。

子供の学力を、現実に向上させようとすると、教員は生半可な気持ちではいられない。知性らしきもの、教養のようなもの、持っているはずの学力、気力、授業技術など、すべてが要求される。それが、教員は、嫌なのである。

だから、「遅れがちな子を中心に」とか、「平和教育が大切」とか、「子供の人権を」と、ご熱心そうな素振りを見せる。
これらは、同和教育の一環として、一種のタブーの「お言葉」だから、それを口走っている限りは、誰も文句のつけようがない。

こうして、ぬくぬくと不勉強なままで毎日を過ごし、当然のように、学級の子供も、勉強をしない。
これもまた、人生であろうか。担任の当たり外れは、実にその子の一生を決定する要因の大きな一つである。恐るべし。

さて、たまには参観日に行くとよい。担任の授業を見れば、今言ったほどのことが、たちどころにわかるだろう。

授業が、子供の発表ばかりでは、その教員の力は、たいしたものではない。
子供に発表させると、発表した子の親は、とりあえずは喜ぶ。それをねらった姑息な手段である。
授業参観日は、勉強が好きでもない「ぼんくら息子やぼんくら娘」に、教員がどのようにして教科内容を教えていくのか、それを見るためにある。

だから、教員が七転八倒し、孤軍奮闘し、なんとか理解させようと、あの手この手で苦労しているところを、親は見に来たのである。
テレビバラエティ番組よろしく、「やらせ」のような下手な発表会を見に来たのではない。

教員の教え方が下手でも、仕方がない。すぐに辞めろとは言わないし、言えない。そんなことを言っていたら、教員に限らず、世間の職業人の大部分は、即刻、職を辞さなければならなくなる。
みんな、あっぷあっぷで仕事(らしきもの)をしているのである。
教員は、自意識過剰である。または、被害者意識が強すぎる。

あるべき参観授業は、次のようなものである。

できれば、新しい単元で、子供がよく理解できそうもない内容を、取り扱っている授業がいい。子供の発表なんて全然必要ない。黙って学ばせろ。
子供が黒板に出て実際に課題を解く場面も必要だ。ノートをきちんと書かせることも必要条件である。教員が持てる能力で、参観者を圧倒するくらいでちょうど良い。
力ある教員は、このような授業を、あえて人目にさらそうとする。
だからこそ、大きな顔で「教員」と言えるのである。

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上記は、以前書いたものだが、当今は事情が違う。

教員にそこまで求めるのは酷である。第一、各々の子供には事情がある。環境の違いがあり、個人の能力差がある。

そしてそれは、アメリカの後を追って「格差社会」に確実になるであろう日本の、すべての人々に、厳しい現実となってのしかかる。

もはや教員の問題ではない。時代だろう。